患難から栄光へ
第58章 真理は勝利する
使徒たちがその働きの手を休めてから、18世紀以上の年月が過ぎた。だが、彼らがキリストのために働き、犠牲を払ったその歴史は、いまだに尊い宝として教会に残っている。聖霊の導きによって書かれたこの歴史は、各時代のクリスチャンが一層強い熱情にかられて真剣に救い主のみわざに携わることができるように記録された。 AA 1582.9
弟子たちは、キリストから与えられた任務を果たした。十字架の使命者たちが出かけて行って福音を宣べ伝えた時、かつて人間が見たことのないほど神の栄光があらわされた。聖霊の協力によって、使徒たちの働きは世界を動かした。わずか一世代のうちに福音はすべての国々に行き渡った。 AA 1582.10
キリストに選ばれた使徒たちの働きは、輝かしい成果を伴った。彼らが働きを始めた時、ある者は無学であったが、主のみわざに全的に献身し、キリストの指導を受けて、ゆだねられた大きな働きのために準備したのである。恵みと真理は彼らの心を満たし、動機を与え、彼らの行動を支配した。彼らのいのちはキリストと共に神のうちに隠され、自己が姿を消し、無限の愛の深みに沈んだ。 AA 1582.11
弟子たちは、誠実に語り祈る方法を知っている人たちであり、「イスラエルの栄光」の力をつかむことができる人たちであった。彼らは神のそば近くに立ち、彼らの栄誉をみ座に結びつけた。エホバは彼らの神であった。神の栄誉は彼らの栄誉であった。神の真理は彼らの真理であった。福音に向けられる攻撃は、彼らの心に深く切り込むようなものであった。そして彼らは全力をつくしてキリストのみわざのために戦った。彼らはいのちのみことばを提示することができた。なぜなら彼らは、神から聖別されていたからである。彼らは多くを期待して、それゆえに多くを試みた。キリストはご自身を彼らに現された。そして彼らはキリストから導きを求めた。真理への理解と、 反対によく耐える能力とは、神のみこころへの一致と比例していた。神の知恵であり力であられるイエス・キリストが、あらゆる話の主題であった。キリストのみ名——天下に与えられた、人々を救いうる唯一の名——は、彼らによってあがめられた。彼らがよみがえられた救い主、キリストの完全さを宣べ伝えると、彼らの言葉が人々の心を動かし、人々を福音へと導いた。救い主のみ名をののしり、その力を軽蔑していた多くの人々が今、十字架にかけられた方の弟子であると告白した。 AA 1582.12
使徒たちが、ゆだねられた使命を成し遂げたのは、生ける神のみ力によるものであって、彼ら自身の力ではなかった。彼らの働きはたやすいものではなかった。キリスト教会の初期の働きには困難と深い悲しみが伴った。弟子たちは働きにおいて絶えず窮乏と中傷と迫害に遭遇したが、自分たちのいのちを大事とは思わず、召されてキリストのために苦しむことを喜んだ。彼らの働きに優柔不断、不決断、目的のあいまいさなどはなかった。彼らは喜んで自己をささげ、また、神に用いられることをも喜んだ。自分たちの上に置かれている責任の意識が、彼らの経験をきよめ、豊かにした。そして彼らがキリストのために達成する勝利の中に、天の恵みがあらわされた。神はその全能の力をあらわし、福音を勝利させるために彼らを通して働かれた。 AA 1583.1
キリストご自身が築かれた土台の上に、使徒たちは神の教会を建てた。聖書の中で、神殿建設の姿は、しばしば教会の建設の例として用いられている。ゼカリヤはキリストを、主の宮を建てる「枝」にたとえている。彼はまた、異邦人がこの仕事を助けることについて述べている、「遠い所の者どもが来て、主の宮を建てることを助ける」。またイザヤは、「異邦人はあなたの城壁を築」くと、述べている(ゼカリヤ6:12、15、イザヤ60:10)。 AA 1583.2
ペテロはこの宮の建設について書き、「主は、人には捨てられたが、神にとっては選ばれた尊い生ける石である。この主のみもとにきて、あなたがたも、それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ、聖なる祭司となって、イエス・キリストにより、神によろこばれる霊のいけにえを、ささげなさい」と言っている(Ⅰペテロ2:4、5)。 AA 1583.3
使徒たちは、ユダヤ人の世界と異邦人の世界という石切り場で、土台を築くための採石の仕事をしていた。パウロは、エペソの信者たちに宛てた手紙の中で述べている、「そこであなたがたは、もはや異国人でも宿り人でもなく、聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の家族なのである。またあなたがたは、使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられたものであって、キリスト・イエスご自身が隅のかしら石である。このキリストにあって、建物全体が組み合わされ、主にある聖なる宮に成長し、そしてあなたがたも、主にあって共に建てられて、霊なる神のすまいとなるのである」(エペソ2:19~22)。 AA 1583.4
更に、パウロはコリント人に書いた、「神から賜わった恵みによって、わたしは熟練した建築師のように、土台をすえた。そして他の人がその上に家を建てるのである。しかし、どういうふうに建てるか、それぞれ気をつけるがよい。なぜなら、すでにすえられている土台以外のものをすえることは、だれにもできない。そして、この土台はイエス・キリストである。この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、または、わらを用いて建てるならば、それぞれの仕事は、はっきりとわかってくる。すなわち、かの日は火の中に現れて、それを明らかにし、またその火は、それぞれの仕事がどんなものであるかを、ためすであろう」(Ⅰコリント3:10~13)。 AA 1583.5
使徒たちは確かな土台、すなわちとこしえの岩の上に築いた。彼らはこの土台に、世界から切り出された石を運んできた。建設者たちの働きに障害がないわけではなかった。キリストの敵たちの反対により、彼らの働きは非常に困難になった。彼らはにせの土台の上に築こうとしている者たちの偏狭、偏見、憎悪と闘わなければならなかった。教会の建設者として働いた多くの人たちは、ネヘミヤの時代に城壁を築いた者たちにたとえられる。彼らについては次のように記されている、「荷を負い運ぶ者はおのおの片手 で工事をなし、片手に武器を執った」(ネヘミヤ4:17)。 AA 1583.6
王も為政者も、祭司もつかさたちも、神の宮を破壊しようとした。しかし忠実な人々は、投獄され、拷問にかけられ、死刑にされても働きを進展させた。建物は次第に美しくなり均衡がとれてきた。時には周囲の迷信という霧のために、働き人たちはほとんど目が見えなくなった。また、時には、敵の暴虐に会って敗北しそうになった。しかし彼らはゆるぎない信仰と屈しない勇気をもって、あくまでも働きを推し進めた。 AA 1584.1
最初の建設者らは、次々に敵の手にかかって倒れた。ステパノは石で打たれ、ヤコブは剣で殺され、パウロは首をきられた。ペテロは十字架につけられ、ヨハネは島流しにされた。しかし教会は成長していった。倒れた人たちのあとを新しい働き人たちが受けついで、1つずつ石が加えられていき、こうして神の教会の宮が徐々にでき上がっていった。 AA 1584.2
キリスト教教会の設立のあとに、幾世紀にもわたる激しい迫害の時代が続いたが、神の宮の建設の仕事を生命そのものよりも大事だと思っている人たちに欠けることはなかった。そうしたことについてこう書かれている、「なおほかの者たちは、あざけられ、むち打たれ、しぼり上げられ、投獄されるほどのめに会った。あるいは、石で打たれ、さいなまれ、のこぎりで引かれ、つるぎで切り殺され、羊の皮や、やぎの皮を着て歩きまわり、無一物になり、悩まされ、苦しめられ、(この世は彼らの住む所ではなかった)、荒野と山の中と岩の穴と土の穴とを、さまよい続けた」(ヘブル11:36~38)。 AA 1584.3
義の敵は、神の建設者たちにゆだねられた仕事をやめさせるための努力に骨身を惜しまなかった。しかし神は、「ご自分のことをあかししないでおられたわけではない」(使徒行伝14:17)。ひとたび聖徒に伝えられた信仰をりっぱに守る働き人たちが起こされた。歴史はこれらの人々の不屈の精神と英雄的な行為を記録にとどめている。使徒たちと同じように、彼らの中にもその持ち場にあって倒れた者が大勢いたが、宮の建設は着々と進んだ。働き人は殺されたが、働きは進展した。ワルド派(ワルデンセス)、ジョン・ウィクリフ、フス、ヒエロニムス、マルチン・ルター、ツウィングリ、クランマー、ラチマー、ノックス、ユグノー〔フランスの新教徒たち〕、ジョン・ウェスレーとチャールズ・ウェスレー、そのほか多くの人たちが、永遠に持ちこたえる材料を土台のもとにもってきた。後年、聖書配布運動に雄々しく活躍した人々、異教の地にあって大いなる最終使命宣伝のために道を備えた人々もみな、この建設工事を助けてきたのである。 AA 1584.4
使徒の時代以来、各時代にわたって神の宮の建設はやんだことがない。幾世紀にわたる過去を振り返ってみる時、われわれはそこに、神の宮を作り上げている生きた石が、誤謬と迷信と暗黒をつらぬいて光り輝いているのを見る。これらの尊い宝石は、永遠にわたって、ますます光彩を増して輝き、神の真理の力をあかしするであろう。これらの磨かれた石のきらめく光は、光と闇、真理の金と誤謬の鉄くずとの著しい対照をはっきり示している。 AA 1584.5
パウロもほかの使徒たちも、その時以来生存してきたすべての義人たちも、みな宮の建設に各々の役割を果たしてきた。だが、建築はまだ完成していない。今日生存するわれわれにも、なすべきわざ、果たすべき役割がある。火の試練に耐えられるような土台の材料——金、銀、宝石など「宮の建物のために刻まれた」ものを集めてこなければならない(詩篇144:12)。パウロは、こうして神のために建設をすすめる人たちに、励ましと警告の言葉を述べている。「もしある人の建てた仕事がそのまま残れば、その人は報酬を受けるが、その仕事が焼けてしまえば、損失を被るであろう。しかし彼自身は、火の中をくぐってきた者のようにではあるが、救われるであろう」(Ⅰコリント3:14、15)。命のことばを忠実に伝え、人々を聖潔と平安の道に導くクリスチャンは、耐久力のある材料を土台に加えているのであって、神の国において賢明な建築者として誉れを受けるであろう。 AA 1584.6
使徒たちについてはこう書かれている、「弟子たち は出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主も彼らと共に働き、御言に伴うしるしをもって、その確かなことをお示しになった」(マルコ16:20)。キリストが弟子たちをつかわされたように、今日も、主はご自分の教会の信者たちをつかわされる。使徒たちに与えられていたのと同じ力が彼らのために与えられる。神を自分たちの力とする時、神は彼らと共に働いて下さり、彼らの努力はむなしくなることはない。彼らが携わっている働きは、神が印を押されているものだということを、彼らに認識させよう。神はエレミヤに言われた、「あなたはただ若者にすぎないと言ってはならない。だれにでも、すべてわたしがつかわす人へ行き、あなたに命じることをみな語らなければならない。彼らを恐れてはならない、わたしがあなたと共にいて、あなたを救うからである」。それから主はみ手を伸べて、しもべの口につけ、言われた、「見よ、わたしの言葉をあなたの口に入れた」(エレミヤ1:7~9)。そして神は、われわれが、神の聖なるみ手がくちびるに触れたことを感じながら、与えられたみことばを語るために出て行くようにと命じておられる。 AA 1584.7
キリストは教会に神聖な責任をお与えになった。教会員はそれぞれ、神がその恵みの富と、計り知れないキリストの富とを世にお伝えになる器とならねばならない。世の人々に、キリストのみたまと品性をあらわす器ほど、キリストが望んでおられるものはない。人間を通して救い主の愛があらわされることほど、世が必要としているものはない。全天は、神がキリスト教の力をあらわすことがおできになる男女を待っている。 AA 1585.1
教会は、真理を宣べ伝えるための神の機関であって、特別の働きをする力を神から与えられている。もし教会が神に忠実であり、神のすべての戒めに従うなら、教会には神の計り知れない恩恵が内住するであろう。教会が真実に神への忠誠をつくし、イスラエルの神、主をあがめる時、どんな勢力もこれに対抗することはできない。 AA 1585.2
神とそのみわざに対する熱意が弟子たちを動かし、偉大な力を発揮して福音をあかしさせた。われわれも同じ情熱を心に燃やし、あがないの愛の物語を、キリスト、しかも十字架につけられたキリストの物語を語る決意をすべきではないだろうか。救い主の来臨を待ち望むばかりでなく、これを早めることがすべてのクリスチャンの特権である。 AA 1585.3
教会が世に従うことをやめて、キリストの義の衣を着る時に、教会の前には、輝かしい栄光の日の夜明けがある。教会への神の約束は、永遠に堅く立つであろう。神は教会をとこしえの誇り、代々の喜びとなさる。真理は、それをさげすみ拒む人たちを通り過ぎて、勝利する。ときには一見妨害されたように見えても、真理の前進は決して阻止されたことがない。神の使命が反対に会うと、神はその使命が一層大きな感化を及ぼすように、それに力をお加えになる。こうして聖なる力を備えた真理は、どんな堅固なとりでもつきぬけ、どんな障害にも勝利するのである。 AA 1585.4
骨折りと犠牲のご生涯の間、神のみ子を支えたものは何であったか。キリストはご自分の魂の労苦の結果をご覧になって、満足された。キリストは、永遠をご覧になり、ご自身の屈辱を通してゆるしと永遠のいのちを受けた人々の幸福をご覧になった。キリストの耳は、あがなわれた者たちの歓喜の叫びを聞きとられた。主はあがなわれた人々が、モーセと小羊の歌をうたっているのをお聞きになった。 AA 1585.5
われわれは、未来の、祝福された天の幻を持つことができる。聖書には未来の栄光の幻、神のみ手によって描かれた光景が示されている。そしてこれらは、神の教会にとって大事なものである。信仰によってわれわれは、永遠の都の入口に立ち、この世の生活においてキリストと協力し、キリストのために苦しむことを名誉とみなしてきた人々に与えられる、恵み深い歓迎のことばを聞くのである。「わたしの父に祝福された人たちよ」ということばを聞く時、彼らはあがない主の足もとに冠を脱ぎ捨てて、「ほふられた小羊こそは、力と、富と、知恵と、勢いと、ほまれと、栄光と、さんびとを受けるにふさわしい。……御座にいますかたと小羊とに、さんびと、ほまれと、栄光と、権力とが、世々限りなくあるように」と叫ぶ(マタイ25:34、黙 示録5:12、13)。 AA 1585.6
あがなわれた者たちは、自分たちを救い主に導いてくれた人たちにそこであいさつをし、全員が1つとなって、人間に神のような永遠のいのちを与えるために、ご自分の命を犠牲にされた方を讃美する。闘争は終わる。艱難も争いも終わる。あがなわれた者たちが、ほふられて、勝利の征服者として再び生き返られた小羊こそすばらしい、という喜びの歌をうたいだすと、勝利の歌が全天に満ちる。 AA 1586.1
「わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、数えきれないほどの大ぜいの群衆が、白い衣を身にまとい、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立ち、大声で叫んで言った、『救は、御座にいますわれらの神と小羊からきたる』」(黙示録7:9、10)。 AA 1586.2
「彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって、その衣を小羊の血で洗い、それを白くしたのである。それだから彼らは、神の御座の前におり、昼も夜もその聖所で神に仕えているのである。御座にいますかたは、彼らの上に幕屋を張って共に住まわれるであろう。彼らは、もはや飢えることがなく、かわくこともない。太陽も炎暑も、彼らを侵すことはない。御座の正面にいます小羊は彼らの牧者となって、いのちの水の泉に導いて下さるであろう。また神は、彼らの目から涙をことごとくぬぐいとって下さるであろう」。「もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」(黙示録7:14~17、21:4)。 AA 1586.3