国と指導者
第39章 バビロン王宮の4青年
本章はダニエル1章に基づく PK 565.5
70年の捕囚期間の初めに、バビロンに捕らえられていったイスラエルの人々の中に、鋼鉄のように堅く原則に立つキリスト者の愛国者たちがいた。彼らは利己心によって腐敗されず、すべてのものを失っても、神に栄光を帰そうとしていた。この人々は、彼らが連れられていった国において、主を知ることによってもたらされる祝福を異教の国々に与えて、神のみこころを行うのであった。彼らは神の代表者となるのであった。彼らは、どんなことがあっても、偶像礼拝者たちと妥協してはならないのであった。彼らはその信仰と、生ける神の礼拝者と呼ばれることを、大きな名誉として身に帯びなければならなかった。そして彼らはこれを実行したのであった。彼らは順境においても、逆境においても、神をあがめたのである。そして神は、彼らに栄誉をお与えになったのである。 PK 565.6
勝利者たちは、主の礼拝者であるこれらの人々がバビロンの捕囚であること、また神の家の器がバビロンの神々の神殿にあるということを、彼らの宗教と習慣がヘブル人の宗教と習慣よりも優れたものであるということの証拠であると言うのであった。しかし神は、イスラエルが神から離れたために招いた屈辱そのものによって、神の至上権と神の要求の神聖なこと、服従には確かな結果が伴うということについての証拠をバビロンにお示しになった。そして神は、神に 忠実である人々によってのみなされ得る方法でこれを証明なさったのである。 PK 565.7
神に対する忠誠を保っていた人々の中に、ダニエルと彼の3人の友人があった。これは、知恵と力の神に結合する時に、人間はどのようになり得るかということの著しい実例である。王家に属するこれらの青年たちは、比較的質素なユダヤの家庭から、最も華麗な都市と世界最大の王の宮廷に連れていかれたのである。ネブカデネザル王は「宙官の長アシペナズに、イスラエルの人々の中から、王の血統の者と、貴族たる者数人とを、連れて来るように命じた。すなわち身に傷がなく、容姿が美しく、すべての知恵にさとく、知識があって、思虜深く、王の宮に仕えるに足る若者を連れてこさせ……ようとした。…… PK 566.1
彼らのうちに、ユダの部族のダニエル、ハナニヤ、ミシャエル、アザリヤがあった」(ダニエル1:3~6)。ネブカデネザルは、これらの青年が著しい能力の可能性を持っているのを認めて、彼らを訓練して、彼の王国の重要な地位を占める者にしようと考えた。王は、彼らがその生涯の働きに対する十分な資格を得るために、彼らがカルデヤの言語を学んで、国内の王子たちに与えられる特別な教育的特権を、3年の間与えられるように取り決めた。 PK 566.2
ダニエルと彼の仲間たちの名前は、カルデヤの神々を代表する名に変えられた。ヘブルの親たちが、その子供に与える名前には、重大な意味が伴っていた。しばしばこれらの名前は、親が子供の中に啓発されることを願った品性の特質を表したものであった。捕虜の青年たちの監督を任じられた富官は、「ダニエルをベルテシャザルと名づけ、ハナニヤをシャデラクと名づけ、ミシャエルをメシャクと名づけ、アザリヤをアベデネゴと名づけた」(同1:7)。 PK 566.3
王はヘブルの青年たちが彼らの信仰を捨てて偶像礼拝を受け入れるように強制はしなかったが、徐々にそうなることを希望していた。王は彼らに、偶像礼拝にとって重要な名を与え、日ごとに偶像礼拝の習慣と密接な交わりに入らせ、異教の礼拝の魅惑的儀式の影響下に彼らをおいて、彼らに自国の宗教を放棄させて、バビロン人の礼拝に結合させようとしたのである。 PK 566.4
彼らはその生涯のまず出発点において、彼らの品性をためす決定的試練に出会った。彼らは王の食卓から与えられる食物を食べ、酒を飲むように定められた。王は、こうして、彼らに対する彼の愛顧と、彼らの幸福に対する彼の配慮とを示そうとしたのである。しかし王の食卓から与えられた食物は、その一部が偶像にささげられたものであるから、偶像礼拝に奉献されたものであった。そしてその食物にあずかる者は、バビロンの神々に敬意を表するとみなされるのであった。ダニエルと彼の仲間たちは、主に忠誠を尽くそうとすれば、こうした敬意を表することはできなかった。単に食物を食べ、または酒を飲むふりをすることでさえも、彼らの信仰を拒否することになるのであった。このようにすることは、異教主義に参加して、神の律法の原則を汚すことになるのであった。 PK 566.5
また彼らは、体的、知的、霊的発達を阻害する快楽と浪費にふける危険を冒そうとしなかった。彼らは、ナダブとアビウの物語、すなわちモーセの五書に保存されていた彼らの放縦とその結果の記録をよく知っていた。そして彼らは、自分たちの体的、知的能力が、酒を用いることによって悪影響を受けることを知っていた。 PK 566.6
ダニエルとその仲間たちは、厳格な節制の習慣を形成するように、親たちの訓練を受けたのである。彼らは、自分たちの能力に対して神が彼らに責任を問われること、また彼らは、決して自分たちの能力の発達を妨げたり、弱めたりしてはならないことを教えられていた。この教育は、ダニエルとその仲間たちにとって、バビロンの宮廷の退廃的影響のただ中にあって、彼らを保護する手立てとなった。あの宮廷の腐敗と華やかさの中で彼らを取り巻く誘惑は、実に強力であったが、彼らは汚染されなかった。どんな権力、またどんな影響力であっても、彼らが幼少のころ、神の言葉とみわざから学んだ原則から、彼らを動揺させることはできなかった。 PK 566.7
もしダニエルが望みさえすれば、厳格な節制の習 慣から離れる、もっともらしい理由を、周囲の事情に見つけることができたであろう。彼は王の恩顧を受けていて、彼の権下にあるのであるから、王の食べる食物を食べ、彼の酒を飲むよりほかに彼の進む道はないと論じることもできた。なぜならば、もし彼が神の教えに固執するならば、王を怒らせて、彼の地位と生命を失うことになるかも知れなかったからである。もし彼が主の戒めをなおざりにするならば、王の恩顧を受け続け、自己の知的に有利な立場と華やかな世俗的栄進の道を確保するのであった。 PK 566.8
しかしダニエルはちゅうちょしなかった。神の是認は、この地上の最も強力な王の恩顧を受けることよりも彼には尊く、生命そのものよりも尊いことであった。彼は、結果がどうなろうと、高潔さを保って固く立つ決心をした。彼は、「王の食物と、王の飲む酒とをもって、自分を汚すまいと、心に思い定めた」(ダニエル1:8)。そして彼のこの決意を3人の仲間たちは支持したのである。 PK 567.1
ヘブルの青年たちは、この決心をした時に、思い上がった気持ちからではなくて、神に固く信頼して行動したのである。彼らは好んで奇異なことをしようとしたのではなく、神のみ栄えを汚すよりは、むしろそうしたかったのである。もし彼らがこの場合、環境の圧力に屈して悪と妥協したならば、この原則の離反は、彼らの正義感と悪を憎む心とを弱めたことであろう。悪の最初の第1歩は、さらに2歩、3歩と進んで、ついに彼らは天との関係が断絶して、誘惑にさらわれてしまうのである。 PK 567.2
「神はダニエルをして、宙官の長の前に、恵みと憐れみとを得させられたので」、彼が自分を汚すまいとする願いに、宙官は敬意を表した(同1:9)。しかし彼は許可を与えることをためらってダニエルに説明した。「わが主なる王は、あなたがたの食べ物と、飲み物とを定められたので、わたしはあなたがたの健康の状態が、同年輩の若者たちよりも悪いと、王が見られることを恐れるのです。そうすればあなたがたのために、わたしのこうべが、王の前に危くなるでしょう」(同1:10)。 PK 567.3
そこでダニエルは、ヘブルの青年たちを特別に世話することを委ねられた家令に訴えて、王の食物を食べることと王の酒を飲むことを免除されるように願い出た。彼はこの事が10日間ためされて、その間、他の若者たちが王の美食を食べている時に、ヘブルの青年たちには、単純な食物が与えられるように頼んだのである。 PK 567.4
家令は、この要求に応じることによって、王の不興を招くのではないかと恐れたが、それでも同意してくれた。そしてダニエルは、この件がすでに勝利に終わったことを知っていた。10日間の試験が終わったときに、その結果は、宙官が恐れたこととは全く反対であった。「彼らの顔色は王の食物を食べたすべての若者よりも美しく、また肉も肥え太っていた」(同1:15)。ヘブルの青年たちは、その容貌が彼らの仲間たちよりもはるかに優れていることを示した。そのためにダニエルと彼の同僚たちは、訓練の全期間を通じて、彼らの単純な食物を継続して食べることを許された。 PK 567.5
ヘブルの青年たちは3年間、「カルデヤびとの文学と言語とを学」ぶために研究した。彼らは神に対する忠誠を保ち、絶えず神の力に信頼した。彼らはその自制の習慣に加えて、一意専心、勤勉、着実さなどを合わせ持っていた。彼らが王の宮廷に入り、神を知らずまた恐れもしない人々との交わりに入ったのは、誇りのためでも野心のためでもなかった。彼らは異国の捕虜であって、無限の知恵に満ちた神によってそこに置かれたのであった。彼らは家庭の感化と聖なる交わりから遠く引き離されていたので、なんとかして立派にふるまって、踏みにじられた自国の栄誉と、彼らが仕える神の栄光をあらわそうとしたのである。 PK 567.6
主は、ヘブルの青年たちの堅実さと自制、そして彼らの動機の純粋さとを嘉された。そして神の祝福が彼らに伴った。「神は知識を与え、すべての文学と知恵にさとい者とされた。ダニエルはまたすべての幻と夢とを理解した」。「わたしを尊ぶ者を、わたしは尊」ぶという約束が成就した(サムエル上2:30)。ダニ エルが確固とした信頼をもって神に寄り頼んだ時に、預言的能力の霊が彼に臨んだ。彼は人間から宮廷生活の務めについて教えを受けていた時に、将来の神秘を読み、世の終わりに至るまでのこの世界の歴史のでき事を記録することを神から学んでいたのである。 PK 567.7
訓練中の青年たちが試験を受ける時がきた時に、ヘブルの青年たちは、他の候補者たちと共に王国の国務につくための試験を受けた。しかし「彼らすべての中にはダニエル、ハナニヤ、ミシャエル、アザリヤにならぶ者がなかった」。彼らの鋭敏な理解、彼らの広い知識、彼らの洗練された正確な言語は、彼らの知能の能力も活気も損なわれていないことを証明した。「王が彼らにさまざまの事を尋ねてみると、彼らは知恵と理解において、全国の博士、法術士にまさること10倍であった」。「彼らは王の前にはべることとなった」(ダニエル1:19、20)。 PK 568.1
バビロンの宮廷には全地からの代表者が集まり、最高の才能を持った人々、天賦の才に最も恵まれた人々、世界の与え得る最も広い教養を身につけた人々が集まっていた。しかしその中にあって、ヘブルの青年たちと肩を並べ得るものはなかった。肉体的力と美、知的活力と文学的学識において、彼らに匹敵する者はなかった。 PK 568.2
真っすぐな姿勢、しっかりした弾力のある歩調、美しい容貌、鈍っていない感覚、汚染されていない呼吸などはみなそれぞれよい習慣の証明書であり、自然がその法則に従う者に授ける気高さの記章であった。 PK 568.3
ダニエルと彼の仲間たちは、バビロンの知恵を得るに当たって、同僚の学生たちよりもはるかによい成績を収めた。しかし彼らの知識は偶然の結果ではなかった。彼らは聖霊に導かれて、彼らの能力を忠実に用いて知識を得たのであった。彼らは自分たちを、すべての知恵の源であられる神に結びつけた。そして神を知ることを彼らの教育の基礎としたのである。彼らは信仰をもって知恵が与えられることを祈り求め、彼らの祈りを実践したのである。彼らは、神の祝福にあずかることができる状態にその身をおいていた。彼らは彼らの能力を弱めるものを避けた。そしてあらゆる方面の学問の理解を深める機会はすべて活用した。彼らは知力を与えずにはおかない生命の法則に従った。彼らはただ1つの目的、すなわち神の栄光をあらわすことのために、知識を得ようとしたのである。彼らは異教主義という偽宗教のただ中にあって、真の宗教の代表者として立つためには、明晰な頭脳を持ち、キリスト者品性を完成すべきであることを自覚した。そして神ご自身が彼らの教師であった。彼らは絶えず祈り、忠実に研究し、目に見えないお方との接触を保ちつつ、エノクのように神と共に歩んだのである。 PK 568.4
どのような方面の仕事においても真の成功を収めることは、偶然または何かのはずみによるものでも、運命によるものでもない。それは神の摂理のなすところであり、信仰と思慮分別、徳と忍耐の報いである。立派な知的特質と崇高な道徳的性質とは偶然の結果ではない。神は機会をお与えになる。成功は、人間が機会をいかに活用するかにかかっている。 PK 568.5
神がダニエルとその仲間たちに働きかけて、「その願いを起させ、かつ実現に至らせ」ておられた時に、彼らは自分の救いの達成に努めていた(ピリピ2:13)。ここに協力という神の原則の成果が示されていて、これがなくては真の成功を達成することはできない。人間の努力は、神の力が無ければなんの役にも立たない。そして人間が努力をしなければ、神の力も多くの者にとってなんの役にも立たないのである。 PK 568.6
神の恵みをわれわれのものにするためには、われわれのなすべき分を果たさなければならない。神の恵みはわれわれのうちに働いて、願いを起こさせ、実現に至らせるのであるが、われわれの努力の代わりに与えられることは決してないのである。 PK 568.7
主はダニエルとその仲間たちに協力なさったよりに、主のみこころを行おうと努力するすべての者と協力なさるのである。そして彼は、彼らに聖霊を与えて、すべての真の動機とすべての気高い決意を強化なさ るのである。服従の道を歩む者は、多くの困難に出会うのである。強く陰険な勢力が、彼らを世に結びつけることであろう。しかし宅は、彼の選民たちを敗北させようとするあらゆる努力を無に帰すことがおできである。彼らは主の力に頼ってすべての誘惑に打ち勝ち、すべての困難を征服することができるのである。 PK 568.8
神はダニエルとその仲間たちをバビロンの偉人たちと交わらせられた。それは彼らが異教国のただ中にあって、神の性質をあらわすためであった。彼らは、どのようにして、このように大きな信頼と栄誉ある地位に適したものとなったのであろうか。彼らの全生涯を貫いていたものは、小事に対する忠実であった。彼らは、大いなる責任におけると同様に、どんなに小さい義務においても神をあがめたのである。 PK 569.1
神がバビロンにおいて、神のためにあかしを立てるようにダニエルを召されたのと同様に、今日世界において神の証人となるように、われわれをお召しになる。神はわれわれが人生の最大の事柄におけると同様に、最小の事柄においても神の国の原則を人々に示すことを望まれる。日ごとに神に対する忠実さをあらわす機会を見失っていながら、何か大きな仕事が持ち込まれるのを待っている人々が多くいる。彼らは人生のささいな義務を一意専心果たすことを怠っている。彼らのいわゆる大きな才能を働かせ得る何かの大きな任務が与えられるのを待ち彼らの野心的な願望を満足させようとしている間に、日々は過ぎ去っていく。 PK 569.2
真のキリスト者の生活において、重要でないというものはない。全能の神の目には、すべての義務は重要なのである。主はあらゆる奉仕の可能性を正確に量られるのである。 PK 569.3
用いられた能力と全く同様に、用いられなかった能力もまたその責任が問われる。われわれは、なすべきであったが、神の栄光を現すためにわれわれの能力を用いなかったために、達成することができなかったことについてもさばかれるのである。 PK 569.4
高貴な品性は、偶然の結果ではない。それは神の摂理の特別な恵み、または賜物によるものでもない。それは自己訓練の結果であり、低級な性質を高級な性質に従わせ、神と人間への奉仕のために自己を降伏させる結果である。 PK 569.5
ヘブルの青年たちが節制の原則に忠実に従ったことによって、神は今日の青年たちに語りかけておられる。ダニエルのように、正義のために敢然と行動する人々が必要である。純潔な心、強い手、何ものをも恐れない勇気が必要である。美徳と悪徳との間の戦いには、不断の警戒を要する。サタンは、食欲をほしいままにする点において、多くの魅惑的な誘惑をもって、すべての魂に近づくのである。 PK 569.6
肉体は、心と魂とが、品性建設のために発達する最も重要な媒体である。それゆえに魂の敵は肉体の力を弱め、低下させるために、彼の誘惑を向けてくるのである。彼がここにおいて成功することは、しばしば、人間全体が悪に降伏することを意味するのである。肉体的性質の傾向は、高等な能力の支配下におかれないかぎり、必ず破滅と死をもたらすのである。身体は人間の高等な能力に従わせなければならない。情欲は意志に支配されるべきであって、意志自身は神の支配の下になければならない。神の恵みによって清められた意志の支配力が、生活を統治すべきである。知能の力、肉体のスタミナ、寿命などは、不変の法則に依存している。これらの法則に従うことによって人間は、自分自身の勝利者、自分自身の性癖の勝利者、「もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対」して勝利者となることができる(エペソ6:12)。 PK 569.7
福音を象徴したあの古代の儀式において、傷のあるささげ物を神の祭壇に持ってくることはできなかったのである。キリストを代表する犠牲は、傷の無いものでなければならなかった。神の言葉は、これを「清くて傷のない」「生きた供え物」であるべき神の子供たちの例証として指し示している(ローマ12:1、エペソ5:27)。 PK 569.8
ヘブルの勇者たちは、われわれと同じ情の人々であった。それにもかかわらずバビロンの宮廷の魅 惑的影響下にありながら、無限の力に頼ったために、堅く立つことができた。異教の国家は、彼らが、神のいつくしみと恵み深さ、そしてキリストの愛を実証したのを見たのである。そして彼らの経験は、原則が誘惑に、純潔が堕落に、献身と忠誠が無神主義と偶像礼拝とに勝利したことの実例となった。 PK 569.9
ダニエルに宿った精神を、今日の青年たちも持つことができる。彼らは同じ能力の源から力を得て、同様に不利な環境においてさえ、同様の自制の力を持ち、その生活に同じ美徳を現すことができる。放縦な生活を行う誘惑に取り囲まれ、特にあらゆる形の肉の満足が容易であり、また魅力的である大都会においても、彼らは、神の恵みによって、神をあがめるという目的を堅く保ち続けることができる。彼らは強い決意と不断の警戒によって、彼らの魂を襲うあらゆる誘惑に勝つことができる。しかし正義が正義であるがゆえに、正義を行う者だけが、勝利を得るのである。 PK 570.1
これらの高貴なヘブル人の一生の働きは、なんという大事業だったことであろう。彼らが幼少のころの家庭に別れを告げた時に、彼らにはどんな大きな運命が待っているかを夢想だにすることはできなかった。彼らは忠実に、一意専心、神の導きに従ったので、神は彼らを用いて、みこころを達成することがおできになったのである。 PK 570.2
神は、この人々が現したのと同じ大真理を、今日の青年たちや子供たちによって現そうと望んでおられる。ダニエルと彼の仲間たちの生涯は、神に従って神のみこころを、真心から達成しようとする者のために、神は何をなさるかという、よい実例である。 PK 570.3