国と指導者

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第49章 王妃エステルの決心

クロス王の恵み深い処置の下で、約5万人の捕囚の民が帰還命令を利用した。しかしこの人々は、メド・ペルシャの領内に広く離散した幾千幾万の人々と比較するならば、ほんのわずかの残りの民であった。イスラエルの大多数の民は、帰国の旅と彼らの荒廃した町々や故郷を再建する困難を経験するよりは、むしろ捕囚の地にとどまることを選んだのであった。 PK 609.2

幾十年かが経過し、当時支配権を握っていた王ダリヨス・ヒスタスパスが、第一の布告と全く同様に恵み深い第二の布告を出したのである。こうして神は豊かな恵みのうちに、メド・ペルシャの領内のユダヤ人に、もう1度故郷の地に帰る機会をお与えになった。主はクセルクセスすなわち、エステル記のアハシユエロスの治世に、困難な時代が来ることが予見された。そして権威をもった人々の心を変えられたばかりでなく、ゼカリヤに霊感を与えて捕囚の民に帰還することを訴えられたのである。 PK 609.3

かつての故郷から遠く、多くの国に離散したイスラエルの部族に、次のような言葉が与えられた。「主は仰せられる、さあ、北の地から逃げて来なさい。わたしはあなたがたを、天の四方の風のように散らしたからである。さあ、バビロンの娘と共にいる者よ、シオンにのがれなさい。あなたがたにさわる者は、彼の目の玉にさわるのであるから、あなたがたを捕らえていった国々の民に、その栄光にしたがって、わたしをつかわされた万軍の主は、こう仰せられる、『見よ、わたしは彼らの上に手を振る。彼らは自分に仕えた者のとりことなる。その時あなたがたは万軍の主が、わたしをつかわされたことを知る』」(ゼカリヤ2:6~9)。 PK 609.4

神の民が地で誉れを受け、神のみ名の栄えとなることがはじめから神のみこころであったように、それは今でも神のみこころであった。神は長い捕囚の年月の間に、彼らがふたたび神に忠誠をつくす機会を、幾度もお与えになったのである。耳を傾けて学ぼうとする人々があった。 PK 609.5

また、苦難のただ中にあって、救いを見いだした人々もあった。これらの人々の多くは、帰還する残りの民の中に加えられるのであった。霊感は彼らを、「香柏の高いこずえ」にたとえた。主は「これを高いすぐれた山に植える。……イスラエルの高い山にこれを植える」のであった(エゼキエル17:22、23)。 PK 609.6

クロスの布告のもとに帰還した人々は、「神にその心を感動された者」であった(エズラ1:5)。しかし神は、進んで捕囚の地にとどまることにした人々に訴えることをやめられなかった。神はいろいろの方法を用いて、彼らもまた帰還できるようにして下さった。ところが、クロスの布告に答えなかった大多数の人々は、その後の訴えには関心を示さなかった。そしてゼカリヤが、もうこれ以上遅延することなくバビロンを逃れるように警告しても、彼らはその招きに注 意しなかった。 PK 609.7

その間に、メド・ペルシャの国内状勢が急激に変化していた。ユダヤ人が著しく厚遇されたダリヨス・ヒスタスパスに続いて、クセルクセス大王が即位した。逃れるようにという言葉に心を向けなかったユダヤ人が、恐ろしい危機に当面したのは、彼の治世においてであった。彼らは神がお備えになった逃亡の機会を利用することを拒否したので、今や彼らは死に直面させられた。 PK 610.1

サタンはこの時、メド・ペルシャの非道な高官、アガグ人ハマンを用いて、神のみこころに対抗しようとした。ハマンはユダヤ人のモルデカイに、激しい怒りをいだいた。モルデカイはハマンに、何の危害も加えたのではなかった。彼はただ、ハマンに礼拝的敬意を表さなかっただけであった。ハマンは、「ただモルデカイだけを殺すことを潔しと」せずに、「アハシュエロスの国のうちにいるすべてのユダヤ人、すなわちモルデカイの属する民をことごとく滅ぼそうと図った」(エステル3:6)。 PK 610.2

クセルクセスはハマンの虚偽の言葉に惑わされて、メド・ペルシャ王国の「各州にいる諸民のうちに、散らされて、別れ別れになっている」ユダヤ人を、全部滅ぼすように詔(みことのり)を書かされた(同3:8)。ユダヤ人が殺されて、その財産を奪い取る日が決定された。王はこの詔が実行されたならば、どんな重大な結果が起こるかを、少しも知らなかった。サタン自身がこの策略の背後で暗躍して、真の神の知識を保っている人々を地上から滅ぼし去ろうとしていたのである。 PK 610.3

「すべて王の命令と詔をうけ取った各州ではユダヤ人のうちに大いなる悲しみがあり、断食、嘆き、叫びが起り、また荒布をまとい、灰の上に座する者が多かった」(同4:3)。メド・ペルシャの法令は、取り消すことができなかった。一見、絶望のように思われた。イスラエル人は皆殺しにされるのであった。 PK 610.4

しかし敵の策略は、人間の子らを支配しておられる神の力によって打ち破られた。神の摂理のうちに至高者を恐れるユダヤの女性エステルが、メド・ぺルシャ王国の王妃になっていたのである。モルデカイは彼女の親せきであった。彼らは窮地に追いこまれて、ユダヤ民族のためにクセルクセスに訴えることにした。エステルはとりなす者として、王の面前に危険を冒して出るのであった。モルデカイは、「あなたがこの国に迎えられたのは、このような時のためでなかったとだれが知りましょう」と言った(エステル4:14)。 PK 610.5

エステルが当面した危機は、真剣な努力を急速にする必要があった。しかしエステルもモルデカイもともに、神が彼らのために大いなる働きをして下さるのでなければ、彼ら自身の努力は無益なことを知っていた。そこでエステルは、力の源であられる神と交わる時間をとったのである。エステルはモルデカイに、次のように答えさせた。「あなたは行ってスサにいるすべてのユダヤ人を集め、わたしのために断食してください。3日のあいだ夜も昼も食い飲みしてはなりません。わたしとわたしの侍女たちも同様に断食しましょう。そしてわたしは法律にそむくことですが王のもとへ行きます。わたしがもし死なねばならないのなら、死にます」(同4:16)。 PK 610.6

急速に次々と起こったでき事、すなわちエステルが王のもとへ行ったこと、王が彼女に著しい恵みを示したこと、ハマンを唯一の客とする王と王妃の宴会、王が夜眠れなかったこと、モルデカイに公衆の前で栄誉が与えられたこと、邪悪な策略が発見されてハマンが屈辱をこうむって失脚したことなどはみな、われわれのよく知っている物語である。神は悔い改めた民のために、驚くべきことをなさった。そして王は、前とは反対の布告を出して、ユダヤ人が彼らの生命を保護することを許し、早馬に乗った急使が王国の各州に急速に伝えた。 PK 610.7

彼らは「王の命によって急がされ、せきたてられて出て行った」。「いずれの州でも、いずれの町でも、すべて王の命令と詔の伝達された所では、ユダヤ人は喜び楽しみ、酒宴を開いてこの日を祝日とした。そしてこの国の民のうち多くの者がユダヤ人となった。これはユダヤ人を恐れる心が彼らのうちに起ったか らである」(エステル8:14、17)。 PK 610.8

ユダヤ人を殺すことになっていた日に、「ユダヤ人はアハシュエロス王の各州にある自分たちの町々に集まり、自分たちに害を加えようとする者を殺そうとしたが、だれもユダヤ人に逆らうことのできるものはなかった。すべての民がユダヤ人を恐れたからである」。力のすぐれた天使たちが、「自分たちの生命を保護し」ようとした神の民を守るように、神の命令を受けていたのであった(同9:2、16)。 PK 611.1

モルデカイは、以前ハマンが占めていた栄誉ある地位を与えられた。彼は「アハシュエロス王に次ぐ者となり、ユダヤ人の中にあって大いなる者となり、その多くの兄弟に喜ばれた」(同10:3)。彼はイスラエルの幸福を増進させた。こうして神はもう1度、メド・ペルシャの宮廷において神の選民に恵みを得させ、彼らを故国に回復させようとする神のみこころを実行することを、可能にして下さったのである。しかしそれから数年経過して、クセルクセス大王の次に即位した、アルタクセルクセス1世の第7年になってはじめて、エズラの指導のもとに、相当数の者がエルサレムに帰還したのである。 PK 611.2

エステルの時代に神の民を訪れた苦しい経験は、ただその時代だけのものではなかった。ヨハネは、時の終末に至るまでの各時代を眺めて言った。「龍は、女に対して怒りを発し、女の残りの子ら、すなわち、神の戒めを守り、イエスのあかしを持っている者たちに対して、戦いをいどむために、出て行った」(黙示録12:17)。今日地上に住んでいる者の中に、こうした言葉が成就するのを見るのである。各時代において、人々に真の教会を迫害させた同じ精神が、将来も、神に忠誠をつくす者に対して同様の行動を取らせるに至るのである。現在でさえ、この最後の大争闘に対する準備が行われているのである。 PK 611.3

最後に神の残りの民に対して出される布告は、ユダヤ人に対してアハシュエロス(クセルクセス)が発したものと非常によく似ている。今日、真の教会の敵は、安息日の戒めを守る小さな群れを、門に座しているモルデカイのように思っている。神の民が神の律法を敬うことは、主を恐れることを放棄して神の安息日をふみにじっている者に対して、間断なき譴責である。 PK 611.4

サタンは、一般の習慣や伝統を受け入れない、少数の者に対して怒りを発する。地位の高い人々や有名人は、不法者や悪人に加担して、神の民に対して策略を練る。富を持った人、特殊の才能の持ち主、教育のある人などが1つになって彼らを軽べつする。迫害を加える支配者たち、牧師や教会員たちが彼らを滅ぼそうと陰謀を企てる。この人々は声と筆、誇張と脅迫と嘲笑などによって、彼らの信仰をくつがえそうとする。人々は偽りの申し立てと、怒りを含んだ訴えによって民衆の怒りをかき立てようとする。聖書的安息日の擁護者に対して、「聖書はこう言っている」ということができないので、彼らは圧制的法令に訴えて、自分たちに欠けているものを補う。立法者たちは民衆の人気と支持を得るために、日曜休業令に屈服する。しかし神を恐れる者は、十戒の戒めに反する法令に従うことはできない。真理と誤りの間の最後の大争闘は、この論点において戦われるのである。そしてわれわれは、その結果について何の疑惑ももたないのである。エステルとモルデカイの時代におけると同様に、今日においても主は、神の真理と神の民とを擁護されるのである。 PK 611.5