国と指導者
第51章 精神の大覚醒
エズラのエルサレム到着は、時機を得たものであった。彼が来て影響を及ぼすことが、大いに必要であった。彼が来たことは、長い間困難に耐えて働いた多くの人々の心に、勇気と希望をもたらした。70年以上も前に、ゼルバベルとヨシュアの指導のもとに最初の捕囚の一行が帰還してから、多くの事が成し遂げられた。神殿は完成し、町の城壁は部分的に修復された。しかしまだ、なすべきことがたくさんあった。 PK 615.4
先年エルサレムに帰った人々の中には、生きている間神に忠誠をつくした人々が多くあった。しかし彼らの子孫の多くは、神の律法の神聖さを見失った。責任を負わせられた人々の中には、公然と罪の生活をしている者さえいた。彼らの行動は、神の事業を推進させようとしていた他の人々の努力を、大いに妨げていた。はなはだしい律法の違反を謎責もせずに放任しておく限り、神の祝福は人々の上に下ることはできなかった。 PK 615.5
エズラとともに帰還した人々が、特別に主を求める時を設けたことは神の摂理であった。彼らが人間の力の保護を受けずに、バビロンからの旅を今なし終えたという経験は、彼らに貴重な霊的教訓を与えた。多くの者の信仰が強化された。そして彼らがエルサレムで、失望に陥り冷淡になった人々と交わった時に、力強い影響を及ぼして、その後しばらくして改革が起こったのである。 PK 616.1
金銀および神殿の器物などの宝物は、到着後4日目に証人の前で、非常な厳密さをもって神殿の役人に手渡された。「そのすべての数と重さとを調べ」た(エズラ8:34)。 PK 616.2
エズラとともに帰還した捕囚の民は、「イスラエルの神に燔祭をささげ」、それを罪祭として、また道中、聖天使の保護が与えられたことに対する感謝のしるしとした。彼らはまた王の命令書を、王の総督たち、および川向こうの州の知事たちに渡したので、彼らは民と神の宮とを援助した」(同8:35、36)。 PK 616.3
その後時を移さず、イスラエルのつかさたち数人がエズラのところに来て、重大問題について苦情を訴えた。「イスラエルの民、祭司およびレビびと」の中のある人々は、主の聖なる戒めに反して周囲の国民と雑婚していた。エズラは次のように聞かされた。「すなわち、彼らの娘たちをみずからめとり、またそのむすこたちにめとったので、聖なる種が諸国の民とまじりました。そしてつかさたる者、長たる者が先だって、このとがを犯しました」(同9:1、2)。 PK 616.4
エズラはバビロン捕囚め原因を研究した時に、イスラエルの背信は主として、彼らが周囲の国々と入り混じったことにあることを学んだのである。彼は、もし彼らが周囲の諸国から離れているようにという神の命令に従っていたならば、多くの悲しい屈辱的な経験に遭わずにすんだことを悟った。ところが過去の教訓があるにもかかわらず、すぐれた人々が、背信を防ぐために与えられた律法を敢えて犯したことを知って、エズラの心は穏やかではなかった。彼は、ふたたび神の民に、彼らの故国に足がかりをお与えになった神の恵みを思うとともに、彼らの忘恩に対する宗教的憤りと悲しみに圧倒された。彼は言っている、「わたしはこの事を聞いた時、着物と上着とを裂き、髪の毛とひげを抜き、驚きあきれてすわった。イスラエルの神の言葉におののく者は皆、捕囚から帰って来た人々のとがのゆえに、わたしのもとに集まったが、わたしは夕の供え物の時まで、驚きあきれてすわった」(エズラ9:3、4)。 PK 616.5
エズラは夕の供え物の時になって立ちがり、もう1度着物と上着を裂いて、ひざをかがめて、天の神に心の願いを訴えたのである。彼は主にむかって手をさし伸べて叫んだ。「わが神よ、わたしはあなたにむかって顔を上げるのを恥じて、赤面します。われわれの不義は積って頭よりも高くなり、われわれのとがは重なって天に達したからです」(同9:6)。 PK 616.6
エズラは続けて言った。「われわれの先祖の日から今日まで、われわれは大いなるとがを負い、われわれの不義によって、われわれとわれわれの王たち、および祭司たちは国々の王たちの手にわたされ、つるぎにかけられ、捕らえ行かれ、かすめられ、恥をこうむりました。 PK 616.7
今日のとおりです。ところがいま、われわれの神、主は、しばし恵みを施して、のがれ残るべき者をわれわれのうちにおき、その聖所のうちに確かなよりどころを与え、こうしてわれわれの神はわれわれの目を明らかにし、われわれをその奴隷のうちにあって、少しく生き返らせられました。われわれは奴隷の身でありますが、その奴隷たる時にも神はわれわれを見捨てられずかえってペルシャ王たちの目の前でいつくしみを施して、われわれを生き返らせ、われわれの神の宮を建てさせ、その破壊をつくろわせ、ユダとエルサレムでわれわれに保護を与えられました。 PK 616.8
われわれの神よ、この後、何を言うことができましょう。われわれは、あなたの戒めを捨てたからですあなたはかつて、あなたのしもべである預言者たちによって命じて仰せられました。……われわれの悪1行いにより、大いなるとがによって、これらすべてのこと力駅すでにわれわれに臨みましたが、われわれの神なるあなたは、われわれの不義よりも軽い罰をくだし て、このように残りの者を与えてくださったのを見ながら、われわれは再びあなたの命令を破って、これらの憎むべきわざを行う民と縁を結んでよいでしょうか。あなたはわれわれを怒って、ついに滅ぼし尽し、残る者も、のがれる者もないようにされるのではないでしょうか。ああ、イスラエルの神、主よ、あなたは正しくいらせられます。われわれはのがれて残ること今日のとおりです。われわれは、とがをもってあなたの前にあります。それゆえだれもあなたの前に立つことはできません」(同9:7~15)。 PK 616.9
主の働きの中心部に、知らぬ間に忍び込んだ罪悪に対するエズラと彼の同僚の悲しみは、悔い改めをもたらした。罪を犯した人々の多くは、深く心を動かされた。「民はいたく泣き悲しんだ」(同10:1)。彼らは部分的ではあったが、彼らの罪の極悪さと、神がそれをどのように憎まれるかを悟り始めた。彼らはシナイ山で語られた律法の神聖さを自覚した。そして多くの者は、彼らの罪を思ってふるえおののいた。そこにいた1人で、シカニヤという人は、エズラが語った言葉は皆ほんとうであると認めた。彼は告白して言った。 PK 617.1
「われわれは神にむかって罪を犯し、この地の民から異邦の女をめとりました。しかし、このことについてはイスラエルに、今なお望みがあります。」シカニヤは罪を犯した者が皆、罪を捨てる契約を神と結び、「律法に従って」裁きを受けようと提案した。彼はエズラに言った。「『立ちあがってください、この事はあなたの仕事です。われわれはあなたを助けます。心を強くしてこれを行いなさい』。エズラは立って、おもだった祭司、レビびとおよびすべてのイスラエルびとに、この言葉のように行うことを誓わせた」(同10:2~5)。 PK 617.2
驚くべき改革は、こうして始まったのである。エズラと彼の同僚たちは、限りない忍耐と機転をもって、関係者各自の権利と幸福を十分に考慮して、悔い改めたイスラエルの人々を、正しい道に導こうと努めた。エズラは何物にもまして律法の教師であった。そして彼が、個々の場合を調査して個人的注意を払った時に、この律法の神聖さと服従によって与えられる祝福を、人々の心に印象づけようとした。 PK 617.3
エズラが働いたところは、どこでも聖書研究のリバイバルが起こった。人々に教える教師が任命された、主の律法が高められ、光栄あるものとされた。預言者の書が研究された。そしてメシヤの来臨を予告した聖句は、悲しみ疲れた多くの人の心に希望と慰めを与えた。 PK 617.4
エズラが「心をこめて主の律法を調べ、これを行」ってから、2000年以上が過ぎ去った(エズラ7:10)。しかし時の経過は、彼の敬虔な模範の影響を少しも弱らせていない。彼の献身した生涯の記録は、幾世紀を通じて多くの人々に、「主の律法を調べ、これを行」う決意を促したのである。 PK 617.5
エズラの動機は気高く、神聖なものであった。彼のなしたことはすべて、魂に対する深い愛に動かされたものであった。故意であろうが、無知によるものであろうが、罪を犯した者に対する彼の同情と情け深さは、改革を起こそうとするすべての者にとって、実物教訓でなければならない。神のしもべは、正しい原則に関しては岩のように堅固でなければならない。それとともに、彼らは同情と忍耐をあらわさなければならない。彼らはエズラのように、すべての正しい行為の基礎である原則を説き聞かせて、罪人に生命の道を教えなければならない。 PK 617.6
サタンがいろいろな方法で、神の律法の要求に対して、人々の目をくらませているこの時代において、「われわれの神の命令に」、多くの人々をふるえおののかすことのできる人々が必要である(同10:3)。大いなる律法の与え主を罪人に指し示し、彼らに「主のおきては完全であって、魂を生きかえらせ」ることを教える、真の改革者が必要である(詩篇19:7)。聖書にくわしい人々、すべての言行において主の戒めを高める人々、信仰を強めようと努力する人々が必要である。人々の心に、聖書に対する崇敬の念と愛を起こさせる教師が、なんと多く必要なことであろう。 PK 617.7
今日、罪悪が広く行き渡っているのは、主として聖 書を研究して、それに従わなかったためであると言うことができる。神の言葉を破棄する時に、生まれながらの心の邪悪な欲情を抑制する、その力を否定する。人々は肉にまいて、肉から滅びを刈り取るのである。 PK 617.8
聖書を破棄することから、神の律法に対する離反が生じた。人間は神の律法への服従から解放されたという教えは、道徳的義務感を薄弱にし、世界に罪悪の水門を開いた。不法、放蕩、腐敗が、圧倒的に洪水のように押し寄せている。ねたみ、猜疑(さいぎ)心、偽善、離反、競争、争闘、神聖な信頼に対する裏切り、肉欲にふけることなどが至る所に見られる。社会生活の基盤であり骨組みであるべき、宗教的原則と教理の全体系が揺れ動いて、今にも崩壊するばかりになっている。 PK 618.1
この地上歴史の最後の時代にあっても、シナイで語った声は今なお、「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない」と宣言している(出エジプト20:3)。人間は神のみこころに逆らって自分の意志に従うが、命令の言葉を沈黙させることはできない。人間の心は、より高い権力に対する義務を逃れることはできない。いろいろの説や推論があふれていることであろう。人間は啓示に対抗して科学を支持し、神の律法を廃そうとするであろう。しかし、「主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ」という命令が、なお一層力強く発せられるのである(マタイ4:10)。 PK 618.2
主の律法を弱めるとか、あるいは強めるといったことはないのである。律法はこれまでどおり、今も同じである。律法は常にそれ自体が聖であって、正しくかつ善なるものであったし、今後も常にそうなのである。律法は廃止したり、変更したりできない。律法を「光栄あるものとする」、または「軽んじる」というのは、ただ人間の言葉に過ぎない。 PK 618.3
人間の律法と主の戒めの間に、真理と誤りの間の大争闘の、最後の戦いが行われる。今われわれはこの戦い、すなわち至上権を争う教会間の争いではなくて、聖書の宗教と作り話や伝統的宗教との間の戦いに入っている。真理に逆らって結束した勢力が、今や活発に働いている。苦難と流血という高価な価によってわれわれに伝えられた、神の聖なる言葉は尊ばれていない。それを人生の規準として、真に信じる者はほとんどいない。不信仰は世俗ばかりでなくて、教会の中にも驚くばかりに広く行き渡っている。キリスト教の柱石そのものである教理を拒否する者が多くいる。霊感を受けた筆者が記した創造、人類の堕落、贖罪、律法の永遠性などの偉大な事実はみな、自称キリスト教界の大半の人々が、否定したも同然の有様である。知識を誇る幾千という人々は、聖書を絶対的に信じることは弱さの証拠であると考える。そして聖書に異議を申し立て、その最も重要な真理を精神的意味にとって解釈することが、博学のしるしであると考える。 PK 618.4
キリスト者は、やがて世界に、圧倒的驚きとして起ころうとしている事件の、準備をしなければならない。そして彼らは、神の言葉を忠実に研究して、その教えに生活を調和させようと努力することによって、この準備をしなければならない。永遠に関する恐るべき問題は、空想的でただ言葉と形式だけの宗教以上のものを要求している。この宗教においては、真理が除外されているのである。神はリバイバルと改革を求めておられる。講壇からは、聖書、そして聖書のみの言葉が語られなければならない。しかし聖書の力は奪い去られているので、その結果は霊的生活の低下となってあらわれている。 PK 618.5
今日の多くの説教は、良心を覚醒させて魂に生命を与える、神の力に欠けている。聴衆は「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互いの心が内に燃えたではないか」と言うことができない(ルカ24:32)。生ける神を叫び求め、神の臨在を熱望している者がたくさんある。彼らの心に神の言葉を語ろう。これまでただ伝説と人間の説と、格言だけを聞いていた人々に、魂を新たにして、永遠の生命に至らせることができるお方の声を聞かせよう。 PK 618.6
家長や預言者たちから大きな光が輝き出た。神の都シオンについて、栄光に満ちた言葉が語られた。こうして主は、今日の彼の弟子たちによって光が輝き 出るように計画された。もし旧約時代の聖徒たちが、あのように輝かしい忠誠のあかしを立てたとするならば、幾世紀にわたって蓄積された光が輝いている者は、真理の力について、もっと著しいあかしを立てるべきではなかろうか。預言の輝かしい光がわれわれの道を照らしている。神の子の死によって、型は原型と合致した。キリストは死からよみがえり、裂かれた墓の上で、「わたしはよみがえりであり、命である」と宣言された(ヨハネ11:25)。イエスはご自分の霊を世に送って、すべての事をわれわれに思い起こさせて下さるのである。彼は力ある奇跡によって、各時代を通じて書かれたその言葉を保存された。 PK 618.7
抗議をしたためにプロテスタントと呼ばれた改革者たちは、福音の光を世界に照らすために、神が彼らを召されたことを感じた。そしてそれをなすためには、彼らの財産、自由、生命そのものさえ犠牲にする心構えであった。迫害と死にもめげず、福音は至る所で宣言された。神の言葉は人々に伝えられた。そして地位の高低を問わずすべての階級の人々、金持ちも貧しい人々も、学者も無学な者も、熱心に自分で聖書を研究した。大争闘のこの最後の戦いに参加しているわれわれは、初期の改革者たちのように、われわれに託された任務に忠実であろうか。 PK 619.1
「シオンでラッパを吹きならせ。 PK 619.2
断食を聖別し、聖会を召集し、 PK 619.3
民を集め、会衆を聖別し、 PK 619.4
老人たちを集め、幼な子……を集め、…… PK 619.5
主に仕える祭司たちは、 PK 619.6
廊と祭壇との間で泣いて言え、 PK 619.7
『主よ、あなたの民をゆるし、 PK 619.8
あなたの嗣業をもろもろの国民のうちに、 PK 619.9
そしりと笑い草にさせないでください」。 PK 619.10
「『今からでも、あなたがたは心をつくし、 PK 619.11
断食と嘆きと、悲しみとをもってわたしに帰れ。 PK 619.12
あなたがたは衣服ではなく、心を裂け』。 PK 619.13
あなたがたの神、主に帰れ。 PK 619.14
主は恵みあり、あわれみあり、 PK 619.15
怒ることがおそく、いつくしみが豊かで、 PK 619.16
災を思いかえされるからである。 PK 619.17
神があるいは立ち返り、 PK 619.18
思いかえして祝福をその後に残し、 PK 619.19
素祭と灌祭とを PK 619.20
あなたがたの神、主にささげさせられる事はないと PK 619.21
だれが知るだろうか」。 PK 619.22
(ヨエル2:15~17、12~14) PK 619.23