患難から栄光へ

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第54章 忠実な証人

本章はヨハネの手紙に基づく AA 1564.5

キリストの昇天後、ヨハネは主のための忠実で熱心な働き人として目立った存在となった。ほかの弟子たちと共に、彼はペンテコステの日に聖霊の降下を受け、新しい熱意と力とで人々にいのちのことばを語り続け、彼らの思いを見えない神に向けさせようとした。彼は非常にまじめで熱心な、力に満ちた説教者であった。彼は美しい言葉で、また、音楽的な声でキリストのことばと働きを語り、聞く人々に感銘を与えた。彼は、簡潔な言葉と、語る真理の崇高な力と、彼の説教を個性的にしている熱情とにより、すべての階級の人々に近づくことができた。 AA 1564.6

使徒ヨハネの生活は、彼の教えと調和していた。彼は心の中で育ったキリストへの愛に導かれて、同胞のために、また特にキリスト教会の兄弟たちのために、熱心な、たゆまない働きを進めた。 AA 1564.7

キリストは最初の弟子たちに、キリストが彼らを愛されたように、互いに愛し合いなさいと命じておられた。こうして彼らは、うちにキリストの形ができたこと を、すなわち、栄光の望みを世にあかししなければならなかった。「わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい」と、キリストは言われた(ヨハネ13:34)。これらのことばが語られた時、弟子たちはそれを理解できなかった。しかし彼らは、キリストの苦しみを目撃してのち、キリストの十字架の死と復活と昇天を目撃してのち、そして聖霊がペンテコステの日に彼らの上に注がれてのち、神の愛と、お互いに持たねばならないその愛の性質についての概念を一層はっきり持つようになった。それからヨハネは仲間の弟子たちに次のように言うことができた。 AA 1564.8

「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである」。 AA 1565.1

聖霊の降下ののち、弟子たちが生ける救い主を宣べ伝えに出て行った時、彼らの1つの願いは人々の魂の救いであった。彼らは聖徒たちの交わりのすばらしさに恵まれた。弟子たちはやさしく、思いやりがあり、自制し、真理のためには喜んで犠牲を払った。毎日、互いに交わるうちに、キリストが彼らに申しつけられた愛をあらわすようになった。私心のない言葉と行為によって、彼らは他の人々の心にこの愛をともすよう努めた。 AA 1565.2

このような愛を信者たちは常に抱いていなければならなかった。また更に、新しい戒めに心から従うよう前進しなければならなかった。こうして彼らは、キリストと一致すれば、主のすべての要求を満たすことができるようになるのである。彼らの生活は、ご自身の義によって彼らを義として下さる救い主の力を表現しなければならなかった。 AA 1565.3

しかし、少しずつ変化が起こった。信者たちは他人の欠点を探し始めた。失敗をいつまでも責めて、思いやりのない批判しか念頭におかず、救い主とその愛を見失った。彼らは外面的な儀式についてますます厳格になり、信仰の実践より理論についてやかましくなった。他人をさばくことに躍起になって、自分たちの誤りを見のがした。キリストが要求されていた兄弟愛を失い、何よりもみじめなことに、彼らは自分たちの損失に気づかなかった。幸福と喜びが彼らの生活から出て行こうとしていることに気づかず、また、神の愛を心から閉め出していて、やがて暗黒の中を歩き出すことに気づかなかった。 AA 1565.4

ヨハネは教会内に兄弟愛が欠けてきていることを悟り、この愛が絶えず必要なことを信者たちに説き勧めた。教会へ宛てた彼の手紙にはこの思いが満ちている。「愛する者たちよ。わたしたちは互に愛し合おうではないか。愛は、神から出たものなのである。すべて愛する者は、神から生れた者であって、神を知っている。愛さない者は、神を知らない。神は愛である。神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから、わたしたちも互に愛し合うべきである」と、ヨハネは書いている。 AA 1565.5

この愛が信者たちによってあらわされなければならない特別の意味について、使徒ヨハネは書いている、「新しい戒めを、あなたがたに書きおくるのである。そして、それは、彼にとってもあなたがたにとっても、真理なのである。なぜなら、やみは過ぎ去り、まことの光がすでに輝いているからである。『光の中にいる』と言いながら、その兄弟を憎む者は、今なお、やみの中にいるのである。兄弟を愛する者は、光におるのであって、つまずくことはない。兄弟を憎む者は、やみの中におり、やみの中を歩くのであって、自分ではどこへ行くのかわからない。やみが彼の目を見えなくしたからである」。「わたしたちは互に愛し合うべきである。これが、あなたがたの初めから聞いていたおとずれである」。「愛さない者は、死のうちにとどまっている。あなたがたが知っているとおり、すべて兄 弟を憎む者は人殺しであり、人殺しはすべて、そのうちに永遠のいのちをとどめてはいない。主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである」。 AA 1565.6

キリストの教会を最も危うくするものは、この世の反対ではない。教会を最も深刻な不幸に陥れるものは、信者たちの心に隠された悪であり、それは最も確実に神のみわざの進展を遅らせる。ねたみ、疑い、あらさがし、悪意ほど霊性を弱めるものはない。一方、神の教会を構成しているいろいろな性質の人たちの間における調和と一致は、神がみ子をこの世におつかわしになったことを最も確かにあかしするものである。このようなあかしをたてることが、キリストに従う者たちの特権である。しかしこれを行うためには、彼らはみずからキリストの戒めに服さなければならない。品性がキリストの品性に、また、意志がキリストの意志に調和しなければならない。 AA 1566.1

「わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい」と、キリストは言われた(ヨハネ13:34)。何とすばらしいことばであろう。しかし、何と実行されていないことばであろう。今日神の教会には兄弟愛がはなはだ不足している。救い主を愛していると公言する者たちの多くが、互いに愛し合っていない。未信者たちは、クリスチャンと自称する人たちの信仰が、彼らの生活にきよめの力を及ぼしているかどうかを見守っている。だが、彼らはすぐに品性の欠点や行為の矛盾をみつける。ごらんなさい、この人たちはキリストのみ旗のもとに立ちながら、互いに憎み合っていると、クリスチャンは敵に言わせないようにしよう。クリスチャンはみな1つの家族で、みな同じ天父の子供たちであり、同じように祝福された不死の望みを抱いているのである。互いを結び合わせている絆は固く愛情のこもったものである。 AA 1566.2

神の愛は、キリストがお示しになった同じやさしい同情を示すようわれわれに求める時、人の心に最も感動的な訴えをする。兄弟に対して無我の愛を持つ人だけが、神のために真実の愛を持っている。ほんとうのクリスチャンは、危険や欠乏の中にいる魂に、警告や保護を与えもせずにその人を去らせたいと思わない。彼は、魂が更に不幸や失望に陥っているのに、あるいはサタンの戦場に倒れているのに、身を誤ったその人たちから超然としていることはできない。 AA 1566.3

キリストのやさしい、心をとらえる愛を経験したことのない人たちは、ほかの人々をいのちの泉に導くことはできない。心のうちにあるキリストの愛は、強く迫る力であり、それは会話をとおし、やさしい同情に満ちた精神をとおし、彼らが交わっている人々の生活の向上をとおしてキリストをあらわすよう彼らを導く。クリスチャンの働き人が仕事の成果をあげるには、キリストを知らなければならない。そして、キリストを知るには、キリストの愛を知らなければならない。天では、働き人としてふさわしいかどうかは、キリストが愛されたように愛し、キリストが働かれたように働く彼らの能力によって量られる。 AA 1566.4

「わたしたちは言葉や口先だけで愛するのではなく、行いと真実とをもって愛し合おうではないか」と使徒ヨハネは書いている。人を助け、人を恵みたいという衝動が絶えず心からわき出るときに、クリスチヤン品性は完成する。信者の魂をとりまくこの愛の雰囲気が、彼をいのちからいのちに至らせるかおりとし、その働きを神に祝福されるものとするのである。 AA 1566.5

神に対する最高の愛、互いの無我の愛、これこそ、天父がさずけて下さる最上の贈物である。この愛は衝動ではなく、きよい原則、永遠の力である。献身していない心は愛を起こすことも、生じることもできない。イエスに支配されている心にだけ愛は見いだされる。「わたしたちが愛し合うのは、神がまずわたしたちを愛して下さったからである」。神の恵みによって新たにされた心にとって、愛は行動の主原則である。愛は性質を修正し、衝動を支配し、感情を制御し、愛情を高める。心に抱かれたこの愛は、人生を麗しくし、清澄にする感化を周囲に与える。 AA 1566.6

ヨハネは、愛の精神を実行する時にやってくる高尚な特権を信者に理解させようとした。このあがないの力は、心を満たして、他のすべての動機を支配し、その人を世の堕落した感化の及ばないところに高める。そしてこの愛が十分に力を発揮できるようになり、また、人生における原動力になった時、神と、彼らに対する神の取り扱いとに対する信頼と確信は完全になる。そうして彼らは、現在と永遠の幸福のために必要なものをすべて神から受けることができることを知って、信仰の確信に満ちて神のもとに来ることができた。「わたしたちもこの世にあって彼のように生きているので、さばきの日に確信を持って立つことができる。そのことによって、愛がわたしたちに全うされているのである。愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く」と、ヨハネは書いた。「わたしたちが何事でも神の御旨に従って願い求めるなら、神はそれを聞きいれて下さるということである。そして……なんでも聞きいれて下さるとわかれば、神に願い求めたことはすでにかなえられたことを、知るのである」。 AA 1567.1

「もし、罪を犯す者があれば、父のみもとには、わたしたちのために助け主、すなわち、義なるイエス・キリストがおられる。彼は、わたしたちの罪のための、あがないの供え物である。だだ、わたしたちの罪のためばかりではなく、全世界の罪のためである」。「もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる」。神から憐れみをいただく条件は単純で理にかなっている。主はゆるしをお与えになるために、何か苛酷なことをするようにとはお求めにならない。われわれは天の神にわれわれの魂をゆだね、あるいは罪を償うために長い退屈な巡礼をしたり、苦行をする必要はない。罪を「言い表してこれを離れる者は、あわれみをうける」(箴言28:13)。 AA 1567.2

天の法廷で、キリストは教会のために弁護しておられる。すなわち、キリストが血のあがないの値を支払われた人々のために弁護しておられるのである。どんなに世紀や時代を重ねても、キリストのあがないの犠牲は効力を減じない。生も死も、高いものも深いものも、キリスト・イエスにおける神の愛からわれわれを引き離すことはできない。それはわれわれがしっかりとキリストをつかんでいるからではなく、キリストがわれわれをしっかりつかんでいるからである。もし救いがわれわれ自身の努力にかかっているとすれば、われわれは救われることができない。しかし救いは、すべての約束を支持しておられる方にかかっているのである。キリストをとらえるわれわれの力は弱いように見えるかもしれないが、キリストの愛は兄の愛のようで、主と結ばれているかぎり、誰も主のみ手からわれわれを引き離すことはできない。 AA 1567.3

歳月が流れて、信者の数が増えるにしたがい、ヨハネはますます誠実に、熱心に兄弟たちのために働いた。時代は教会にとって非常に危険なときであった。サタンの欺瞞は至るところにあった。サタンの使者たちは中傷や偽りによって、キリストの教えに反対しようとした。その結果、教会は不和と異端におびやかされていた。キリストに信仰を告白した者たちの中には、神の愛が神の律法に対する服従から彼らを解放したと主張する者もいた。一方、多くの者たちは、ユダヤの習慣や儀式を守る必要がある、また、救いには、キリストの血を信じることなく、ただ律法を遵守するだけで十分であると教えた。ある者たちは、キリストを立派な人だとしていたが、キリストの神性を否定した。神のみわざに忠実なふりをしていた者たちは欺瞞者であって、実際にはキリストとその福音を否定した。罪を犯す生活をしながら彼らは教会に異端を持ち込んだ。こうして多くの者たちが懐疑と欺瞞の迷路に連れ込まれた。 AA 1567.4

ヨハネはこうした悪意ある誤りが教会に忍びこんで来るのを見て、悲しみでいっぱいになった。彼は教会が危険にさらされていることを悟って、すぐさまこの急場に果断な処置をとった。ヨハネの手紙は愛の精神を漂わせている。それは、まるで彼が愛の中にペンをどっぶり浸して書いたように思える。しかしヨハネは、神の律法を犯しながら、なお罪のない生活をしていると主張する人々と接触するにあたって、 その人たちの恐ろしい欺瞞を、ためらうことなく忠告した。 AA 1567.5

福音事業の協力者で、評判がよく、広く感化を与えている1人の婦人に、ヨハネは次ように書き送った、「イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白しないで人を惑わす者が、多く世にはいってきた……そういう者は、惑わす者であり、反キリストである。よく注意して、わたしたちの働いて得た成果を失うことがなく、豊かな報いを受けられるようにしなさい。すべてキリストの教をとおり過ごして、それにとどまらない者は、神を持っていないのである。その教にとどまっている者は、父を持ち、また御子をも持つ。この教を持たずにあなたがたのところに来る者があれば、その人を家に入れることも、あいさつすることもしてはいけない。そのような人にあいさつする者は、その悪い行いにあずかることになるからである」。 AA 1568.1

われわれは、キリストのうちにとどまっていると主張しながら、神の律法を犯す生活をしている人々に対して、愛されたヨハネと同じ判断をする権威を認められている。初代の教会の繁栄をおびやかしたような悪が、この終わりの時代にも存在する。ゆえに、こうした点についての使徒ヨハネの教えを、慎重に心にとめていなければならない。「愛がなければならない」は、どこででも聞かれる叫びである。特に、きよめられたと言っている人たちから聞かれる。しかし、真の愛は純粋であって、告白されていない罪をおおい隠すことはできない。キリストが身代わりとなられた魂を愛しているかぎり、悪と妥協しないようにしなければならない。われわれは反逆者と手を結んで、これを愛と呼ぶべきではない。神は現代の世界にいる神の民たちに、ヨハネが魂を破壊する過ちに反対して立ったように、正義のために断固として立つよう要求されている。 AA 1568.2

われわれはクリスチャンの親切を示さなければならないが、罰や罪人をそれとはっきり言う権威も与えられている、そして、これは真の愛と矛盾しないと、使徒ヨハネは教えている。「すべて罪を犯す者は、不法を行う者である。罪は不法である。あなたがたが知っているとおり、彼は罪をとり除くために現れたのであって、彼にはなんらの罪がない。すべて彼におる者は、罪を犯さない。すべて罪を犯す者は彼を見たこともなく、知ったこともない者である」と、ヨハネは述べている。 AA 1568.3

キリストの証人として、ヨハネは論争やうんざりさせる口論をしなかった。彼は自分の知っていること、自分が見たり、聞いたりしたことを話した。彼はキリストと親しい交わりをし、キリストの教えを聞いて、キリストの立派な奇跡を目撃してきた。ヨハネほどにキリストのご品性の美しさを見ることができた人はほとんどいない。彼にとって暗黒は過ぎ去っていた。彼の上にまことの光が輝いていた。救い主のご生涯と死に関する彼のあかしは、明瞭で力のこもったものであった。救い主に対する愛が豊かにあふれる心から彼は話したので、だれも彼の言葉をとめることはできなかった。 AA 1568.4

「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの、すなわち、いのちの言について……すなわち、わたしたちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせる。それは、あなたがたも、わたしたちの交わりにあずかるようになるためである。わたしたちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである」と、ヨハネは言った。 AA 1568.5

それゆえに、まことのクリスチャンはみな、自分自身の経験を通して、「神がまことであることを、たしかに認め」ることができる(ヨハネ3:33)。クリスチャンは、キリストのみ力について、見たり聞いたり感じたことを証しすることができるのである。 AA 1568.6