各時代の大争闘

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各時代の大争闘

罪がこの世にはいる前には、アダムは創造主と分け隔てのない交わりをしていた。しかし人間が罪を犯して神から離れてからは、人類はこの尊い特権から切り離されてしまった。しかし、救済の計画によって、地上の住民がなお天とのつながりを保つ道が開かれた。神は、聖霊によって人間と交わり、選ばれたしもべたちの啓示によって天来の光を世にお与えになった。人々は、「聖霊に感じ、神によって語った」のである(Ⅱペテロ1:21)。 GC 1591.1

人類歴史における最初の2500年間は、書かれた啓示というものはなかった。神から教えられた人々が、その知識を他の人々に伝え、それが父から子へと、次の世代に伝えられていった。神のみことばを書きしるすことは、モーセの時代に始まった。霊感による啓示は、その時霊感の書の中に書きあらわされた。この働きは、創造と律法についての歴史家であるモーセから、福音の最も崇高な真理を記録したヨハネにいたるまで、1600年の長い間にわたってつづけられた。 GC 1591.2

聖書は、神をその著者として指し示す。しかし、それは人間の手で書かれた。そしてその種々の書の異なった文体は、それぞれの記者の特徴をあらわしている。そこにあらわされている真理は、みな「神の霊感を受けて書かれたものであ」るが、それは人間のことばで表現されている(Ⅱテモテ3:16)。限りなきお方である神は、聖霊によって、ご自分のしもべたちの心と頭に光をお与えになった。神は、夢とまぼろしと象徴をお与えになった。そして、このようにして真理を啓示された人々は、その思想を人間のことばであらわしたのである。 GC 1591.3

十戒は、神ご自身によって語られ、神ご自身の手によって書かれた。それは神がおつくりになったものであって、人間のつくったものではない。しかし、神から与えられた真理が人間のことばに表現されている聖書には、神的なものと人間的なものとの結合がみられる。このような結合は、神の子であると同時に人の子であったキリストの性質の中にもあった。このように、「言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った」ということは、キリストご自身についてと同様に、聖書についても言えるのである(ヨハネ1:14)。 GC 1591.4

聖書は、時代が異なり、身分や職業、また知的霊的な才能も広く異なっている人々によって書かれたので、その中の諸書は、そこに示されている主題の性質が異なっていると同時に、その文体にもいちじるしい対照がみられる。それぞれ異なった記者によって、それぞれ異なった表現形式が用いられている。同じ真理を、ある記者は他の記者よりも特にめだって強調していることがよくある。幾人かの記者が、異なった角度と関連から1つの主題を示しているので、浅薄に、不注意に、あるいは偏見をもって、これを読む者には、相違や矛盾があるように思われるかも知れないが、思慮深い、敬虔な者が、はっきりした眼でこれを読めば、その根底には調和があることに気づくのである。 GC 1591.5

真理は、いろいろな人によってあらわされているので、いろいろな角度から示されている。ある記者は問題のある一面に特に強い感動を受けている。彼は、自分の経験や自分の知覚力、認識力に合う点を把握している。またある者は、これとは異なった一面を把握している。そしておのおのは、聖霊のみちびきのもとに、自分の心に最も力強く訴えるものを示しているのである。すなわち、それぞれに真理の異なった一面をもっているが、しかしそこには、全体を通じて完全な調和がみられるのである。このようにしてあらわされた真理は、結合して完全な全体を構成し、人生のあらゆる境遇と経験の中にある人々の要求にこたえるのに適したものとなっているのである。 GC 1591.6

神は、ご自分の真理を、人間を通して世にお伝えになった。そしてご自分の聖霊によって、人々に、この働きをなす資格と能力をお与えになった。神は人を導いて、語るべきことと書くべきこととを選ばせられた。宝は土の器である人間に託されたが、しかしその宝 が天来のものであることにはかわりがない。あかしは、人間のことばという不完全な表現を通して伝えられたが、しかしそれは神のあかしてある。神を信ずる従順な子らは、その中に、恵みとまこととに満ちた、神の力の栄光を見るのである。 GC 1591.7

神は、みことばを通して、救いに必要な知識を人間にお与えになった。われわれは、聖書を、神のみこころについての権威ある、まちがいのない啓示として受けとらねばならない。聖書は品性の規準であり、教理を示すものであり、経験を吟味するものである。「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである」(Ⅱテモテ3:16、17)。 GC 1592.1

しかし、神がみことばを通してみこころを人間に啓示されたからといって、聖霊のたえざる臨在とみちびきが不要になったわけではない。それどころか、聖霊は、みことばを神のしもべたちに開き、その教えを解明して実行に移させるために、救い主によって約束されたのである。しかも、聖書に霊感を与えたのは聖霊だったのであるから、聖霊の教えがみことばの教えと相反するということはあり得ないのである。 GC 1592.2

聖霊は、聖書にとって代わるために与えられたのではないし、また、そのようなものとして与えられるはずもないのである。なぜなら、神のみことばは、すべての教えとすべての経験を吟味する標準であると、はっきり聖書に述べられているからである。使徒ヨハネは言っている。「すべての霊を信じることはしないで、それらの霊が神から出たものであるかどうか、ためしなさい。多くのにせ預言者が世に出てきているからである」(Ⅰヨハネ4:1)。そしてイザヤは、「ただ律法(おきて)と證詞(あかし)とを求むべし、彼らのいうところこのことばにかなわずば、晨光(しののめ)あらじ」と宣言している(イザヤ8:20文語訳)。 GC 1592.3

一部の人々が、自分たちは聖霊の光を受けたから、もはや神のみことばによってみちびかれる必要はないと公言するような誤りを犯しているために、聖霊の働きについて大きな非難が投げかけられている。こういう人々は、自分の印象に支配され、それを魂に語る神の声とみなしている。しかし彼らを支配しているのは、神の霊ではない。このように、心の印象に従って、聖書を無視することは、混乱と欺瞞と滅亡に陥るだけである。それはまた、サタンの計画を助けるだけである。聖霊の働きはキリストの教会にとって非常に重要であるために、極端な人々や狂信的な人々の誤りを通して、聖霊の働きを軽べつし、主ご自身がおうえになったこの力の源を神の民に無視させるのが、サタンの策略の1つなのである。 GC 1592.4

聖霊は、神のみことばと調和して、新約時代にその働きをつづけるのであった。旧新約聖書が与えられつつあった時代に、聖霊は、聖書の中にあらわされるはずの啓示とは別に、個々人の心に光を与えることをやめなかった。聖書として与えられるものとは無関係な事柄において、人々が聖霊を通して警告と譴責と勧告と教えを受けたことが、聖書自体の中に述べられている。また、その語ったことばが記録されていない各時代の預言者の名もあげられている。同様に、聖書が完成されてからも、聖霊は、依然としてその働きをつづけ、神の民を照らし、警告し、慰めるのであった。 GC 1592.5

イエスは弟子たちに、次のように約束された。「助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。」「真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは……きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう」とお約束になった(ヨハネ14:26、16:13)。これらの約束は、使徒時代に限られるのではなく、各時代のキリスト教会にまで及ぶものであることを、聖書ははっきり教えている。救い主は、ご自分に従う者たちに、「わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」と保証しておられる(マタイ28:20)。パウロもまた、聖霊の賜物とその力のあらわれが教会に与えられたのは、「聖徒たちをととのえて奉仕のわざをさせ、キリストのからだを建てさせ、わたし たちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至」らせるために、みたまの賜物と啓示が教会内に与えられたと宣言している(エペソ4:12、13)。 GC 1592.6

エペソの信者たちのために、使徒パウロは、「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、知恵と啓示との霊をあなたがたに賜わって神を認めさせ、あなたがたの心の目を明らかにして下さるように、そして、あなたがたが神に召されていだいている望みかどんなものであるか、……また、神の力強い活動によって働く力が、わたしたち信じる者にとっていかに絶大なものであるかを、あなたがたが知るに至るように」と祈った(エペソ1:17~19)。パウロがエペソの教会のために、このように祈り求めた祝福というのは、人々の理解力を照らし、神の聖なるみことばのうちにある深い事柄を心に開き示すための、聖霊の働きであった。 GC 1593.1

ペンテコステの日、聖霊の驚くべき力の顕現の後で、ペテロは、人々に、罪の赦しを得るために、悔い改めてキリストの名によってバプテスマを受けるようすすめ、「そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう。この約束は、われらの主なる神の召しにあずかるすべての者、すなわちあなたがたと、あなたがたの子らと、遠くの者一同とに、与えられているものである」と言った(使徒行伝2:38、39)。 GC 1593.2

神の大いなる日の光景と直接関連して、主は、預言者ヨエルによって神の霊の特別なあらわれを約束しておられろ。「その後わたしはわが霊をすべての肉なる者に注ぐ。あなたがたのむすこ、娘は預言をし、あなたがたの老人たちは夢を見、あなたがたの若者たちは幻を見る」(ヨエル2:28)。この預言は、ペンテコステの日に聖霊がくだったことによって、部分的な成就をみた。しかしそれは、福音の最後の働きに伴う神の恵みのあらわれにおいて、完全に成就するのである。 GC 1593.3

善と悪との大争闘は、時の終わりにいたって、ますます激しさを加えるのである。すべての時代において、サタンの怒りはキリストの教会に向けられてきた。そして神は、ご自分の民がサタンの勢力に対して強く立つことができるように、恵みと霊を与えてこられた。キリストの使徒たちが、福音を世界に伝え、またそれを将来の時代のために記録しなければならなかった時、彼らは聖霊による光を特別に与えられた。しかし、教会が最後の救いに近づくにつれて、サタンはますます強い力をもって働くのである。彼は、「自分の時が短いのを知り、激しい怒りをもって」やってくるのである(黙示録12:12)。彼は、「あらゆる偽りの力と、しるしと、不思議」をもって働く(Ⅱテサロニケ2:9)。かって神の天使の中で最高の地位にあった偉大な頭脳の持ち主が、6000年の間、欺瞞と滅びの働きに全力をかたむけてきた。この長年の争闘の間に、サタンが身につけた腕前と狡滑さ、またその間にますますひどくなった残虐さの、あらんかぎりをつくして、彼は最後の争闘において神の民に迫るのである。この危機の時に当たって、キリストに従う者たちは、主の再臨の警告を世に伝えねばならない。そして民は、キリストがおいでになる時、「しみもなくきずもなく」彼の前に立つことができるように、備えをしなければならない(Ⅱペテロ3:14)。今日、神の恵みと力が特別にさずけられることは、使徒時代に劣らず必要なのである。 GC 1593.4

長年つづけられている善と悪との争闘の場面は、聖霊の光によって、本書の著者に示された。時々わたしは、生命の君であり、救いの創始者であるキリストと、悪の君であり、罪の創始者であり、神の聖なる律法を初めて破った者であるサタンとの間の、各時代の大争闘の経過を見せられた。キリストに対するサタンの敵意は、キリストに従う者たちにも向けられてきた。サダンは、神の律法に対する憎しみと欺瞞的策略によって、誤謬を真理に見せかけ、神の律法を人間の律法と取り替え、創造主よりも被造物のほうを人々に拝ませるのであるが、そうした憎しみや策略は、過去のすべての全歴史の中に見られるのである。神の品性について誤った印象を人にあたえ、創造主についていつわりの観念を人にいだかせ、こうして愛よりはむしろ恐怖と憎しみをもって神を見させよ うとするサタンの努力、また、神の律法を捨てて、その要求から解放されたと人々に考えさせようとするサタンの努力、そして、彼の欺瞞に抵抗しようとする者に対する迫害などが、各時代にわたって着々とつづけられてきた。こうしたことは、父祖たち、預言者たち、使徒たち、そして殉教者たちや宗教改革者たちの歴史の中にみられるのである。 GC 1593.5

最後の大争闘において、サタンは同じ政策を用い、同じ精神を発揮して、過去のすべての時代と同じように、同じ目的のために働くのである。これまでに見られたことが、これからも見られるであろう。ただ異なるところは、きたるべき争闘が、かつて世にみられなかったほどの恐ろしい激しさをもったものであるということである。サタンの欺瞞はもっと巧妙になり、彼の攻撃はもっと断固たるものとなる。彼は、もしできるなら、選民をも惑わそうとするであろう(マルコ13:22参照)。 GC 1594.1

神の霊がわたしの心に、神のみことばの大いなる真理を開き、過去と未来の光景を示された時、わたしは、過去の争闘の歴史をたどるために、そして特に、急速に近づいている未来の争闘に照明を当てるために、自分にこのように示されたことを他の人々に知らせるよう命じられた。この目的を果たすにあたって、わたしは、各時代に世に与えられた大いなる試金石としての真理をたどることができるように、教会歴史における事件を選んでこれを分類した。この真理こそは、サタンの怒りと、世俗を愛する教会の敵意をひきおこし、しかも「死に至るまでそのいのちを惜しまなかった」人々によって維持されてきたものである(黙示録12:11)。 GC 1594.2

こうした過去の記録の中に、われわれは、われわれの目の前にある争闘があらかじめ示されているのを見ることができる。これらをみ言葉の光と聖霊の解明とによって見る時に、われわれは悪魔の策略を見破ることができ、そして、再臨の時に主の前に「傷なき者として」立つ者が避けなければならない危険をも、見分けることができるのである。 GC 1594.3

過去の宗教改革運動において起こったいくつかの大事件は、歴史的事実であって、プロテスタントの世界によく知られ、あまねく認められている。これらは、だれも否定することのできない事実である。著者は、簡潔を旨とする本書の扱い得る範囲内で、この歴史を短く述べた。各事実は、その適用の十分な理解を妨げない程度に縮めて簡単に書かれている。また、歴史家が諸事件を短くまとめて、問題の総合的観察を行い、要領よくその細かい部分を要約している場合には、その言葉を引用した。その際必ずしも出所を明示しなかったが、それは、その言葉を引用したのはそれらが主題を巧みに力強く提示していたからであって、その筆者を権威として引用することが目的ではなかったからである。現に改革運動を推進している人々の経験や意見を述べる場合にも、その著作について同様の取り扱いをした。 GC 1594.4

本書の目的は、過去の争闘に関する新しい事実を提示することよりも、むしろ未来の諸事件に関する事実と原則とを明らかにすることにある。しかし、こうした過去のすべての記録を、光と暗黒との間の争闘の一部分として見る時、そこには新しい意義が認められるのである。そして、これらの諸事件は、未来に光を投げ、過去の改革者たちのように、神の召しを受けて、この世のすべての幸福を犠牲にしても「神の言葉とイエス・キリストの証のために」立つ人々の道を、照らすのである。 GC 1594.5

真理と誤謬との問の大争闘の模様を解明すること、サタンの策略を明らかにし、これに抵抗して勝利する方法を示すこと、神は正義と慈愛をもって被造物を取り扱われるということが明らかになるよう、罪の起源とその最終的処置に関して光を投げかけつつ、悪という大問題に満足のゆく解決を与えること、そして神の律法が聖であって不変のものであることを明示すること——これらが本書の目的である。人々が、本書によって、闇の力から救われ、「光のうちにある聖徒たちの特権にあずかるに足る者」となり、われわれを愛し、われわれのためにご自身をささげられた方を賛美するようになろことを、著者は心から祈っている。 GC 1594.6