国と指導者

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第13章 失敗から立ちあがる

本章は列王紀上19:9~18に基づく PK 454.4

エリヤがホレブ山に隠れたことは、人間にはわからなかったが、神は知っておられた。そして疲労し、絶望に陥った預言者はそこにただ1人残されて、押し寄せる悪の勢力と戦うのではなかった。神は大いなる天使をつかわして、エリヤが避難しているほら穴の入口で彼に会い、彼の必要をたずね、イスラエルに対する神のみこころを明らかにされるのであった。 PK 454.5

エリヤは神に全く信頼することを学ぶまでは、バアル礼拝に欺かれた人々に対する彼の働きを完成することができなかった。カルメル山上での驚くべき勝利は、さらに大きな勝利への道を開くはずであった。それにもかかわらず、エリヤはイゼベルに脅かされて、彼の前に開かれた驚くべき機会に背を向けていたのである。エリヤは、主が彼に占めることを望んでおられる有利な立場と比較して、現在彼がどんなに貧弱な状態にあるかを理解する必要があった。 PK 454.6

神は疲れたしもべに、「あなたはここで何をしているのか」とおたずねになった(列王紀上19:9)。私はあなたをケリテ川に送り、その次にはザレパテのやもめのところに送った。私はあなたにイスラエルに帰って、カルメル山上で偶像礼拝の祭司たちの前二立つことを命じた。そして、王の車をエズレルの門まで導く力をあなたに与えた。しかしこんなにあわててあなたを荒野に逃亡させたのは、いったいだれなの か、あなたはここで何の用があるのか。 PK 454.7

エリヤは悲痛な気持ちでつぶやいて言った。「わたしは万軍の神、主のために非常に熱心でありました。イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、刀をもってあなたの預言者たちを殺したので魂ただわたしだけ残りましたが、彼らはわたしの命を取ろうとしています」(同19:10)。 PK 455.1

天使はエリヤにほら穴から出て来て、山の上で主の前に立ち、主の言葉を聞くように命じた。「その時主は通り過ぎられ、主の前に大きな強い風が吹き、山を裂き、岩を砕いた。しかし主は風の中におられなかった。風の後に地震があったが、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火があったが、火の中にも主はおられなかった。火の後に静かな細い声が聞えた。エリヤはそれを聞いて顔を外套に包み、出てほら穴の口に立った」(同19:11~13)。神はご自分を彼のしもべにあらわすのに、大いなる神の力のあらわれではなくて、「静かな細い声」をお選びになったのである。最も効果的に神のみこころを達成するのは、何も最も華々しい活動を行う働きであるとは限らないことを、神はエリヤに教えようとなさったのである。エリヤが主の啓示を待っていた間、嵐が吹きたけり、雷光がひらめき、焼きつくす火が通り過ぎた。しかし神は、こうしたすべてのものの中にはおられなかった。その次に静かな細い声が聞こえた。そして預言者エリヤは、主のみ前で頭を覆ったのである。彼のつぶやきはなくなり、心は和らげられ、鎮められた。今彼は、静かに神に信頼して固く寄り頼んでいれば、必要な時にはすぐに助けが与えられることを知ったのである。 PK 455.2

人々の心に罪を悟らせて悔い改めに導くのは、神のみ言葉の最も博学な講演であるとは限らない。人々の心に触れるのは雄弁や論理ではなくて、聖霊の芳しい影響力である。聖霊は静かにしかも確実に働きかけて品性を改変し発するのである。人の心を変える力があるのは、神の聖霊の静かな細い声である。 PK 455.3

「あなたはここで何をしているのか」とその声はたずねた。エリヤはふたたびそれに答えた。「わたしは万軍の神、主のために非常に熱心でありました。イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、刀であなたの預言者たちを殺したからです。ただわたしだけ残りましたが、彼らはわたしの命を取ろうとしています」(列王紀上19:14)。 PK 455.4

主はエリヤに、イスラエルの悪人たちは、罰せられずにはすまされないと答えられた。偶像を礼拝する国家を罰して神のみこころを達成するために、特別な人々が選ばれなければならなかった。すべての者が、真の神の側につく機会を与えられるために、厳正な処置が取られなければならなかった。エリヤ自身がイスラエルに帰り、改革を起こすために、他の人々とともに重荷を負わなければならなかったのである。 PK 455.5

主はエリヤにお命じになった。「あなたの道を帰って行って、ダマスコの荒野におもむき、ダマスコに着いて、ハザエルに油を注ぎ、スリヤの王としなさい。またニムシの子エヒウに油を注いでイスラエルの王としなさい。またアベルメホラのシャパテの子エリシャに油を注いで、あなたに代って預言者としなさい。ハザエルのつるぎをのがれる者をエヒウが殺し、エヒウのつるぎをのがれる者をエリシャが殺すであろう」(同19:15~17)。 PK 455.6

エリヤはイスラエルの中で、自分だけが真の神の礼拝者であると考えていた。しかしすべての人々の心を読まれる神は、長くつづいた背信のなかにあって神に忠誠を保った者が多くいたことをエリヤに示された。「わたしはイスラエルのうちに7000人を残すであろう。皆バアルにひざをかがめず、それに口づけしない者である」と神は言われた(同19:18)。 PK 455.7

一見、失望と敗北と思われる時におけるエリヤの経験から多くの教訓を学ぶことができる。すなわち、人々が一般に正義から離反している、現代の神のしもべたちに非常に貴重な教訓を教えている。今日広く行きわたっている背信は、預言者の時代にイスラエルに広がった背信とよく似ている。今日多くの人々は神よりも人間を高め人気ある指導者を称賛し、富を礼拝し、啓示の真理よりも科学を尊重してバアル PK 455.8

に従っている。疑惑と不信は人々の心に悪影響を支ぼし、多くの者は人間の理論を神の言葉の代わりこしている。彼らは、人間の理性が神の言葉の教え以上に高められるべき時が来たと、公然と教えている。義の標準である神の律法は、もうその効力を失ったと言われている。すべての真理の敵は瞞的力をもって働きかけ、神の占めるべき位置に人間の制度を設け、人類の幸福と救いのために定められたものを彼らに忘れさせようとしている。 PK 456.1

しかしこの背信は、広がっているとは言っても、普遍的なものではない。世界中のすべての人が不法で罪深いのではない。すべての者が敵の側に加担したのではない。神は、バアルにひざをかがめない者を幾千人も持っておられる。また、キリストや律法についてもっと深く理解しようと熱望している者、イエスが速やかに来られて、罪と死の支配を終わらせてくださることを切望している者を多く持っておられる。バアルを知らずに礼拝している者も多くあって、聖霊はなお彼らに働きかけているのである。 PK 456.2

このような人々は、神を知り、神のみ言葉の力を知った人々の個人的な援助を必要としている。このような時に、神の子供はみな活発に他人を助けていなければならない。聖書の真理を知っている者が、光を熱望する男女をたずね求める時に、神の天使は彼らに伴っていく。そして天使たちの行くところには、誰でも恐れることなく前進することができる。献身した働き人の忠実な努力の結果として、多くの人々が偶像礼拝から生きた神の礼拝に立ち返るのである。多くの人々は人間が作った制度を崇敬することをやめて、恐れることなく神と神の律法の側に立つのである。 PK 456.3

真実で忠実な人々のたゆまぬ活動に負うところが多いのである。そのためにサタンは、服従する人々によって行われる神のみこころを、なんとかして妨げようと努力するのである。サタンはある者に、彼らの崇高で聖なる任務を見失わせて、この世の快楽に満足を味わわせようとする。サタンは彼らを安楽に定住させるか、それとも大きな世俗的利益を求めて、よい感化を及ぼすことができる場所から、彼らを移動させようと導くのである。彼はまた他の人々を、反対や迫害のゆえに失望させて、義務を行うことを回避させる、しかし天の神は、こうしたすべての人々を、この上もない慈悲深い心をもって見守られるのである。魂の敵によってその声を沈黙させられたすべての神の子に対して、「あなたはここで何をしているのか」という質問が投げかけられている。わたしはあなたに、全世界に出て行って福音を宣べ伝え、人々に神の日のための備えをさせるように任命したのである。あなたは、なぜここにいるのか。だれが、あなたを送り出したのか。 PK 456.4

キリストの前にあった喜び、犠牲と苦難の中にあって彼を支えた喜びは、罪人が救われるのを見る喜びであった。これがキリストに従うすべての者の喜びであり、彼の大望をかき立てるものでなければならない。贖罪が、彼らと彼らの同胞にとって、どんなことを意味するものであるかをたとえわずかでも自覚する者は、人類の必要の大きさが幾分か理解できよう。彼らは、恐ろしい運命のもとにある幾千という人々の道徳的、霊的欠乏を見る時に、彼らに対して深いあわれみの情を抱くであろう。それと比較するならば肉体的苦痛はなんでもなくなるのである。 PK 456.5

個人と同様に家族に対しても、「あなたはここで何をしているのか」という質問がなされている。多くの教会の中には、神のみ言葉の真理についてよく教えられた家族がある。そのような人々は、彼らのできる奉仕を必要としている場所へ移っていって、彼らの影響力の範囲を広げるとよいのである。神はキリスト者の家族が、地上の暗黒の場所へ出ていって、霊的暗黒に閉ざされている人々のために、賢く忍耐強く働くように招いておられる。こうした召しにこたえるのには、自己犠牲が必要である。多くの人々がすべての障害物の取り除かれるのを待っている間に、魂は望みなく、神なく死んでいる。世俗的利益のためや科学的知識獲得のために、人々は喜んで伝染病の多い地域へ入って行って、苦難と欠乏とに耐えるのである。救い主のことを他の人々に伝えるために喜ん でそれと同じことをする人々がどこにいるのであろうか。 PK 456.6

もし霊的力に満ちた人が、困難な状況のもとで極度の苦しみに遭い、失望落胆して生きがいを全く見失ってしまったとしても、これは不思議でも新しいことでもないのである。そうした人々はみな、最大の預言者の1人が、激怒する女の怒りを避けて命からがら逃げ出したことを思い出すとよい。放浪に疲れ果てた逃亡者である彼は、失望落胆して死ぬことを願ったのである。しかし希望は失せ去り、一生の働きは敗北に終わったかと思われた時に、彼はその生涯における最も尊い教訓の一つを学んだのである。彼はその最も弱かった時に、どのように忌まわしい状況のもとにあっても、神に信頼することの必要とその可能性について学んだのである。 PK 457.1

自分たちの生命のエネルギーを自己犠牲的働きのために使い尽くしながらも、落胆と疑惑に打ちひしがれそうになる者は、エリヤの経験から勇気を得るとよい。神の保護、神の愛、神の力は、その熱意が理解されず感謝されずその勧告と譴責が重んじられずその改革のための努力が憎しみと反対をもって報いられる神のしもべたちのために、特別にあらわされるのである。 PK 457.2

サタンが最も激烈な攻撃をしてくるのは、魂が最も弱っている時である。サタンはこのようにして、神のみ子に勝利しようとしたのである。なぜならば、サタンはこのような方法によって、多くの人々に勝利したからであった。意志の力が弱まり、信仰がくじけた時に、長く勇敢に正義のために立った人々が誘惑に負けたのである。モーセは40年間の放浪と不信に疲れ果てて、一瞬、無限の力をもった神を見失った。彼は約束の国の瀬戸際で失敗した。エリヤも同様であった。かんばつと飢饉の年月の間主に信頼しつづけ、恐れることなくアハブの前に立ち、カルメル山上におけるあの試練の日に、イスラエル全国民の前に真の神のただ1人の証人として立った彼が、疲れ果てた時には死の恐怖に襲われて、彼の神に対する信仰を失ってしまった。 PK 457.3

今日においてもそのとおりである。われわれも疑惑に襲われ、窮地に陥り、貧苦に悩むとき、サタンはわれわれの主に対する確信を動揺させようとするのである。彼がわれわれの誤りをわれわれの前に並べ立てて、神に対する不信を抱かせ、神の愛を疑わせようとするのはこの時である。彼は魂を失望させ、神から手を離させようとするのである。 PK 457.4

争闘の最前線に立って聖霊に特別の働きをするように促されている者は、時々圧力が除かれた時に、その反動を感じるものである。落胆はどんなに英雄的な信仰をも動揺させ、どんなに堅固な意志をもぐらつかせるのである。しかし神は理解し、なお憐れみ、愛されるのである。神は心の動機と目的とをお読みになる。万事が暗澹としている時に、忍耐強く待ち信頼することは、神の働きの指導者たちが学ばなければならない教訓である。神は逆境の中にある彼らをお見捨てにならない。自分の無価値なことを知って全く神に寄り頼む魂ほど、一見無力に見えるが、真にこれほどに打ち勝つことができないものはほかにないのである。 PK 457.5

試練の時に神に信頼することを改めて学ぶというエリヤの経験の教訓は、大きな責任の地位にある人々のためだけではない。エリヤの力であられたお方は、どんなに弱い者であっても、苦闘する神のすべての子供を支える力を持っておられる。神はすべての者に忠誠をお求めになり、すべての者に必要な力をお授けになるのである。人間は自分だけの力では無力である。しかし人間は神の力によって悪に勝利する力を持ち、他の人々をも勝利するように助けることができる。サタンは神を防御とする者に勝つことはできない。「人はわたしについて言う、『正義と力とは主にのみある』と」(イザヤ45:24)。 PK 457.6

キリスト者の友よ、サタンはあなたの弱点を知っている。だからイエスにしっかりつかまっていなさい。神の愛のうちにつながっているならば、すべての試練に耐えることができる。キリストの義だけが、世界を襲っている悪の潮流をとどめる力をあなたに与えることができる。信仰をあなたの経験の中に持ち込みな さい。信仰は、すべての重荷を軽くし、すべての疲労を和らげる。今不可解な摂理は、神に絶えず信頼することによって解決することができる。神がお定めになった道を、信仰によって歩きなさい。試練は来るであろう。しかし前進しなさい。これはあなたの信仰を強め、あなたを奉仕に適した者にする。聖なる歴史の記録は、われわれがただそれを読んで驚くだけではなくて、古代の神のしもべたちの中に働いたのと同じ信仰が、われわれのうちにも働くために書かれたのである。主の力の通路となる信仰の人々がいるところならどこでも、主は今も同様の著しい方法でお働きになるのである。 PK 457.7

ペテロと同様にわれわれに対しても、「サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って許された。しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った」という言葉が語られている(ルカ22:31、32)。キリストは、ご自分が身代わりになって亡くなられたその人々をお捨てになることはない。われわれは彼を去り、誘惑に打ち負かされることであろう。しかしキリストは、ご自分の生命という贖いの代価を払われた人から、離れ去ることはおできにならない。 PK 458.1

もしわれわれの霊的視界が開かれるならば、穀物の束をのせた車のように圧さえられ、悲しみに打ちひしがれてうなだれ、失望して今にも死んでしまいそうになっている魂を見ることであろう。またわれわれは、天使が急いで飛んでいって、こうした試みに遭っている人々を助け、彼らを取りまいている悪の軍勢を追い返し、彼らの足を確かな土台の上に置いているのを見るであろう。2つの軍勢の間の戦いは、この世の軍勢の戦いと同様に現実のものである。そして霊的争闘の結果いかんに、永遠の運命がかかっているのである。 PK 458.2

預言者エゼキエルの幻のなかに、ケルビムの翼の下に手のようなものがあった。これは神のしもべたちに成功を与えるのは、神の力であるということを教えるためである。神がご自分の使命者としてお用いになる人々は、神の働きが彼らに依存していると考えてはならない。有限な者が、この責任の重荷を担うように放置されているのではない。まどろむことなく、常にご計画の達成のために働いておられるお方が、彼の働きを推進されるのである。彼は悪人たちの計画を阻止し、神の民に対して害を加えようとする者たちの策略を混乱させられる。王であり、主の主であられるお方が、ケルビムの間に座しておられる。そして、国々の争闘と動乱のなかにあって、今なお神の民を守っておられるのである。王たちの城砦が破壊され、怒りの矢が神の敵の心臓を射し貫くときに、神の民は神のみ手のうちに安全に守られるのである。 PK 458.3