人類のあけぼの
第35章 コラの反逆
本章は、民数記16、17章に基づく PP 204.2
イスラエルに降った刑罰は、しばらくの間、彼らのつぶやきと不従順をおさえるのに役立った。しかし、彼らの心の中には、なお反逆の精神が残っていて、ついに苦い実を結んだのであった。これまでの反逆は、興奮した群衆が、突然衝動的に起こした民衆の混乱に過ぎなかった。しかし、今度のは神ご自身が任命された指導者の権威をくつがえそうとする決意から生じた根深い陰謀であった。 PP 204.3
この運動の主謀者のコラは、コハテの氏族のレビ人でモーセのいとこであった。彼は才能に恵まれた有力者であった。彼は幕屋の務めに任じられていたが、その地位では満足せず、祭司職の地位につきたいと切望した。以前は、どの家族の長子にも委ねられていた祭司職が、アロンとその家族に与えられたことが、ねたみと不満の原因であった。コラは、しばらくの間、公然と反逆行為に出ることはしなかったが、ひそかにモーセとアロンの権威に反抗していた。彼はついに、一般の民事と宗教の両方の権威を打倒する大胆な謀略を考えた。彼に同調する者も現れた。幕屋の南側にあるコラとコハテ人の天幕のそばに、ルベンの部族の天幕があった。この部族の2人のつかさであるダタンとアビラムの天幕は、コラの天幕の近くにあった。このつかさたちは、直ちに彼の野心的陰謀に参加した。彼らは、ヤコブの長子の子孫であったから、施政権は自分たちに属するものであると主張し、コラと祭司職の特権を共有しようともくろんだ。 PP 204.4
一般の人々の考え方も、コラの策略に賛成であった。彼らは、失望の苦しさを味わっている時であったから、以前の疑い、嫉妬、憎しみなどが思い出されて、彼らの不平が、再び忍耐深い指導者に向けられたのであった。イスラエルの人々は、彼らが神に導かれているということを常に忘れた。彼らは、契約の天使が彼らの目に見えない指導者であり、キリストが雲の柱にかくれて彼らの前に進み、モーセは、彼からすべての指示を受けているということを忘れた。 PP 204.5
彼らは、自分たちすべての者が荒野で死なねばならないという恐ろしい宣告に服することを好まなかった。そこで彼らは、あらゆる口実を設けて、彼らを導き滅びを宣告したのはモーセであって、神ではないと思いこもうとした。この地上の最も柔和な人が最善を尽くしても、この民の反抗をしずめることはできなかった。彼らの隊列が乱れ、欠員が生じたことは、彼らの以前のかたくなさに対する神の怒りのしるしであったにもかかわらず、彼らは、これから教訓を学ばなかった。彼らは、再び誘惑に負けた。 PP 204.6
モーセにとって、不穏な大群衆の指導者としての現在の地位よりは、つつましい羊飼いの生活のほうがはるかに平和であり、幸福であった。しかし、これは、モーセが選んだものではなかった。羊飼いのつえのかわりに、権力のつえが彼に与えられた。これは、神が彼を解放されるまでおろすことができないものであった。 PP 204.7
すべての人の心の秘密を読まれる神は、コラと彼 の共謀者の計画に注目し、神の民が、この共謀者たちの欺瞞から逃れることができるように、警告と指示をお与えになった。彼らはモーセに、ねたみと不平をいだいたためにミリアムにくだった神の刑罰を見たのであった。主は、モーセが預言者よりも偉大であると言われた。「彼とは、わたしは口ずから語」ると言われた。神はさらに「なぜ、あなたがたはわたしのしもベモーセを恐れず非難するのか」と言われた(民数記12:8)。こうした教えは、アロンとミリアムのためだけでなく、イスラエルのすべての者に与えられたのである。 PP 204.8
コラと彼の共謀者たちは、特別に神の力と偉大さとを示される恵みにあずかった人々であった。彼らは、モーセと共に山に登り、神の栄光を見せられた者たちであった。しかし、それから後で変化が起こった。最初はささいなものであった誘惑に心を奪われているうちに、誘惑が強化されていった。そして、彼らの心はついにサタンに支配され、謀反を起こすに至った。彼らは民の繁栄に大きな関心をもっていると表明した。彼らは、まず自分たちの間で不平をささやきあい、引き続いてイスラエルの指導者たちにそれをひろめた。人々は、彼らのほのめかしの言葉を直ちに信じた。そこで、彼らは、さらにそれを押し進め、ついに自分たちは神のための熱意に動かされていると思い込むようになった。 PP 205.1
彼らは、民のなかのおもだった250人のつかさたちを離反させることに成功した。彼らは、こうしたしっかりした有力者たちの支持を得たので、政治を根本的に改め、モーセとアロンの行政を大いに改善することができるという自信を持った。 PP 205.2
ねたみは羨望を生じ、羨望は反逆をひき起こしたのである。彼らはモーセに、こうした大きな権力と栄誉にあずかる権利があるのかという問題を語り合った。彼らは、モーセの地位を非常にねたましく思い、自分たちのだれであっても、彼と同じ地位を占めることができると考えるようになった。そして、モーセとアロンの地位はこの2人が自分かってに占有したものであると思いちがいをして、他の人々にもそのように思わせた。この指導者たちは、祭司職と行政権を手に入れて、自分たちを主の会衆の上に立てたが、彼らの家は、イスラエルの他の家族以上に栄誉を受ける資格はないのであると、不平家たちは言った。また、彼らは、民よりも清くはない。であるから、神の特別の臨在と保護を同様に受けている兄弟たちと同じ地位で十分であるというのであった。 PP 205.3
共謀者たちの次の仕事は、民を動かすことであった。あやまちを犯し、譴責に値するものに、同情と賞賛ほど好ましいものはない。こういう方法で、コラと仲間たちは、会衆の注意をひいて支持を得た。彼らは、人々がつぶやいたために、神の怒りをこうむったと非難することはまちがいであると言った。会衆は、自己の権利を主張しただけであるから、落ち度はないと言った。また、彼らは、モーセが独裁者であると言った。そして、民は清い民であり、主が民の中におられるにもかかわらず、モーセは彼らを罪人扱いにして譴責したのであると言った。 PP 205.4
コラは、人々が遭遇した困難、また、不平と不服従の結果、多くの者が滅ぼされた荒野の旅路を回顧した。それを聞いた人々は、もしモーセがちがった道を進んだならば、あのような困難はきっと避けられたにちがいないと考えた。そこで彼らは、すべての災難を彼のせいにし、カナンに入国できないのも、モーセとアロンの不手ぎわの結果であると思い込んだ。もし、コラが彼らの指導者になるならば、罪を譴責するかわりに、彼らの善行を認めて勇気づけ、平穏で順調な旅をすることであろう。荒野をさまよい歩くかわりに、約束の国に直行することであろうと人々は思うのであった。 PP 205.5
この反逆活動においては、これまでにかつてなかった団結と調和が、会衆の不平分子の間にあった。こうして民の間で成功をおさめたコラは、モーセに奪われた権力を抑圧しなければ、イスラエルの自由が失われてしまうと堅く信じるようになった。彼はまた、神がこのことを自分に示し、手おくれにならないうちに、政変を断行する権威が彼に与えられたと主張した。しかし、モーセに対するコラの告発を受け入れ ない者も多かった。彼らは、モーセの忍耐と献身的な活動を思い出して、気がとがめたのである。 PP 205.6
であるから、モーセのイスラエルに対する深い関心に、なにかの利己的動機を結びつける必要があった。そこでモーセは、人々の持ち物を没収するために、彼らを荒野に導いて滅ぼそうとしているのだという以前の非難をくりかえした。 PP 206.1
しばらくの間、この運動は秘密のうちに進められた。しかし、この運動が表面化するだけの勢力を得るやいなや、コラは派閥の先頭に立って、コラとその仲間とが、同様に受けるべき権威を、モーセとアロンが奪っていると公に非難した。さらに、人々の自由と独立が侵害されたという攻撃も行われた。共謀者たちは言った。「あなたがたは、分を越えています。全会衆は、ことごとく聖なるものであって、主がそのうちにおられるのに、どうしてあなたがたは、主の会衆の上に立つのですか」(民数記16:3)。 PP 206.2
モーセは、この根深い陰謀に気づかなかったが、その恐ろしい意味が突然明らかになったとき、彼は、ひれ伏して神に黙祷を捧げた。彼は悲痛な面持ちで立ち上がったが、泰然自若としていた。天来の指示が彼に与えられていた。「あす、主は、主につくものはだれ、聖なる者はだれであるかを示して、その人をみもとに近づけられるであろう」と彼は言った(同16:5)。すべての者に反省の時間があるように、試験は翌日に延期された。そのとき、祭司職を希望する者が、それぞれ香炉を持って来て、会衆の面前において、幕屋で香を捧げることになった。聖職に任じられた者だけが、聖所で奉仕することができるということが律法に明記されていた。祭司であったナダブとアビウでさえ、神の命令に反して、「異火」を捧げた時に滅ぼされたのである。しかし、モーセは、こうした危険を冒してまで神に訴えるつもりがあるかどうかを、告発者たちにたずねた。 PP 206.3
モーセは、コラと仲間のレビ人たちを選び出して言った。「イスラエルの神はあなたがたをイスラエルの会衆のうちから分かち、主に近づかせて、主の幕屋の務をさせ、かっ会衆の前に立って仕えさせられる。これはあなたがたにとって、小さいことであろうか。神はあなたとあなたの兄弟なるレビの子たちをみな近づけられた。あなたがたはなお、その上に祭司となることを求めるのか。あなたとあなたの仲間は、みなそのために集まって主に敵している。あなたがたはアロンをなんと思って、彼に対してつぶやくのか」(同16:9~11)。 PP 206.4
ダタンとアビラムは、コラほどの強硬な態度をとらなかった。そこでモーセは、彼らが全く堕落して共謀に加わったのではなかろうと思って、彼らをモーセのところに呼んで彼に対する彼らの苦情を聞こうと思った。しかし、彼らは来ようともせず、無礼にも彼の権威を認めなかった。彼らは、会衆が聞いているところで、こたえて言った。「あなたは乳と蜜の流れろ地から、わたしたちを導き出して、荒野でわたしたちを殺そうとしている。これは小さいことでしょうか。その上、あなたはわたしたちに君臨しようとしている。かつまた、あなたはわたしたちを、乳と蜜の流れる地に導いて行かず、畑と、ぶどう畑とを嗣業として与えもしない。これらの人々の目をくらまそうとするのですか。わたしたちは参りません」(同16:13、14)。 PP 206.5
このようにして、彼らは自分たちの奴隷状態を、主が約束の地を描かれたのと全く同じ言葉で描いた。彼らはモーセが自分の権威を確立するために、神の指示のもとに行動しているふりをしたと非難したのである。そして彼らは、もはや彼の野心的計画のままに、盲目的に、カナンに向かってみたり、荒野に向かってみたりはしないと言った。こうして、やさしい父親、また忍耐深い羊飼いのようであった彼を、極悪非道な暴君、または強奪者のように彼らは言うのであった。彼ら自身の罪の罰として、カナンに入れなくなったことを、モーセのせいにしたのである。 PP 206.6
人々の同情が、謀反を起こした側に集まることは明白であった。しかし、モーセは自己を弁護しようとはしなかった。彼は、彼の動機が純粋で、彼の行動が正しいことを神があかししてくださるように、人々の前で厳粛に神に訴えて、神が彼の裁判官になってくださるように哀願した。 PP 206.7
翌日、コラを先頭に250人の司たちが、火皿をたずさえて現れた。彼らは、幕屋の庭に導き入れられ、人々は外側に集まって結果を待っていた。コラとその仲間たちの敗北を目撃させるために会衆を集めたのはモーセではなかった。それは、反逆者たちが、盲目的推測によって自分たちの勝利を目撃させようとして、彼らを集めたのであった。会衆の大部分は、アロンに対抗して勝つ自信を十分に持っていたコラに公然と味方していた。 PP 207.1
こうして、彼らが神の前に出たときに、「主の栄光は全会衆に現れた」。モーセとアロンに、神の警告が伝えられた。「あなたがたはこの会衆を離れなさい。わたしはただちに彼らを滅ぼすであろう」。しかし、彼らはひれ伏して、祈って言った。「神よ、すべての肉なる者の命の神よ、このひとりの人が、罪を犯したからといって、あなたは全会衆に対して怒られるのですか」(同16:19、21、22)。 PP 207.2
モーセが、彼のところに来ることを拒んだ人々に最後の警告を与えるために、70人の長老たちと共に下っていったときに、コラは会衆から退いて、ダタンとアビラムに加わった。群衆は従ってきた。モーセは、彼の使命を伝えるに先だち、神の指示によって、人々に命じた。「どうぞ、あなたがたはこれらの悪い人々の天幕を離れてください。彼らのものには何にも触れてはならない。彼らのもろもろの罪によって、あなたがたも滅ぼされてはいけないから」と人々に命じた(同16:26)。みなの者は、刑罰が下されようとしているのを知って、この警告に従った。反逆の主謀者たちは、彼らが欺いてきた者たちから捨てられたことを知ったが、その不敵な態度を変えなかった。彼らは、神の警告を無視するかのように、家族と共に天幕の入口に立っていた。 PP 207.3
ここで、モーセは、会衆の面前でイスラエルの神の名によって宣言した。「あなたがたは主がこれらのすべての事をさせるために、わたしをつかわされたこと、またわたしが、これを自分の心にしたがって行うものでないことを、次のことによって知るであろう。すなわち、もしこれらの人々が、普通の死に方で死に、普通の運命に会うのであれば、主がわたしをつかわされたのではない。しかし、主が新しい事をされ、地が口を開いて、これらの人々と、それに属する者とを、ことごとくのみつくして、生きながら陰府に下らせられるならば、あなたがたはこれらの人々が、主を侮ったのであることを知らなければならない」(同16:28~30)。 PP 207.4
イスラエルの人々は、次に何が起こるかと思って、恐怖におびえながら、いっせいにモーセを見つめて立っていた。彼が語り終えると、堅い大地が裂けて、反逆者たちは彼らのすべての持ち物と共に、生きながら穴の中に落ちていった。そして、「彼らは会衆のうちから、断ち滅ぼされた」(同16:33)。人々は、その罪に関与した自責の念にかられて逃げ去った。 PP 207.5
しかし、刑罰はこれで終わったのではなかった。雲から火がひらめいて、薫香を供えた250人のつかさたちを焼き尽くした。この人々は、最初に反逆したのではなかったので、首謀者たちと共に滅ぼされなかった。彼らは首謀者たちの最後を見て、悔い改める機会が与えられた。しかし、彼らは反逆者に共鳴し、彼らと運命を共にした。 PP 207.6
モーセが、切迫している刑罰からのがれるようにイスラエルに嘆願したとき、もし、コラと彼の仲間が悔い改めて赦しを求めたならば、神の刑罰は、そのときでも止められたかも知れなかった。しかし、彼らの頑迷さが彼らの運命を決定したのである。全会衆も多かれ少なかれ、彼らに共鳴したのであるから、罪があったのである。しかし神は、大いなる憐れみをもって、反逆の指導者と、指導に従った者とを区別された。欺かれてしまった民には、まだ悔い改める余裕が与えられていた。彼らが誤っており、モーセが正しいという圧倒的証拠が与えられた。著しい神の力のあらわれによって、すべての疑惑が取り除かれた。 PP 207.7
ヘブル人に先だって行かれた天使であられるイエスは、彼らを滅びから救おうとされた。彼は、なんとかして彼らを赦そうとしておられた。神の刑罰が身辺に迫り、悔い改めをうながした。抵抗することのできない特別の天からの介入によって、彼らの反逆は 阻止された。もし彼らが、今、神の摂理の介入に応じるならば、救われるのであった。彼らは、滅びを恐れて刑罰からのがれたけれども、彼らの反逆心は癒されていなかった。その夜、彼らはおびえて天幕に帰ったが、悔い改めてはいなかった。 PP 207.8
人々は、コラと彼の仲間たちの甘言によって、自分たちは非常にりっぱな民であると思い込み、モーセから、虐待と不当な扱いを受けたのだと本当に思い込んだ。もし、コラとその仲間が誤っていて、モーセが正しかったと認めるならば、彼らが荒野で死ぬという宣告も、神の言葉として受けなければならないのであった。彼らは、これに服することを好まず、モーセに欺かれたと信じようと試みた。彼らは、今にも新秩序が制定されて、譴責のかわりに賞賛、また、心労と争闘のかわりに安易な生活が与えられることを望んでいた。滅ぼされた人々は、へつらいの言葉を語り、彼らに大きな関心と愛をあらわしていた。それで、人々は、コラと彼の仲間は善良な人々にちがいなく、彼らが滅ぼされたのは、何かの理由で、モーセのせいだと考えた。 PP 208.1
神が自分たちを救うために用いられる器を拒否し、軽蔑することほど、神への大きな侮辱はあり得ない。イスラエル人は、そうしたばかりでなくて、モーセとアロンを2人とも殺害しようとたくらんだ。しかし、彼らは、自分たちのこうした恐ろしい罪の赦しを神に求める必要を認めなかったのである。猶予の夜は、悔い改めと告白ではなくて、彼らが大罪人であることを示した証拠に抵抗する手段を工夫するために過ごされた。彼らはなお、神が任命された人々を憎み、その権威に逆らおうとした。サタンは、彼らの判断力をゆがめ、盲目にして滅びに陥れようとしていた。 PP 208.2
イスラエルの全会衆は、穴に落ちた不運な罪人たちの叫びを聞いて、驚いて逃げ去った。「恐らく地はわたしたちをも、のみつくすであろう」と彼らは言った。「その翌日、イスラエルの人々の会衆は、みなモーセとアロンとにつぶやいて言った、『あなたがたは主の民を殺しました』」(同16:34、41)。こうして、彼らは、今にも忠実で献身的な彼らの指導者に暴力をふるおうとした。 PP 208.3
幕屋にたれこめた雲の中に、神の栄光が現れた。そして、雲から声がモーセとアロンに語って言った。「あなたがたはこの会衆を離れなさい。わたしはただちに彼らを滅ぼそう」(同16:45)。 PP 208.4
モーセにはなんの罪もなかったから、恐れをいだかなかった。彼は、急いで会衆を離れて、彼らを滅びるままにしておかなかった。モーセは、この恐ろしい危機にあって、自分が飼っている群れに対して真の羊飼いとしての思いやりをみせて、そこを去ろうとしなかった。彼は神の選民が、神の怒りによって全滅されないように嘆願した。こうした彼のとりなしによって、復讐の手は止められ、不服従で反抗的なイスラエルは全滅をまぬかれたのである。 PP 208.5
だが、怒りの使者はすでに出発していた。人々は、すでに疫病に倒れていた。アロンはモーセの指示に従って、薫香を手にして、急いで会衆のまん中に行き、「彼らのために罪のあがない」をした。彼は、「すでに死んだ者と、なお生きている者との間に立」った(同16:46、48)。薫香の煙とともに、幕屋でのモーセの祈りも神のもとにのぼっていった。そして疫病はやんだ。しかし、つぶやきと反逆の罪の結果として、1万4千人のイスラエル人が死んだのである。 PP 208.6
祭司職は、アロンの家に定められたという証拠が、さらに与えられた。神の指示に従って、各部族はつえを準備し、それに部族の名を書きしるした。アロンの名は、レビのつえに書かれた。つえは、幕屋の中の「あかしの箱の前に」置かれた。どのつえからでも芽が出るならば、主がその部族を祭司職に選ばれたしるしとなるのであった。その翌日、見よ、「レビの家のために出したアロンのつえは芽をふき、つぼみを出し、花が咲いて、あめんどうの実を結んでいた」(同17:8)。そのつえは、人々に見せたあとで、後世への証拠として、幕屋の中に保存された。この奇跡は、祭司職に関する問題を難なく解決した。 PP 208.7
こうして、モーセとアロンとは、神の権威のもとに語ったということが十分に証拠立てられた。そして、人々は、荒野で死ぬという好ましくない事実を認めなけれ ばならなくなった。「ああ、わたしたちは死ぬ。破滅です、全滅です」と彼らは叫んだ(同17:12)。彼らは、指導者に反逆した罪を告白し、コラとその仲間の者が神の正しい刑罰によって滅ぼされたことを認めた。 PP 208.8
天においてサタンを反逆させたのと同じ精神が、小規模ではあったが、コラの反逆のなかに見られたのである。神の統治に対する不満をルシファーにいだかせ、天の秩序をくつがえそうとさせたのは、誇りと野心であった。サタンは堕落以来、この同じねたみと不満、地位や名誉に対する野心を人間の心に植えつけようとしてきた。こうして、彼は、コラ、ダタン、アビラムの心を動かし、自己高揚心を起こさせ、ねたみ、不信、反逆の精神をかきたてたのである。サタンは彼らに、神の任命された人々を拒ませて、彼らの指導者であられる神を拒否させたのである。彼らは、モーセとアロンに向かってつぶやき、神を冒瀆していながらも、なお、自分たちは正しく、彼らの罪を忠実に譴責した人々をサタンに動かされているとみなすほどに欺かれていた。 PP 209.1
コラの滅亡の根底に横たわっていた同じ悪が、なお、存在しているのではなかろうか。誇りと野心は広く人の心を支配している。そして、この精神は、ねたみと最高の地位を求める心を起こさせる。魂は神から離れ去って、無意識のうちにサタンの側に引かれるのである。多くの者、また、キリストの従者であると公言する者でさえ、自分を高めるために熱心に考え、計画し、努力している。そして、人々の共鳴と支持を得るためには、あえて事実をもまげ、主のしもべたちを偽って悪く言い、自己の心のいやしい利己的動機を、彼らの動機であるかのように非難するのである。十分の証拠があるにもかかわらず、虚偽をくりかえしているうちに、彼らはついにそれを事実であると思うようになる。神が任命された人々に対する民の信頼を失わせようとしていながら、自分たちは善事を行い、真に神に奉仕していると思い込むのである。 PP 209.2
ヘブル人は、主の指示と制限に服従することを喜ばなかった。彼らは、拘束をきらい、譴責を甘受しなかった。こういうわけで、彼らはモーセにつぶやいたのである。もし、彼らが欲することを自由にすることができたならば、指導者に対する不平は少なかったことであろう。教会の全歴史を通じて、神のしもべたちはこの同じ精神に当面したのである。 PP 209.3
人間は、罪にふけることによって、心の中にサタンがつけ込むすきを与える。そして、1つの悪から次の悪へと進んでいく。光の拒否によって思考は暗く、心は堅くなる。そして、容易に次の罪を犯し、さらに大きな光を拒み、ついには罪を犯すことが習慣になってしまうのである。罪は彼らにとって、悪いものとは思われなくなる。神のみ言葉を忠実に説いて、彼らの罪を譴責するものは、当然彼らから憎まれる。彼らは、改革に必要な苦痛と犠牲に耐えることを喜ばず主のしもべに反抗し、その譴責を不当できびしいものであると非難するのである。コラと同様に、人々には罪はなく、譴責者が災害の原因であるというのである。ねたみと不満の持ち主は、こうした欺瞞によって良心をなだめ、結束して不和の種をまき、教会を築こうとする者の手を弱めるのである。 PP 209.4
神のみわざを推し進めるために召された人々の働きは、ことごとく疑惑の目で見られたのである。また、すべての行為は、ねたみとあらさがしの精神をもった人々に悪口を浴びせられた。ルーテル、ウエスレー、また他の改革者の時代においても、このとおりであった。これは今日も同様である。 PP 209.5
もし、コラが、イスラエルに伝えられたすべての譴責と指令が神から出たものであることを知っていたならば、あのようなことはしなかったことであろう。しかし、彼は、これを知ることができたのである。神は、ご自分がイスラエルの指導者であることの十分な証拠を、すでに与えておられた。しかし、コラと彼の仲間は、光を拒んだので目がくらみ、神の力のどんな著しい現れも、彼らを納得させることができなかった。彼らは、それらをすべて人間的、またはサタンの力に帰していた。これと同じことを人々が行った。彼らは、コラとその仲間が滅ぼされた翌日、モーセのところに来て「あなたがたは主の民を殺しました」と言った。彼らは、民を欺いた者の滅びを見て、彼らの行為が 神の不興を招いたという決定的証拠を示されたにもかかわらず、神の刑罰をサタンのせいにし、モーセとアロンが、正しく清い人々を悪魔の力によって死なせたと言ったのである。彼らの運命を決定したのは、この行為であった。彼らは聖霊に対する罪を犯した。人の心は、この罪によって堅く閉ざされて、神の恵みに浴することができなくなるのである。「また人の子に対して言い逆らう者は、ゆるされるであろう。しかし、聖霊に対して言い逆らう者は……ゆるされることはない」とキリストは言われた(マタイ12:32)。この言葉は、救い主が神の力によって恵みのわざをなさったときに、ユダヤ人がそれをベルゼブルによって行われたと言ったのに対して語られたものである。神は聖霊の働きによって人間と交わられる。であるから、この働きをサタンのものであると故意に拒む者は、魂と天との通路を断ち切ってしまうのである。 PP 209.6
神は、聖霊の働きによって罪人を譴責し、罪を悟らせられる。であるから、聖霊がついに拒否されてしまうならば、神はその魂のためにもう何もおできにならない。神のあわれみの最後の手段がとられたのである。罪人は自分を神から切り離した。そして、罪には、それからの救済策がないのである。罪人に罪を認めさせて、悔い改めさせるために働く力が、もうなにも残されていないのである。「そのなすにまかせよ」と神は命じられる(ホセア4:17)。そして、「罪のためのいけにえは、もはやあり得ない。ただ、さばきと、逆らう者たちを焼きつくす激しい火とを、恐れつつ待つことだけがある」(ヘブル10:26、27)。 PP 210.1