国と指導者
第19章 平和をつくり出す人
本章は、列王紀下4章に基づく PK 480.4
エリシャの働きは、ある点においては、エリヤの働きと非常に異なっていた。エリヤには断罪と審判の言葉が委ねられた。彼の働きは恐れを知らぬ譴責の声となって、王と国民とに呼びかけて、彼らをその悪の道から立ち返らせることであった。エリシャの働きはもっと穏やかな任務であった。彼の働きはエリヤが始めた働きを盛り立て強化し、人々に主の道を教えることであった。霊感は彼が預言者のともがらに囲まれて、人々と個人的に接触し、彼の奇跡と教えとによって、癒しと喜びをもたらしたことを描いている。 PK 480.5
エリシャは穏やかで、親切な心の持ち主であった。しかし、彼がまた厳しい態度をとることができたことは、彼がべテルへ行く途中で、町から出て来た神を敬わない青年たちにあざけられた時にとった行動によって示されている。この青年たちはエリヤの昇天のことを聞いていた。そして、彼らはこの厳粛なでき事をあざ笑って、「はげ頭よ、のぼれ。はげ頭よ、のぼれ」と言った(列王紀下2:23)。預言者は彼らの声を聞いてふり返ってみた。そして、全能者であられる神の霊感によって、彼らをのろった。続いて起こった恐ろしい刑罰は神からのものであった。「すると林の中から2頭の雌ぐまが出てきて、その子供らのうち42人を裂いた」(列王紀下2:24)。 PK 480.6
もし、エリシャが、あざけりを見過ごしにしたならば、彼は引き続いて乱暴者たちにあざけり、ののしられて厳粛な国家的危機における彼の教育と救済の任務が挫折するかもしれなかったのである。このただ1度の恐怖すべき厳格さのあらわれは、彼の一一生を通じて人々の尊敬をかち得るのに十分なでき事であった。彼は50年間にわたって、ベテルの門に出入りし国内の至るところの町々を往き来し、怠惰で乱暴で、放蕩に身を持ちくずした若者たちの群れの間を鋤過ぎた。しかし、誰1人として、彼をあざけり、または、彼が持つ至高者であられる神の預言者としての資格をさげすむ者はなかった。 PK 480.7
親切さにも限度がなければならない。断固とした厳しさによって、権威を維持しなければならない。さもないと、権威は多くの者にあなどられ、軽蔑されることであろう。親や保護者たちが、青年に、いわゆる優しい態度を示し、なだめすかし、わがままなことをするままにさせておくことは、彼らにとって、これにまさる有害なものはないのである。どの家族にも断固とした態度と決断と積極的な要求が必要である。 PK 480.8
エリシャをあざ笑った青年たちに欠けていた尊敬の念は、注意深く育てなければならない美徳であるどの子供にも神に対する真の崇敬の念を教えなければならない。神のみ名を軽々しく、または、不注意に口にしてはならない。天使たちはそれを語る時に 彼らの顔をおおうのである。われわれ堕落した罪深い人間は、どんな敬虔な態度をとってそれを口にすべきなのであろうか。 PK 480.9
神の代表者、すなわち、神に代わって語り行動するように召された牧師、親、教師に対して、尊敬をあらわさなければならない。彼らに尊敬をあらわすことによって、神があがめられるのである。 PK 481.1
礼儀もまた、御霊の結ぶ美徳の1つであって、すべての者が養うべきものである。礼儀はともすれば激しく粗暴になり勝ちな性質をやわらかにする力がある。キリストの弟子であると言いながら、粗暴で、不親切で、礼儀に欠けているものは、まだイエスから学んでいないのである。彼らは疑いもなく誠実で、その高潔さについても疑念はないであろう。しかし、誠実と高潔とは、親切と礼儀の欠けていることのつぐないとはならない。 PK 481.2
エリシャがイスラエルの多くの人々に強力な影響を及ぼすことができた親切な心は、シュネムに住んでいた家族との親しい交わりの物語に示されている。彼が全国をあちらこちら旅行した時に、「ある日エリシャはシュネムへ行ったが、そこにひとりの裕福な婦人がいて、しきりに彼に食事をすすめたので、彼はそこを通るごとに、そこに寄って食事をした」。その家の主婦は、エリシャが「神の聖なる人」であることを認めて、彼女の夫に言った。「わたしたちは屋上に壁のある1つの小さいへやを造り、そこに寝台と机といすと燭台とを彼のために備えましょう。そうすれば彼がわたしたちの所に来るとき、そこに、はいることができます」。 PK 481.3
エリシャは、しばしば、この憩いの場に来て、その静かな平和を感謝した。神も彼女の親切な行為をお忘れにならなかった。彼女の家庭には子供がなかった。そして、今、主は彼女のもてなしに対して息子という賜物をお与えになったのである(同4:8~10)。 PK 481.4
幾年かが過ぎ去った。子供は刈り入れ人と一緒に畑に出るくらいに大きくなった。ある日、子供は熱病にかかって「父にむかって『頭が、頭が』と言った」。父親は、子供を母親のところへ連れていくように命じた。「彼を背負って母のもとへ行くと、昼まで母のひざの上にすわっていたが、ついに死んだ。母は上がっていって、これを神の人の寝台の上に置き、戸を閉じて出てきた」(列王紀下4:19~21)。 PK 481.5
シュネムの女はこの嘆きのなかにあって、エリシャの助けを求めに行く決心をした。そのとき、預言者はカルメル山にいた。そして、女はしもべを連れて直ちに出発した。「神の人は彼女の近づいてくるのを見て、しもベゲハジに言った、『向こうから、あのシュネムの女が来る。すぐ走って行って、彼女を迎えて言いなさい、「あなたは無事ですか。あなたの夫は無事ですか。あなたの子供は無事ですか」』」。ゲハジは言われたとおりにした。しかし、苦しんでいる母親は、エリシャのところに来るまでは彼女の悲しみの理由を明かさなかった。エリシャは彼女が息子を失ったことを聞いて、ゲバジに命じた、「腰をひきからげ、わたしのつえを手に持って行きなさい。だれに会っても、あいさつしてはならない。またあなたにあいさつする者があっても、それに答えてはならない。わたしのつえを子供の顔の上に置きなさい」(同4:25、26、29)。 PK 481.6
しかし、母親はエリシャ自身が彼女と共に来るのでなければ満足しなかった。彼女は言った。「主は生きておられます。あなたも生きておられます。わたしはあなたを離れません」。「そこでエリシャはついに立ちあがって彼女のあとについて行った。ゲハジは彼らの先に行って、つえを子供の顔の上に置いたが、なんの声もなく、生きかえったしるしもなかったので、帰ってきてエリシャに会い、彼に告げて『子供はまだ目をさましません』と言った」(同4:30、31)。 PK 481.7
彼らが家に着いたとき、エリシャは死んだ子供が寝かしてある部屋に入った。「彼ははいって戸を閉じ、彼らふたりだけ内にいて主に祈った。そしてエリシャが上がって子供の上に伏し、自分の口を子供の口の上に、自分の目を子供の目の上に、自分の両手を子供の両手の上にあて、その身を子供の上に伸ばしたとき、子供のからだは暖かになった。こうしてエリシ ャは再び起きあがって、家の中をあちらこちらと歩み、また上がって、その身を子供の上に伸ばすと、子供は7たびくしゃみをして目を開いた」(同4:33~35)。 PK 481.8
エリシャはゲハジを呼んで、母親を彼のところへ呼ぶように命じた。「彼女がはいってくるとエリシャは言った、『あなたの子供をつれて行きなさい』。彼女ははいってきて、エリシャの足もとに伏し、地に身をかがめた。そしてその子供を取りあげて出ていった」(同4:36、37)。 PK 482.1
こうして、この女の信仰は報われた。大いなる生命の与え主キリストが、彼女に息子を返されたのである。同様に、彼に忠実な人々は、キリストが再臨されて、死がそのとげを失い、墓が勝ち誇った勝利を奪い去られる時に、報いを受けるのである。その時に、キリストは死によって取り去られた子供たちを彼のしもべたちに返されるのである。「主はこう仰せられる、『嘆き悲しみ、いたく泣く声がラマで聞える。ラケルがその子らのために嘆くのである。子らがもはやいないので、彼女はその子らのことで慰められるのを願わない』。主はこう仰せられる、『あなたは泣く声をとどめ、目から涙をながすことをやめよ。あなたのわざに報いがある。彼らは敵の地から帰ってくる。……あなたの将来には希望があり、あなたの子供たちは自分の国に帰ってくると主は言われる』」(エレミヤ31:15~17)。 PK 482.2
イエスは、死者に対するわれわれの悲しみを、限りない希望の言葉をもって慰めてくださる。「わたしはよみの力から、彼らを解き放ち、彼らを死から贖おう。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。よみよ、おまえの針はどこにあるのか」(ホセア13:14・新改訳)。「わたしは……生きている者である。わたしは死んだことはあるが、見よ、世々限りなく生きている者である。そして、死と黄泉とのかぎを持っている」(黙示録1:18)。 PK 482.3
「すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられるξその時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう」(Ⅰテサロニケ4:16、17)。 PK 482.4
エリシャは人類の救い主の型であった。そして、彼は救い主のように、彼の働きにおいていやしの働きと教えの働きを結合させた。エリシャはよその長期にわたる力強い活動を通じて、一預言者の学校によって行われていた重要な教育の働きを育成発展させるために、たゆまず、忠実に努力した。彼が、集まって来た熱心な青年たちに語った教えの言葉は、神の摂理と、聖霊の深い感動により、また、時には、彼が主のしもべとしての彼の権威の別の明確な証拠によって確認された。 PK 482.5
彼が毒の入ったかまをもとどおりになおしたのは、彼がギルガルに設立された学校を訪問中のことであった。「その地にききんがあった。預言者のともがらが彼の前に座していたので、エリシャはそのしもべに言った、『大きなかまをすえて、預言者のともがらのために野菜の煮物をつくりなさい』。彼らのうちのひとりが畑に出ていって青物をつんだが、つる草のあるのを見て、その野うりを一包つんできて、煮物のかまの中に切り込んだ。彼らはそれが何であるかを知らなかったからである。やがてこれを盛って人々に食べさせようとしたが、彼らがその煮物を食べようとした時、叫んで『ああ神の人よ、かまの中に、たべると死ぬものがはいっています』と言って、食べることができなかったので、エリシャは、『それでは粉を持ってきなさい』と言って、それをかまに投げ入れ、『盛って人々に食べさせなさい』と言った1かまの中には、なんの毒物もなくなった」(列王紀下4:38~41)。 PK 482.6
また、エリシャは、まだききんが地にあった時に、「バアル・シャリシャ」の人から贈られた「初穂のパンと、大麦のパン20個と、新穀1袋」とによって、100人に食を与えた。ぜひ食事をしなければならない人々が彼と共にいたのである。献げ物が来たとき、彼はしもべに、「『人々に与えて食べさせなさい』と言ったが、その召使は言った、『どうしてこれを100人の前に供えるのですか』。しかし彼は言った、『人々 に与えて食べさせなさい。主はこう言われる、「彼らは食べてなお余すであろう」』。そこで彼はそれを彼らの前に供えたので、彼らは食べてなお余した。主の言葉のとおりであった」(同4:42~44)。 PK 482.7
キリストが彼の使者によって、飢えを満たすためにこの奇跡を行われるとは、何というキリストの慈悲深さであろう。主イエスは必ずしもこれほど著しく、また、感知できるものではなくても、その時以来、何度となく、人間の必要を満たすために働かれたのである。もし、われわれがもっと明確な霊的洞察力をもっていたならば、人の子らに対する神のあわれみ深い取り扱いを、もっとたやすく認めることができるであろう。 PK 483.1
少量のものの上に注がれる神の恵みが、それを満ち足りたものにする。神のみ手はそれを100倍に増すことができる。神はその資源の中から、荒野において食事の用意をすることがおできである。神はみ手を触れて、わずかの食物を増加させて、すべての者を満ち足らせられるのである。預言者のともがらの手の中でパンと穀物とを増し加えたのは、神の力であった。 PK 483.2
キリストの地上の伝道生活中、彼が、同様の奇跡によって群衆を養われた時に、昔の預言者と一緒にいた人々があらわしたのと同じ不信があらわされた。「どうしてこれを100人の前に供えるのですか」とエリシャのしもべは言った。そして、イエスが弟子たちに、群衆に食べさせるようにお命じになったときに、彼らは、「わたしたちにはパン5つと魚2ひきしかありません、この大ぜいの人のために食物を買いに行くかしなければ」と言った(ルカ9:13)。こんなに多くの人々のなかで、これが何になろうか。 PK 483.3
これは各時代の神の民のための教訓である。主がなすべき働きをお与えになるときに、その命令が道理にかなったものであるか、または、従おうと努力すれば、どんな結果が生じるかなどを、人間は問うてはならない。手もとにあるものは、満たすべき必要のためには、十分でないかもしれない。 PK 483.4
しかし、主の手の中にあればあり余ったものとなるのである。しもべは「それを彼らの前に供えたので、彼らは食べてなお余した。主の言葉のとおりであった」(列王紀下4:44)。 PK 483.5
神がみ子という賜物によって買い取られた人々に対する神の関係をもっと深く悟り、この地上における神の働きの前進に対して、もっと大きな信仰を持つことが、今日、教会の大きな必要である。誰1人として目に見える資源の乏しさを嘆いて、時間を浪費してはならない。外見は有望ではないかもしれないが、活動と神に対する信頼は、資源をつくり出すのである。神は感謝と祝福を祈り求めつつ神に献げるものを預言者のともがらや疲れた群衆に与えられた食物を増し加えられたように増し加えてくださるのである。 PK 483.6