各時代の大争闘

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第27章 リバイバルと清め

罪の自覚と悔い改め

神の言葉が忠実に説かれたところではどこでも、それが神から出たものであることを証明する結果が伴った。神の霊が、神のしもべたちのメッセージに伴い、その言葉には力があった。罪人は、良心が目覚めるのを感じた。「すべての人を照すまことの光があって、世にきた。」その光が、彼らの心の密室を照らし、隠された暗黒のことをあらわした。彼らの心は、深い感動を受けた。彼らは、罪と義と、来たるべきさばきとについて、目を開かれた。彼らは、主の義を認め、自分たちの罪と汚れのまま、心をさぐられる方の前に出ることを恐れた。彼らは、苦悶の声をあげて、「だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」と叫んだ。人間の罪のために無限の犠牲が払われたカルバリーの十字架が示された時、彼らは、自分たちの罪を贖い得るものは、キリストの功績以外にないことを悟った。ただこれだけが、人間を神に和解させることができるのであった。信仰をもって謙遜に、彼らは世の罪を取り除く神の小羊を受け入れた。イエスの血によって、彼らは、「今までに犯した罪のゆるし」を得た。 GC 1819.4

この人々は、悔い改めにふさわしい実を結んだ。彼らは信じてバプテスマを受け、キリスト・イエスにあって新しく造られた者として、新しい生活を始めた。彼らは以前の欲に従うことなく、神のみ子を信じる信仰によって、み足の跡に従い、主の品性を反映し、主が清くあられるように自分たちも清くなろうとした。彼らは、かつて憎んだものを愛し、愛したものを憎むようになった。高慢で自負心の強い者は、柔和で謙遜になった。虚栄心があっておうへいな者は、まじ めでひかえ目になった。低俗な者は敬虔に、酒のみは謹直に、そして放蕩者は純潔になった。世俗のむなしい流行は、放棄された。 GC 1819.5

キリスト者は、「髪を編み、金の飾りをつけ、服装をととのえるような外面の飾りではなく、かくれた内なる人、柔和で、しとやかな霊という朽ちることのない飾りを」求めた。「これこそ、神のみまえに、きわめて尊いものである」(Ⅰペテロ3:3、4)。 GC 1820.1

リバイバル(信仰復興)は、深い内省と謙遜をもたらした。罪人に対しては厳粛熱心に訴え、キリストの血による贖いに対しては憐れみを求めるのが、リバイバルの特徴であった。男も女も、魂の救いのために、神に祈り神と格闘した。こうしたリバイバルの結果、克己と犠牲をもいとわず、むしろキリストのためにそしりと試練を受けるに足る者とされたことを喜ぶ者たちが現れた。人々は、イエスの名を告白する者たちの生活が変化したことを認めた。社会は、彼らの感化によって益を受けた。彼らは、キリストとともに集め、永遠の生命を刈り取るために霊にまいた。 GC 1820.2

彼らについては、「悲しんで悔い改めるに至った」と言うことができる。「神のみこころに添うた悲しみは、悔いのない救を得させる悔改めに導き、この世の悲しみは死をきたらせる。見よ、神のみこころに添うたその悲しみが、どんなにか熱情をあなたがたに起させたことか。また、弁明、義憤、恐れ、愛慕、熱意、それから処罰に至らせたことか。あなたがたはあの問題については、すべての点において潔白であることを証明したのである」(Ⅱコリント7:9~11)。 GC 1820.3

これは、神の霊の働きの結果である。改革が行われないようなら、真の悔い改めとは言えない。もし罪人が、質物を返し、奪った物をもどし、罪を告白し、神と同胞を愛するならば、彼が神と和らいだことは確かである。昔は、宗教的覚醒が起きた時には、それに伴って、このような結果が生じた。そうした実から判断して、それらは、人々の救いと人類の向上のために神の祝福を受けたものであることが明らかになった。 GC 1820.4