患難から栄光へ
第52章 最後まで忠実に
本章はペテロの第2の手紙に基づく AA 1558.1
ペテロと「同じ尊い信仰」をさずかった人々へあてたペテロの第2の手紙の中で、使徒はクリスチャンの品性を成長させるための神のご計画を明らかにした。彼はこう訂いている。 AA 1558.2
「神とわたしたちの主イエスとを知ることによって、恵みと平安とが、あなたがたに豊かに加わるように。いのちと信心とにかかわるすべてのことは、主イエスの神聖な力によって、わたしたちに与えられている。それは、ご自身の栄光と徳とによって、わたしたちを召されたかたを知る知識によるのである。また、それらのものによって、尊く、大いなる約束が、わたしたちに与えられている。それは、あなたがたが、世にある欲のために滅びることを免れ、神の性質にあずかる者となるためである」。 AA 1558.3
「それだから、あなたがたは、力の限りをつくして、あなたがたの信仰に徳を加え、徳に知識を、知識に節制を、節制に忍耐を、忍耐に信心を、信心に兄弟愛を、兄弟愛に愛を加えなさい。これらのものがあなたがたに備わって、いよいよ豊かになるならば、わたしたちの主イエス・キリストを知る知識について、あなたがたは、怠る者、実を結ばない者となることはないであろう」。 AA 1558.4
これらの言葉は教訓に満ちていて、勝利の基調をなす。使徒は、信者にクリスチャンの進歩のはしごを紹介しているが、その1つ1つの階段は神を知る知識の進歩をあらわし、このはしごを登るのに行き詰まりはない。信仰、徳、知識、節制、忍耐、信心、兄弟愛、愛は、はしごの階段である。この階段を1段1段登って、われわれに対するキリストの理想の高さに達する時に、われわれは救われるのである。こうしてキリストはわれわれの知恵となり、義と聖とあがないとになられる。 AA 1558.5
神はその民を栄光と徳に招いておられる。そしてこれらは神と真実につながっている人々すべての生活にあらわれる。天の賜物にあずかる者となったら、彼らは「信仰により神の御力に守られて」、完全を目指して進まなければならない(Ⅰペテロ1:5)。神の徳をその子らにお与えになることは、神の栄光である。神は人々が最高の標準に達するのをご覧になりたいと望んでおられる。そして、信仰によってキリストの力をつかみ、主の確かなみ約束に訴えてそれを自分のものとして求め、拒まれないようしきりに聖霊の力を求めるならば、彼らはキリストにあってそれに満たされるのである。 AA 1558.6
福音の信仰を受けたら、信者が次にする仕事は品性に徳を加えることである。こうして心をきよめ、神についての知識を受けるにふさわしい心にするのである。この知識は、すべての真の教育と真の奉仕の基礎である。これが、誘惑を防ぐ唯一のたしかな防衛手段である。そして、これだけが、人を品性において神に似たものとすることができる。神とみ子イエス・キリストを知ることによって、信者には、「いのちと信心とにかかわるすべてのこと」が与えられる。神の義をいただきたいと心から願う人には、よい賜物が惜しみなく与えられる。 AA 1558.7
「永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります」と、キリストは言われた(ヨハネ17:3)。また預言者エレミヤは言った、「知恵ある人はその知恵を誇ってはならない。力ある人はその力を誇ってはならない。富める者はその富を誇ってはならない。語る者はこれを誇とせよ。すなわち、さとくあって、わたしを知っていること、わたしが主であって、地に、いつくしみと公平と正義を行っている者であることを知ることがそれである。わたしはこれらの事を喜ぶと、主は言われる」(エレミヤ9:23、24)。この知識を得る者が、霊的にどれほど広く深く高く到達するかは、人間の心ではほとんど悟ることができない。 AA 1558.8
だれでも自分の活動範囲内で、クリスチャン品性 の完成を目指して、果たせないことはない。いのちと信心とにかかわるすべてのことを信者たちが受けられるように、キリストの犠牲によって準備がなされた。神はわれわれが完全な標準に到達するように求めておられ、キリストのご品性の模範をわれわれに示しておられる。救い主は、悪に抵抗した生活を貫き通して完全なものとされたご自身の人性によって、人間が神と協力すれば、この世において品性の完成に到達できることをお示しになった。これは、われわれも完全な勝利を得ることができるという神からの保証である。 AA 1558.9
キリストのようになる、すなわち、律法のあらゆる原則に従うというすばらしい可能性が、信者の前に提供されている。しかし、人は自分でこの状態に到達することは全くできない。人は救われる前にきよくならねばならないと神のみことばは言明しているが、このきよさは、彼が真理のみ霊の訓練や抑制する感化力に身を低くして従う時に、神の恵みが働いて生じるものである。キリストの義のかおりによってはじめて、人は完全に従順になることができる。キリストの義は従順な行為の1つ1つを神の香気で満たす。クリスチャンの役割は、1つ1つの罪に辛抱強くうち勝つことである。彼は罪に悩む自分の魂の乱れをいやしていただくように、救い主に絶えず祈らなければならない。彼にはうち勝つ知恵も力もない。これは主のもので、主は、謙遜に悔いて助けを求めてくる者たちにこれらを授けて下さる。 AA 1559.1
清くないものから清いものに変える働きは、継続的なものである。毎日、神は人のきよめのために働いて下さる。だから人は、神に協力して、辛抱強く、正しい習慣を養う努力をしなければならない。人は恵みに恵みを加えなければならない。こうして寄せ算で働くとき、神は彼のために掛け算で働いて下さる。われわれの救い主は、悔いる心を持つ者の祈りを聞き、それに答える準備がいつでもできておられる。そして恵みと平安が、忠実な者たちの上に増し加えられるのである。主は、彼らを悩ます悪との戦いに必要な祝福を、喜んで彼らに与えて下さる。 AA 1559.2
クリスチャンの進歩のはしごを登ろうとしている人々がいる。しかし、彼らは、上に進んで行くにしたがって、人間の力に頼りはじめ、やがて、信仰の創始者であり完成者であられるイエスを見失ってしまう。結果は失敗である。つまり、これまでに得たものをすべて失ってしまうのである。途中で疲れてしまって、これまで彼らが心と生活の中で育ててきたクリスチャンの恵みを、魂の敵に盗ませている人々の状態は、まことに歎かわしい。「これらのものを備えていない者は、盲人であり、近視の者であり、自分の以前の罪がきよめられたことを忘れている者である」とペテロは説明している。 AA 1559.3
使徒ペテロは神のことに長い経験を積んできた。神の救いの力を信じる信仰は年とともに強まった。そして彼は、信仰によって前進し、はしごを1段ずつ登って、天の入口にまで達している最上段を目指して上へと絶えず前進する者の前には、失敗の可能性がないのだということを、疑いなく証明するまでになっていた。 AA 1559.4
長年にわたってペテロは、絶えず恵みと真理の知識に成長する必要のあることを信者たちに力説してきた。そして今、信仰のためにまもなく殉教の苦しみを受けることを知って、彼は再び、信じる者はだれでも到達することのできるこの尊い特権に注意を引いた。信仰を十分に確信している年老いた使徒は、クリスチャン生活における確固とした目的を兄弟たちに説いた。「それだから、ますます励んで、あなたがたの受けた召しと選びとを、確かなものにしなさい。そうすれば、決してあやまちに陥ることはない。こうして、わたしたちの主また救主イエス・キリストの永遠の国に入る恵みが、あなたがたに豊かに与えられるからである」と、彼は説いた。なんというすばらしい保証であろう。信仰によってクリスチャン完成の高みへ進んでいる時、信者の前途にある希望は、なんと輝かしいものであろう。 AA 1559.5
使徒は続けて言った、「それだから、あなたがたは既にこれらのことを知っており、また、いま持っている真理に堅く立ってはいるが、わたしは、これらのことを いつも、あなたがたに思い起させたいのである。わたしがこの幕屋にいる間、あなたがたに思い起させて、奮い立たせることが適当と思う。それは、わたしたちの主イエス・キリストもわたしに示して下さったように、わたしのこの幕屋を脱ぎ去る時が間近であることを知っているからである。わたしが世を去った後にも、これらのことを、あなたがたにいつも思い出させるように努めよう」。 AA 1559.6
使徒には、人類に関する神の目的について語る資格が十分にあった。なぜなら、キリストがこの世で働いておられた時、ペテロは神の国に関することをいろいろと見聞きしていたからである。「わたしたちの主イエス・キリストの力と来臨とを、あなたがたに知らせた時、わたしたちは、巧みな作り話を用いることはしなかった。わたしたちが、そのご威光の目撃者なのだからである。イエスは父なる神からほまれと栄光とをお受けになったが、その時、おごそかな栄光の中から次のようなみ声がかかったのである、『これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である』。わたしたちもイエスと共に聖なる山にいて、天から出たこの声を聞いたのである」と、彼は信者たちに言った。 AA 1560.1
この証拠は、信者たちの望みの確かさを確信させるものであったが、さらにいっそう説得力のある証拠が、預言のあかしの中にあった。これによってすべての人々の信仰が強められ、堅固で不動のものとされるのであった。「こうして、預言の言葉は、わたしたちにいっそう確実なものになった。あなたがたも、夜が明け、明星がのぼって、あなたがたの心の中を照すまで、この預言の言葉を暗やみに輝くともしびとして、それに目をとめているがよい。聖書の預言はすべて、自分勝手に解釈すべきでないことを、まず第一に知るべきである。なぜなら、預言は決して人間の意志から出たものではなく、人々が聖霊に感じ、神によって語ったものだからである」と、ペテロは言った。 AA 1560.2
悩みの時の安全な指針として「預言の言葉」の「確実」さを強調する一方、使徒は厳粛に、誤った預言の光について教会に警告した。そのにせの預言は、「にせの教師」たちによって掲げられるもので、彼らは「異端をひそかに持ち込み、……主を否定し」た。こうしたにせ教師たちが教会に起こり、信仰のある兄弟たちの多くから正しいと思われるが、使徒は彼らをたとえて、「水のない井戸、突風に吹きはらわれる霧であって、彼らには暗やみが用意されている」と言った。「彼らの後の状態は初めよりも、もっと悪くなる。義の道を心得ていながら、自分に授けられた聖なる戒めにそむくよりは、むしろ義の道を知らなかった方がよい」と、ペテロは言った。 AA 1560.3
ペテロは、霊感を受けて、世の終わりに至るまで各時代を見通し、キリスト再臨の直前に、世の中に現れる状態を書きしるした。「終りの時にあざける者たちが、あざけりながら出てきて、自分の欲情のままに生活し、『主の来臨の約束はどうなったのか。先祖たちが眠りについてから、すべてのものは天地創造の初めからそのままであって、変ってはいない』と言うであろう」と、彼は書いた。しかし、「人々が平和だ無事だと言っているその矢先に、……突如として滅びが彼らをおそって来る」(Ⅰテサロニケ5:3)。しかし、だれもがみな敵のわなにかかるわけではない。世のすべてのものの終わりが近づく時に、時のしるしを見分けることのできる忠実な者たちがいるであろう。信仰を告白している多くの者たちが、その行いによって信仰を否定している一方では、最後まで耐え忍ぶ残りの民がいるのである。 AA 1560.4
ペテロはキリストご再臨の望みを、心に生き生きと持ち続けていた。そして彼は、「行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう」との救い主のみ約束が確かに成就することを教会に保証した(ヨハネ14:3)。試練を受けている忠実な者たちにはご再臨が遅れているように思えるかもしれないが、使徒は彼らにはっきり述べた。「ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。しかし、主の日は盗人のように襲って来る。その日には、天は大音響をたてて消え去り、天 体は焼けてくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされるであろう」。 AA 1560.5
「このように、これらはみなくずれ落ちていくものであるから、神の日の到来を熱心に待ち望んでいるあなたがたは、極力、きよく信心深い行いをしていなければならない。その日には、天は燃えくずれ、天体は焼けうせてしまう。しかし、わたしたちは、神の約束に従って、義の住む新しい天と新しい地とを待ち望んでいる」。 AA 1561.1
「愛する者たちよ。それだから、この日を待っているあなたがたは、しみもなくきずもなく、安らかな心で、神のみまえに出られるように励みなさい。また、わたしたちの主の寛容は救のためであると思いなさい。このことは、わたしたちの愛する兄弟パウロが、彼に与えられた知恵によって、あなたがたに書きおくったとおりである。……愛する者たちよ。それだから、あなたがたはかねてから心がけているように、非道の者の惑わしに誘い込まれて、あなたがた自身の確信を失うことのないように心がけなさい。そして、わたしたちの主また救主イエス・キリストの恵みと知識とにおいて、ますます豊かになりなさい」。 AA 1561.2
神のみ摂理に導かれて、ペテロは彼の働きをローマで終えることになった。このローマで、ちょうどパウロが最後に逮捕されたころ、ペテロ投獄の命令が、ネロ皇帝から出された。こうして2人の老練な使徒たちは、長い間、遠く離れて働いていたが、この世界の中心都市において、キリストのために最後のあかしをたてることになった。そして、この地に、聖徒や殉教者たちの大きな収穫を生む種として、彼らの血を流すことになった。 AA 1561.3
ペテロは、キリストを拒んで後、また元の地位につけられて以来、ひるまず、危険をものともせずに、気高い勇気を示して、十字架にかけられ、よみがえられて、昇天された救い主を宣べ伝えてきた。彼は独房に横になっている時、キリストが彼に語りかけられたみことばを思い出した。「よくよくあなたに言っておく。あなたが若かった時には、自分で帯をしめて、思いのままに歩きまわっていた。しかし年をとってからは、自分の手をのばすことになろう。そして、ほかの人があなたに帯を結びつけ、行きたくない所へ連れて行くであろう」(ヨハネ21:18)。このようにキリストは、ペテロの死に方をこの弟子にお教えになっていた。また、十字架の上に両手をひろげることさえも予言しておられたのである。 AA 1561.4
ペテロはユダヤ人であり外国人として、むちで打たれて十字架につけられる刑が宣告された。この恐ろしい死を目前にして、使徒は、イエスの裁判の時にイエスを拒んだ自分の大きな罪を思い出した。かつては十字架を認める準備のできていなかった彼は、今、福音のために命をささげることを喜び、ただ、主を拒んだことのある自分は、主と同じ死に方をするという大きな栄誉には値しないということしか思わなかった。ペテロはその罪を心から悔いて、キリストにより既にゆるされていた。羊と群れの小羊を養う高い使命が彼に与えられていたことがそれを示している。しかし彼は自分を決してゆるすことができなかった。最後の恐ろしい場面の苦しみを考えてさえも、彼のはげしい悲しみと後悔の念は軽くならなかった。最後の願いとして、彼は頭を下に向けて十字架に釘づけされるようにと執行人に頼んだ。この願いは聞き入れられて、この方法で偉大な使徒ペテロは死んだ。 AA 1561.5