患難から栄光へ
第34章 使命を持つ者の働き
キリストは、彼の生涯と教えの中で、神に起源を発する無我の奉仕の、完全な模範を示された。神は、ご自分のために生きておられない。神は、世界を創造し、万物を維持して、常に他のために奉仕しておられる。「天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである」(マタイ5:45)。天の父は、この奉仕の理想をみ子におゆだねになった。イエスは人類の頭として立ち、奉仕とは何であるかを、彼の模範によって教えることを命じられた。彼の全生涯は、奉仕の律法のもとにあった。彼は、すべてに仕え、すべてに奉仕した。 AA 1492.1
イエスは幾度となく、この原則を弟子たちの間に確立しようとなさった。ヤコブとヨハネが、最高の地位を要求した時に、彼は言われた。「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕とならねばならない。それは、人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである」(マタイ20:26~28)。 AA 1492.2
キリストは、昇天後、選ばれた使者たちによってご自分の働きを推進し、彼らを通して、人々に語り、彼らの必要に奉仕される。教会の大いなる頭であられるキリストは、神の代表者として神の命を受けた人間の器を通して、神の働きを監督しておられる。 AA 1492.3
宣教と教えによって、神の教会を築き上げるために、神に召された者の地位は、実に責任重大である。彼らは、キリストに代わって、人々に訴え、神の和解を受けさせなければならない。そして、彼らは、上からの知恵と能力を受けることによってのみ、彼らの任務を果たすことができるのである。 AA 1492.4
キリストの伝道者は、彼らにゆだねられた人々の霊的保護者である。彼らの働きは、見張りの者の仕事にたとえられている。昔、町の城壁の上によく番兵が立ち、その有利な位置から、防衛すべき重要な地点を見おろして、敵の攻撃に対して警告を発することができた。城内のすべての者の安全は、彼らの忠実さに依存していた。彼らは、ある一定の時間ごとに互いに呼びかわして、皆が目を覚ましていてだれにも危害が加えられなかったことを確認した。励ましや警告の叫びは、次々と伝えられ、各自がその叫びを繰り返して、城内全体に響き渡るのであった。 AA 1492.5
主は、すべての伝道者に言われる。「それゆえ、人の子よ、わたしはあなたを立てて、イスラエルの家を見守る者とする。あなたはわたしの口から言葉を聞き、わたしに代って彼らを戒めよ。わたしが悪人に向かって、悪人よ、あなたは必ず死ぬと言う時、あなたが悪人を戒めて、その道から離れさせるように語らなかったら、悪人は自分の罪によって死ぬ。しかしわたしはその血を、あなたの手に求める。しかしあなたが悪人に、その道を離れるように戒め〔るなら〕……あなたの命は救われる」(エゼキエル33:7~9)。 AA 1492.6
預言者の言葉は、神の教会の保護者、神の奥義の管理者として任命された者の厳粛な責任を宣言している。彼らは、シオンの城壁の上に見張り人として立ち、敵の接近に対して警報を発しなければならない。人々は、誘惑に負けそうになっている。そして、もし神の伝道者たちが、彼らの任務を忠実に果たさないならば、人々は滅びてしまうのである。もし何かの 理由で、彼らの霊的感覚が麻痺して、危険を認めることができず、警告を発しないために、人々が滅びるならば、神は、失われた人々の血の責任を、彼らの手にお求めになる。 AA 1492.7
シオンの城壁の上で見守る者は、神と親しく交わり、聖霊の印象に敏感になる特権が与えられている。神は、彼らを用いて、人々に危険を告げ、安全な場所に導かれる。彼らは忠実に、罪の確かな結果について人々に警告を与え、忠実に教会の利益を保護しなければならない。彼らは、どんな時にも、警戒をゆるめてはならない。彼らの働きは、人間のすべての能力を活用しなければならない働きである。彼らは、ラッパの音のように彼らの声をあげ、不安定な震える音は、絶対に出してはならない。彼らは、賃銀のために働くのではなく、そうしなければならないからであり、福音を宣べ伝えなければわざわいであると感じるからである。彼らは、神に選ぼれ、献身の血の証印を受けたのであるから、人々を切迫する滅亡から救い出さなければならない。 AA 1493.1
キリストと共に働く伝道者は、自分の働きの神聖さと、働きを成功させるために必要な労苦と犠牲を深く感じる。彼は、自分自身の安逸や便宜を求めようとしない。彼は、無我の人である。失われた羊を捜し求める時に、彼は、自分の疲労、寒さ、飢えを感じない。彼は、失われた者を救うというただ1つの目的しか考えていないのである。 AA 1493.2
インマヌエルの血染めの旗の下で仕える者は、英雄的努力とたゆまぬ忍耐力を要求することをしなければならない。しかし、十字架の兵卒は、恐れることなく、戦いの最前線に立つのである。敵が攻め寄せてくると、彼は、とりでに助けを求める。そして、彼は、みことばの約束を主の前において訴える時に、その時の務めをなす力が与えられる。彼は、上からの力の必要を感じる。彼が得る勝利は、彼を自己高揚に導くのでなくて、力強いおかたにますます依り頼むようにさせるのである。彼は、大いなる方、主に依り頼むことによって、力強く救いの使命を宣べ伝え、他の人々の心をゆり動かすことができるのである。 AA 1493.3
みことばを教える者は、彼自身が、祈りと神のみことばの研究によって、意識的に絶えず神と交わっていなければならない。なぜならば、ここに力の源があるからである。神との交わりは、伝道者の努力に、彼の説教の影響よりもさらに大きな力を与える。彼は、この力を失ってはならない。彼は、とうてい拒まれることがないような熱意をもって、神に嘆願し、義務と試練に耐える力と堅固さが授けられ、くちびるに燃える火が触れることを求めなければならない。キリストの使者たちの、永遠の現実に対する理解は、時には、あまりにも浅薄である。もし人々が、神と共に歩くならば、神は彼らを岩なるイエスの裂け目に隠してくださる。こうして、彼らは隠されて、モーセが神を見たように、神を見ることができる。彼らは、神がお与えになる能力と光によって、さらに深く理解し、有限な判断力によって可能と思われたことよりも、さらに多くのことをなし遂げるのである。 AA 1493.4
サタンの策略は、意気消沈した者に対して最も効果をあらわす。失望が伝道者を圧倒しそうになる時、彼は、その必要を神の前に差し出さねばならない。パウロが、最も完全に神に信頼したのは、パウロの頭の上の天が青銅のようになった時である〔申命記28:23参照——訳者注〕。彼は、大多数の人々よりはるかに苦難の意味を知っていた。しかし、誘惑と争闘に囲まれながらも天に向かって進んだ時の、彼の勝利の叫びに耳を傾けよう。「なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ」(Ⅱコリント4:17、18)。パウロの目は、常に、見えない永遠のものに向けられていた。彼は、自分が超自然的勢力と戦っていることを自覚して、神に頼った。彼の力は、ここにあったのである。目に見えない主を見ることによって、魂に能力と活力が与えられ、心と品性に働きかける地上の勢力がくだかれるのである。 AA 1493.5
牧師は、彼が責任をもって働いている人々と自由に交わり、彼らをよく知ることによって、彼の教えをど のように彼らの必要に適合させるかを知らねばならない。伝道者が説教をしたときに、彼の働きは、始まったばかりである。彼は、個人的働きをしなければならない。彼は、人々の家庭を訪問し、熱誠と謙遜な態度で、彼らと語り祈らなければならない。もし神の恵みの管理者たちが、家庭に入って彼らに天への道を示すのでなければ、神のことばの真理に決して触れることがない家族がある。しかし、この働きに従事する者の心は、キリストの心と1つになって脈打たなければならない。 AA 1493.6
「道やかきねのあたりに出て行って、この家がいっぱいになるように、人々を無理やりにひっぱってきなさい」という命令には、多くのことが含まれている(ルカ14:23)。伝道者は、家庭において真理を教え、彼らが働いている人々と親しくなり、こうして、彼らが神と協力する時に、神は彼らに霊的能力をお授けになるのである。キリストは、彼らの働きにおいて、彼らを導き、聴衆の心に深い感銘を与える言葉を語らせて下さる。パウロと共に次のように言い得ることが、すべての伝道者の特権である。「神のみ旨を皆あますところなく、あなたがたに伝えておいたからである」。「また、あなたがたの益になることは、公衆の前でも、また家々でも、すべてあますところなく話して聞かせ、また教え、……神に対する悔い改めと、わたしたちの主イエスに対する信仰とを、強く勧めてきたのである」(使徒行伝20:27、20、21)。 AA 1494.1
救い主は、家々を訪ねて病人をいやし、悲しんでいる者を慰め、苦しんでいる者を助け、悲嘆に暮れている者に平安をお語りになった。彼は小さい子供たちを抱いて彼らを祝福し、疲れた母親たちに希望と慰めの言葉をお語りになった。彼は、つきることのない優しさと親切をもって、あらゆる人間の悲痛と苦難に立ち向かわれた。彼は、ご自分のためではなくて、他の人々のために働かれた。彼は、すべての人のしもべであった。接するすべての人に希望と力を与えることが、彼の食物であり飲み物であった。そして、人々が、ラビ(教師)たちの教える言い伝えや教理とは非常にかけ離れた、彼の語られる真理に耳を傾けたときに、彼らの心に希望がわいてきた。彼の教えには、熱誠がこもっていて、彼の言葉は、罪を悟らせる力をもって、深く人の心に入っていった。 AA 1494.2
神の伝道者たちは、彼らが働きかけている人々の霊的必要を満たすものを、神のみことばの倉から取り出せるように、キリストの働きの方法を学ばなければならない。こうしてこそ、初めて彼らは、自分たちにゆだねられた信任を全うすることができる。キリストが、常に受けておられた教えを語られた時に、キリストの中に宿った同じ聖霊が、彼らの知識の源であり、救い主の働きを世界中で推進する能力の秘訣でなければならない。 AA 1494.3
伝道の働きをした者たちの中には、成功を収めることができなかった者たちがいた。それは、彼らが主の働きに専念しなかったからである。伝道者は、人々を救い主に導くという大きな働きから心を奪うような関心事を持ってはならない。キリストが召された漁夫たちは、直ちに、網を捨てて、主に従った。伝道者は、個人的な大きな事業の重荷を負いながら、十分な神の働きをすることはできない。このように心が2つに分かれていれば、彼らの霊的理解力は曇ってくる。彼らの思いと心は、地の事に捕らわれ、キリストの働きは、第二義的のものとなる。彼らは、神の要求に従って、彼らの事情を改めるのではなくて、自分たちの事情に合わせて、神の働きをしようとしているのである。 AA 1494.4
伝道者の精力は、彼の高い召しのために全部必要である。彼の最高の能力は神のものである。彼は、投機事業、または、彼の大きな働きから彼を引き離すような事業に携わってはならない。パウロは言った。「兵役に服している者は、日常生活の事に煩わされてはいない。ただ、兵を募った司令官を喜ばせようと努める」(Ⅱテモテ2:4)。このようにして、パウロは、伝道者が主の働きのために何1つ保留することなく、献身する必要のあることを強調した。神に全く献身した伝道者は、彼の聖なる召しに完全に献身することを妨げる事業には従事しないようにする。彼は、地上の栄誉や富を得ようとしているのではない。彼 の唯一の目的は、人類に永遠の生命の富を与えるために、ご自身を犠牲にされた救い主のことを人々に告げることである。彼の最高の願望は、この世で宝を貯えることではなくて、無関心な者や不忠実な者の心を永遠の現実に向けさせることである。彼は、大きな世俗的利益を約束する事業に携わるように要請されるかもしれないが、このような誘惑に対して、「人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか」と彼は答えるのである(マルコ8:36)。 AA 1494.5
サタンは、キリストをこの点で誘惑した。そして、もしキリストが、それをお受けになれば、世界はあがなわれることができないことを彼は知っていた。そしてサタンは、今日、いろいろ形を変えて、神の伝道者たちに同じ誘惑をもちかけ、それに欺かれる者は、彼らにゆだねられた信頼を裏切る。 AA 1495.1
伝道者が富を追求することは、神のみこころではない。この点について、パウロはテモテに次のように書いた。「金銭を愛することは、すべての悪の根である。ある人々は欲ばって金銭を求めたため、信仰から迷い出て、多くの苦痛をもって自分自身を刺しとおした。しかし、神の人よ。あなたはこれらの事を避けなさい。そして、義と信心と信仰と愛と忍耐と柔和とを追い求めなさい」。キリストの使者は、教えるだけでなく、模範を示さなければならない。「この世で富んでいる者たちに、命じなさい。高慢にならず、たよりにならない富に望みをおかず、むしろ、わたしたちにすべての物を豊かに備えて楽しませて下さる神に、のぞみをおくように、また、良い行いをし、良いわざに富み、惜しみなく施し、人に分け与えることを喜び、こうして、真のいのちを得るために、未来に備えてよい土台を自分のために築き上げるように、命じなさい」(Ⅰテモテ6:10、11、17~19)。 AA 1495.2
伝道者の働きの神聖さについての使徒パウロの経験と教訓は、福音のみわざに従事している者にとって、助けと霊感の源である。パウロの心は、罪人に対する愛に燃えていた。そして彼は、救霊の働きに、全精力を注いだ。彼のように自分を犠牲にして、忍耐強く働いた者はなかった。彼は、自分の受けた神の恵みを、他を祝福するために用いる機会として、尊重した。彼は、救い主について語ったり、また、困っている人を助けたりする機会を見失わなかった。彼は、各地に行って、キリストの福音を宣べ伝え、教会を設立した。彼は、耳を傾ける人がいるところはどこであっても、邪悪を打破し、人々の足を義の道に向けようと努めた。 AA 1495.3
パウロは、彼が建設した教会を忘れなかった。彼とバルナバは、伝道旅行を終えたあとで、彼らが設立した諸教会をふたたび訪れて、彼らと共に福音を宣べ伝えるために訓練することができる人々を選び出した。 AA 1495.4
パウロの働きのこの面は、今日の伝道者にとって、重大な教訓を含んでいる。パウロは、伝道の務めのために青年を訓練することを、彼の働きの一部にしていた。パウロは、彼らを、彼の伝道旅行に同伴し、このようにして、彼らは後に責任ある地位を占めることができるようになる経験を得たのである。パウロは、彼らと別れた後もなお、彼らの働きと接触を保った。そして、テモテやテトスに送ったパウロの手紙は、彼が、どれほど切に彼らの成功を願っていたかという証拠である。 AA 1495.5
今日、経験の豊富な働き人たちは、自分で全部の重荷を負おうとしないで、若い働き人たちを訓練し、重荷を彼らの肩に置く時に、立派な働きをしているのである。 AA 1495.6
パウロは、キリストの伝道者として負わせられている責任、また、彼の不忠実のゆえに魂が失われるならば、神が彼に責任を問われるということを、忘れたことがなかった。彼は、福音について次のように言った。「わたしは、神の言を告げひろめる務を、あなたがたのために神から与えられているが、そのために教会に奉仕する者になっているのである。その言の奥義は、代々にわたってこの世から隠されていたが、今や神の聖徒たちに明らかにされたのである。神は彼らに、異邦人の受くべきこの奥義が、いかに栄光に富んだものであるかを、知らせようとされたのである。 この奥義は、あなたがたのうちにいますキリストであり、栄光の望みである。わたしたちはこのキリストを宣べ伝え、知恵をつくしてすべての人を訓戒し、また、すべての人を教えている。それは、彼らがキリストにあって全き者として立つようになるためである。わたしはこのために、わたしのうちに力強く働いておられるかたの力により、苦闘しながら努力しているのである」(コロサイ1:25~29)。 AA 1495.7
これらの言葉は、キリストのための働き人たちに、崇高な目標を示している。しかし、大教師の支配の下に自己をおき、キリストの学校で日毎に学ぶ者は、みなこの目標に到達することができる。神が持っておられる能力は、無限である。そして、大きな必要を感じた伝道者が、主と密室において親しく交わるならば、彼の聴衆に対していのちからいのちに至らせるかおりとなるものが与えられるという確証を持つことができる。 AA 1496.1
パウロの手紙は、福音の伝道者は、自分の教える真理の模範でなければならないことを示している。「この務がそしりを招かないために、わたしたちはどんな事にも、人につまずきを与えないようにし」ている。彼は、コリントの信者への手紙の中で、自分の働きのことを、次のように描写している。「かえって、あらゆる場合に、神の僕として、自分を人々にあらわしている。すなわち、極度の忍苦にも、患難にも、危機にも、行き詰まりにも、むち打たれることにも、入獄にも、騒乱にも、労苦にも、徹夜にも、飢餓にも、真実と知識と寛容と、慈愛と聖霊と偽りのない愛と、真理の言葉と神の力とにより、左右に持っている義の武器により、ほめられても、そしられても、悪評を受けても、好評を博しても、神の僕として自分をあらわしている。わたしたちは、人を惑わしているようであるが、しかも真実であり、人に知られていないようであるが、認められ、死にかかっているようであるが、見よ、生きており、懲らしめられているようであるが、殺されず、悲しんでいるようであるが、常に喜んでおり、貧しいようであるが、多くの人を富ませ」ている(Ⅱコリント6:3、4~10)。 AA 1496.2
彼は、テトスにこう書いた。「若い男にも、同じく、万事につけ慎み深くあるように、勧めなさい。あなた自身を良いわざの模範として示し、人を教える場合には、清廉と謹厳とをもってし、非難のない健全な言葉を用いなさい。そうすれば、反対者も、わたしたちについてなんの悪口も言えなくなり、自ら恥じいるであろう」(テトス2:6~8)。 AA 1496.3
神の目に、神の伝道者ほど尊いものはない。彼らは、地上の荒廃した所へ出て行って、真理の種をまき、収穫を待ち望むのである。神のしもべたちが、どんな心づかいをもって、迷った魂を求めるかは、キリストのほかにはわからない。キリストは、ご自身のみ霊を彼らにお与えになる。そして、彼らの努力によって、魂は、罪から義へと導かれるのである。 AA 1496.4
神は、農園や事業、また必要ならば家族を喜んで後に残し、神のための伝道者になる人々を召しておられる。そして、召しに答える人が必ずある。過去において、キリストの愛と失われた者の必要に心をゆり動かされて、家庭の慰めや友人の交わりを捨て、または、妻や子供たちの楽しみさえ捨てて、外国へ行き、偶像教徒や未開の人々のなかで、憐れみの使命を宣べ伝えた人々があった。そういう努力の中で、多くの者は生命を失った。しかし、他の人々が、その働きを継続するために起こされた。こうして、キリストのみわざは、1歩1歩と前進し、悲しみのうちにまかれた種は豊かな実を結んだのである。神の知識は広く宣布され、十字架の旗は、異教の国々に立てられたのである。 AA 1496.5
伝道者は、1人の罪人の悔い改めのために、持てるすべてをつくさなければならない。神に創造され、キリストにあがなわれた魂は、その前にある可能性、それに授けられた霊的利益、神のことばが与える活力によって持ち得る能力、そして、福音が与える希望によって得られる永遠の命などのゆえに、実に大きな価値がある。そして、もしキリストが、1匹の失われた羊を捜すために、99匹を残して来られたとするならば、われわれの努力はそれ以下であってよかろうか。キリストが働かれたように働き、キリストが犠牲を払われたように犠牲を払うことを怠ることは、聖な る信頼の裏切りであり、神に対する侮辱ではなかろうか。 AA 1496.6
真の伝道者の心は、救霊の熱望に満ちあふれている。時間と精力を使いつくし、どんな労苦もいとわない。なぜならば、彼自身の心にこのような喜びと平和と歓喜とをもたらした真理を、他の人々に聞かせなければならないからである。キリストの霊が彼の上に宿る。彼は、言い開きをしなければならない者として、魂を見張っている。彼は、カルバリーの十字架に目を注ぎ、高く挙げられた救い主を眺め、救い主の恵みにより頼む。そして、彼は、主が彼の盾、彼の力、彼の能力となって、最後まで共におられることを信じつつ、神のために働くのである。彼は、神の愛の保証を織りまぜた招待と嘆願によって、人々をイエスに導こうとする。そして、彼は、天において、「召された、選ばれた、忠実な者」の中に数えられるのである(黙示録17:14)。 AA 1497.1