各時代の大争闘

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第22章 預言の成就と大いなる試練

1844年当時の再臨信徒

主の再臨を最初に期待していた時——すなわち1844年の春——が過ぎた時、主の出現を信仰をもって待望していた人々は、しばらくの間、疑惑と不安に閉ざされた。世は、彼らが全く敗北し、妄想にとりつかれていたことを証明したと考えたが、しかし彼らの慰めの源は、なお神の言葉であった。多くの者は、聖書の研究を続け、自分たちの信仰の証拠を改めて吟味し、注意深く預言を学んで、もっと光を受けようとした。彼らのとった立場を支持する聖書の証言は、明白で決定的であった。まちがう余地のないいくつかのしるしが、キリストの再臨の近いことを示していた。罪人の悔い改めとキリスト者の霊的生命のリバイバルという両面における主の特別な祝福は、その使命が神からのものであることをあかししていた。そして信徒たちは、自分たちの失望を説明することはできなかったけれども、これまでの経験において神の導きがあったことを確信した。 GC 1784.14

彼らが再臨の時にあてはまると考えた預言の中には、彼らの不安と気がかりな状態に対して特にあてはまる教訓があった。そしてそれは、今はわからないことでも、やがて明らかにされるという信仰をもって耐え忍んで待つようにと、彼らを励ますものであった。 GC 1784.15

これらの預言の中に、ハバクク2:1~4の預言があった。「わたしはわたしの見張所に立ち、物見やぐらに身を置き、望み見て、彼がわたしになんと語られるかを見、またわたしの訴えについてわたし自らなんと答えたらよかろうかを見よう。主はわたしに答えて言われた、『この幻を書き、これを板の上に明らかにしるし、走りながらも、これを読みうるようにせよ。この幻はなお定められたときを待ち、終りをさして急いでいる。それは偽りではない。もしおそければ待っておれ。それは必ず臨む。滞りはしない。見よ、その魂の正しくない者は衰える。しかし義人はその信仰によって生きる』。」 GC 1784.16

「この幻を書き、これを板の上に明らかにしるし、走りながらも、これを読みうるようにせよ」というこの預言の指示は、早くも1842年に、ダニエル書と黙示録の幻を説明する図表の作製をチャールズ・フィッチに思いつかせていた。この図表の発表は、ババククによって与えられた命令の実現であると考えられた。しかし、幻の成就には一見遅延——時期が遅れること——があるということが同じ預言の中に示されていることに、その時だれも気づかなかった。失望後、この聖句は非常に意味深く思われた。「この幻はなお定められたときを待ち、終りをさして急いでいる。それは偽りではない。もしおそければ待っておれ。それは必ず臨む。滞りはしない。……義人はその信仰によって生きる。」 GC 1784.17

また、エゼキエルの預言の一部が信徒にとって力と慰めの源となった。「主の言葉がわたしに臨んだ、『人の子よ、イスラエルの地について、あなたがたが「日は延び、すべての幻はむなしくなった」という、このことわざはなんであるか。それゆえ、彼らに言え、「主なる神はこう言われる、……日とすべての幻の実現とは近づいた」と。……わたしは、わが語るべ きことを語り、それは必ず成就する。決して延びることはない。』」「イスラエルの家は言う、『彼の見る幻は、なお多くの日の後の事である。彼が預言することは遠い後の時のことである』と。それゆえ、彼らに言え、主なる神はこう言われる、わたしの言葉はもはや延びない。わたしの語る言葉は成就すると、主なる神は言われる」(エゼキエル12:2Ⅰ~25、27、28)。 GC 1784.18

待っていた人々は、初めから終わりのことを知っておられる方が、各時代を見通し、彼らの失望を予見して、勇気と希望の言葉を与えておられたことを信じて、喜んだ。忍耐して待ち、神の言葉を堅く信じることを教えるこうした聖書の言葉がなかったならば、彼らの信仰は、この試練の時にくじけてしまったことであろう。 GC 1785.1