国と指導者

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第25章 預言者イザヤの召し

ウジヤ(アザリヤとも呼ばれた)が、ユダとベニヤミンの地を治めた長い期間は、約2世紀前のソロモンの死以来、他のどの王も達成することができなかった大いなる繁栄の時であった。王は、長年にわたって、賢明な統治を行った。彼の軍勢は、天の神の恵みによって、前に失った領地を部分的ではあるが取り返した。町々は再建され、防備を固められて、周囲の国々の間における国家の地位は、大いに強化された。商業は再開されて、国々の富が、エルサレムに流れ込んだ。ウジヤの名声は、「遠くまで広まった。彼が驚くほど神の助けを得て強くなったからである」(歴代志下26:15)。 PK 504.4

ところが、この外面的繁栄には、それにふさわしい霊的能力のリバイバルが伴わなかった。神殿の務めは、以前と同様に続けられ、群衆は、生ける神の礼拝のために集まっていた。しかし、誇りと形式主義とが、徐々に、謙遜と誠実にとって代わった。ウジヤ自身について次のように書かれた。「ところが彼は強くなるに及んで、その心に高ぶり、ついに自分を滅ぼすに至った。すなわち彼はその神、主にむかって罪を犯し」た(同26:16)。 PK 504.5

ウジヤにこのような悲惨な結果をもたらした罪は、僭越の罪であった。正は、アロンの子孫以外は祭司の務めをしてはならないという主の明白な命令にそむいて、聖所にはいり、「香の祭壇の上に香をたこうとした」。大祭司アザリヤは、他の祭司たちと共に、王をいさめて、彼のしようとすることをやめさせようとした。「あなたは罪を犯しました。あなたは主なる神から栄光を得ることはできません」と彼らは訴えた(同26:16、18)。 PK 504.6

ウジヤは、王である彼が、このように譴責されたことを激しく怒った。しかし、彼は、権威者たちの一致した反対を押し切って、聖所を汚すことを許されなかった。彼が、怒りを発して反逆し、そこに立っていた時に、彼は、突然、神の刑罰に打たれた。重い皮膚病がその額に起こったのである。彼は、うろたえて逃げ去り、2度と神殿に入ることはなかった。 PK 504.7

ウジヤは、その後数年の間、彼が死ぬ目まで、重い皮膚病であって、明白な、「主はこう仰せられる」という言葉にそむいた愚かさの生きた実例となった。彼の高い地位も、彼の長年の奉仕も、彼がその治世の晩年を汚し、天の刑罰をもたらした僭越の罪を許す口実となることはできなかった。 PK 504.8

神は、人を偏り見るおかたではない。「しかし、国に生れた者でも、他国の人でも、故意に罪を犯す者は主を汚すもので、その人は民のうちから断たれなければならない」(民数記15:30)。 PK 504.9

ウジヤに下った刑罰は、その息子に抑制力を及ぼしたようである。ヨタムは、彼の父の治世の晩年において、重い責任を負い、ウジヤの死後、王位についたヨタムについて次のように記されている。「彼は主の目にかなう事を行い、すべて父ウジヤの行ったようにおこなった。ただし高き所は除かなかったので、民はなおその高き所で犠牲をささげ、香をたいた」(列王紀下15:34、35)。 PK 504.10

ウジヤの治世は終わりに近づき、ヨタムは、すでに、多くの国事の重荷を負っていたその時、まだ若かったけれども、王族の出であったイザヤは、預言者の務めに召されたのである。イザヤが働くように召された時代は、神の民にとって、特に危険に満ちていた預言者は、北のイスラエルとスリヤの連合軍がユダを攻めるのを見、アッスリヤの軍勢が、国家の主要な町々の前に陣をしくのを見るのであった。彼の一生の間に、サマリヤは陥落し、イスラエルの10部族は、諸国の間に離散されるのであった。ユダは、アッスリヤの軍勢の度重なる侵略を受けて、エルサレムは包 囲され、神が、奇跡的に手を下されるのでなければ、陥落してしまうのであった。南王国の平和を脅かす大きな危機がすでに迫っていた。神の保護は取り去られつつあった。そして、アッスリヤの軍勢は、今にもユダの国をのみつくそうとしていた。 PK 504.11

しかし、圧倒的と思われた外部からの危険は、内部の危険ほど重大なものではなかった。主のしもべに、最も大きな困惑と最も深刻な失望を与えたのは、神の民のかたくなさであった。国々の間で光を掲げる者として立つべき者が、背信と反逆によって、神の刑罰を招いていた。北王国の速やかな滅亡を来たらせていた多くの罪悪、そして、ホセアやアモスが明白な言葉でそのころ告発したばかりの罪悪が、急速にユダ王国を腐敗させていた。 PK 505.1

国民の社会情勢の展望は、特に失望的であった。人々は、利益を追求し、家に家を建て連ね、田畑に田畑をまし加えていた(イザヤ5:8参照)。正義はゆがめられ、貧者に対するあわれみは示されなかった。このような悪に対して神は言われた。「貧しい者からかすめとった物は、あなたがたの家にある」。「なぜ、あなたがたはわが民を踏みにじり、貧しい者の顔をすり砕くのか」(同3:14、15)。弱者を保証することが義務であった長官たちでさえ、貧者や困窮者、寡婦やみなしごの叫びに耳を傾けなかった(同10:1、2参照)。 PK 505.2

圧迫と富が増し加わるにつれて、誇りと虚飾を愛する心が起こり、酒に酔い、酒宴にふけった(同2:11、12、3:16、18~23、5:22、11、12参照)。そして、イザヤの時代においては、偶像礼拝それ自体は、もはや驚くに当たらなくなった(同2:8、9参照)。各階層に邪悪な風習が広く行きわたっていたので、神に忠実であったわずかな人々は、誘惑に負けて気落ちし、失望落胆に陥るのであった。イスラエルに対する神の目的は、失敗したかのように思われ、反逆した国家は、ソドム、ゴモラと同様の運命に陥るかのように思われたのである。 PK 505.3

ウジヤの治世の晩年のこうした状態の下で、イザヤが、神の警告と譴責の使命をユダに伝えるように召された時に、その責任を回避しようとしたのは驚くに当たらない。彼は、かたくなな抵抗に会うことをよく知っていた。彼が、事態に当面する自己の無能と彼が働きかけなければならない人々のかたくなさと不信とを考えた時に、彼の任務は、絶望的に思われるのであった。彼は、失望して、その任務を放棄し、偶像礼拝をなすがままにユダを放任しておくべきであろうか。ニネベの神々が天の神に反抗して地を支配するのであろうか。 PK 505.4

イザヤは、神殿の門に立っていた時に、このようなことを考えたのであった。すると、突然、神殿の門と内の幕が引き上げられるように思われ、預言者の足でさえはいってはならない至聖所の中を見ることを許された。彼の前に主の幻があらわれ、主が高くあげられたみくらに座し、その栄光の衣のすそが神殿に満ちているのを見た。 PK 505.5

み座の両側には、セラピムが立ち、うやうやしくその顔をおおって創造主の前で務めを行い、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主、その栄光は全地に満つ」と声を合わせて厳粛に歌っていた。その呼ばわっている者の声によって敷居の基が震い動き、神殿の中に賛美が満ちた(同6:3)。 PK 505.6

イザヤが、この主の栄光と威光の啓示を見た時に、彼は、神の純潔さと神聖さとに圧倒された。彼の創造主の無比の完全さと、自分も含めてイスラエルとユダの選民の中に長い間数えられていた人々の罪深い行いとの間には、なんと大きな相違があったことであろう。「わざわいなるかな」と彼は叫んだ。「わたしは滅びるばかりだ。わたしは汚れたくちびるの者で、汚れたくちびるの民の中に住む者であるのに、わたしの目が万軍の主なる王を見たのだから」(イザヤ6:5)。彼は、至聖所の中の神の臨在の満ちあふれる光の中に立ったように思われたので、もし彼自身の不完全さと無能さのままに放任されるとするならば、彼が、召された任務を完成することは、とうてい不可能であると自覚した。しかし彼を苦悩から救い、彼を彼の大いなる任務にふさわしい者とするために、セラフが送られた。セラフは、燃えている炭火を彼の 口に触れて言った、「見よ、これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの悪は除かれ、あなたの罪はゆるされた」。「わたしはだれをつかわそうか。だれがわれわれのために行くだろうか」と言う神の声が聞こえた。イザヤは、それに答えて、「ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください」と言った(同6:7、8)。 PK 505.7

天使は待っている使者に命じた。 PK 506.1

「あなたは行って、この民にこう言いなさい、 PK 506.2

『あなたがたはくりかえし聞くがよい、 PK 506.3

しかし悟ってはならない。 PK 506.4

あなたがたはくりかえし見るがよい、 PK 506.5

しかしわかってはならない』と。 PK 506.6

あなたはこの民の心を鈍くし、 PK 506.7

その耳を聞えにくくし、その目を閉ざしなさい。 PK 506.8

これは彼らがその目で見、その耳で聞き、 PK 506.9

その心で悟り、 PK 506.10

悔い改めていやされることのないためである」。 PK 506.11

(同6:9、10) PK 506.12

預言者の義務は明らかであった。彼は、広く行われていた罪悪に抗議の声をあげなければならなかった。しかし、彼は、何かの希望の確証が与えられることなく働きに取りかかることを恐れた。彼は、「主よ、いつまでですか」とたずねた(同6:11)。あなたの選民は、誰1人として、悟り、悔い改め、いやされることはないのであろうか。道を誤ったユダの人々に対して彼が感じた魂の重荷は、むだではなかった。彼の任務は、全然実を結ばないというのではなかった。しかし、幾世代にもわたって、ふえひろがっていた罪悪は、彼の時代に取り除くことはできなかった。彼は、その一生を通じて、忍耐強く勇敢な教師となり、破滅の預言者であると共に、希望の預言者でなければならなかった。ついに、神のみこころはなしとげられ、彼の努力がすべて実って、神のすべての忠実な使命者たちの働きの結果が現れる。残りの者が救われる。反逆した国民に警告と訴えの使命が伝えられるのは、これが実現するためであると主は言われた。 PK 506.13

「町には荒れすたれて、住む者もなく、 PK 506.14

家には人かげもなく、国は全く荒れ地となり、 PK 506.15

人々は主によって遠くへ移され、 PK 506.16

荒れはてた所が国の中に多くなる時まで、 PK 506.17

こうなっている」。 PK 506.18

(イザヤ6:11、12) PK 506.19

戦争、追放、圧迫、国家間における権力と威信の喪失などの厳しい刑罰が、悔い改めない者の上にくだろうとしていたのは、みな、人々が、その中に神の怒りのみ手を認めて、悔い改めに導かれろためであった。北王国の10部族は、間もなく、諸国の間に散らされ、彼らの町々は、荒廃するのであった敵国の破壊的軍勢が、くりかえして彼らの国土を襲うのであった。ついに、エルサレムも陥落して、ユダは、捕らえられていくのであった。しかし、約束の地は、永久に捨て去られてしまうのではなかった。イザヤに対する天使の確証の言葉はこうであった。 PK 506.20

「『その中に10分の1の残る者があっても、 PK 506.21

これもまた焼き滅ぼされる。 PK 506.22

テレビンの木またはかしの木が切り倒されるとき、 PK 506.23

その切り株が残るように』。 PK 506.24

聖なる種族はその切り株である」。 PK 506.25

(同6:13) PK 506.26

神のみこころが、最後に達成されるというこの確証によって、イザヤは、勇気づけられた。地上の強国がユダを攻めてきても何であろう。主の使命者が、反対と抵抗に会っても何であろう。イザヤは、万軍の主なる王を見、天使たちの歌を聞き、「その栄光は全地に満」ちるのを見たのである。背信したユダに対する主の言葉には、心を動かす聖霊の力が伴うという約束が与えられた。そして、預言者は、彼の前にある任務を遂行する力が与えられた(同6:3)。彼は、その長期に及ぶ困難な働きの全期間を通じて、常に この幻の記憶を持ち続けた。彼は、60年以上にわたって、希望の預言者として、ユダの人々の前に立ち、ますます勇敢に、教会の将来の勝利を預言したのである。 PK 506.27