人類のあけぼの

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第26章 紅海からシナイへ

本章は、出エジプト記15:22~27、16~18章に基づく PP 146.4

イスラエルの全会衆は、雲の柱に導かれて、紅海からふたたび旅に出た。彼らの周囲の光景は非常にものさびしく、樹木のない荒れ果てたながめの山々と不毛の平原で、敵の死体を海岸に横たえた紅海が、はるか向こうにひろがっていた。それでも彼らは、自由を得た喜びに満たされ、不満の思いは全く消えうせた。 PP 146.5

しかし3日間旅を続けたが、水を見つけることができなかった。持参した水のたくわえは使い果たしてしまった。太陽の照りつける平原を、疲れた足を引きずって歩く彼らの焼けつくのどのかわきを癒すものはなにもなかった。モーセは、この地域をよく知っていたので、ほかの人たちの知らないこと、すなわち、メラが1番近い水の泉のあるところであるが、その水は飲めない水であるということを知っていた。彼は、はなはだしく気をもみながら、彼らを導く雲を見守った。水だ、水だという喜びの叫び声が一同に伝わるのを、彼は沈む思いで聞いた。男も女も子供たちも、喜んで水の泉にかけ寄ったのであるが、人々の間から苦悩の叫び声が起こった。水は苦かったのである。 PP 146.6

腹立たしさと絶望のうちに、彼らは、あの不思議な雲のなかに神が臨在して、彼らばかりでなくモーセを導いてこられたことを忘れて、モーセが自分たちをこんな道に導いてきたといって責めたてた。モーセは、 彼らの苦しみを気のどくに思い、彼らが忘れていたことをした。彼は熱心に神の助けを叫び求めたのである。「主は彼に1本の木を示されたので、それを水に投げ入れると、水は甘くなった」(出エジプト15:25)。ここで、モーセを通して、イスラエルに次のような約束が与えられた。「あなたが、もしあなたの神、主の声に良く聞き従い、その目に正しいと見られることを行い、その戒めに耳を傾け、すべての定めを守るならば、わたしは、かつてエジプトびとに下した病を1つもあなたに下さないであろう。わたしは主であって、あなたをいやすものである」(同15:26)。 PP 146.7

メラから、人々はエリムへ行ったが、そこには、「水の泉12と、なつめやしの木70本」があった(同15:27)。ここに彼らは数日とどまってから、シンの荒野へ入って行った。エジプトを出てから1か月たって彼らははじめて荒野に宿営した。食料のたくわえは乏しくなりかけていた。荒野には食用の草が乏しく、家畜は減りはじめていた。この大群衆にどのようにして食物を与えたらよいだろうか。またもや、彼らは疑いをいだいてつぶやいた。民のつかさたちや長老たちまで一緒になって、神から任命された指導者たちにむかって、つぶやいて言った。「われわれはエジプトの地で、肉のなべのかたわらに座し、飽きるほどパンを食べていた時に、主の手にかかって死んでいたら良かった。あなたがたは、われわれをこの荒野に導き出して、全会衆を餓死させようとしている」(同16:3)。 PP 147.1

彼らはまだ飢えてはいなかった。そのときの必要は満たされていたのであるが、彼らは将来を恐れたのである。この大群衆が、荒野の旅をどのようにして生きていくのか、彼らはわかっていなかった。彼らは子供たちが飢え死にする光景を想像した。主は、これまで彼らを救ってくださったおかたに、人々の心をむけさせようとして、いろいろな困難を彼らに経験させ、食料の供給をとめられたのである。もし欠乏の中にあって神に呼び求めるなら、神は依然として、神の愛と守りについてはっきりした証拠をお与えになるのである。神の戒めに従うなら、病気になることはないと、神は約束されたのであるから、自分も子供たちも飢え死にするかも知れないと予想することは、彼らの罪深い不信であった。 PP 147.2

神は、彼らの神となって、彼らをご自分の民とし、彼らをもっと広く、もっとよい国へ導くと約束されたのに彼らは、その国へ行く途中、妨害に出あうたびにすぐ失望した。神は彼らを向上させて、高潔にし、彼らを地上の賞賛に値する国とするために、不思議な方法をもってエジプトの奴隷の境遇から救い出された。しかし、彼らは困難に出会い、欠乏に耐えることが必要であった。神は彼らを堕落の状態から引き出し、彼らが諸国民の中で尊敬される立場を占め、重要で神聖な責任を負わされるのにふさわしいものにしようとしておられた。もし彼らが、彼らのために神が行われたすべてのことを考えて神を信じていたら、彼らは、喜んで不便と欠乏と、実際の苦難にも耐えたのである。しかし、彼らは神の力の証拠を常に目で見ることができないかぎり、神に信頼しようとしなかった。彼らはエジプトでの苦しい仕事を忘れた。奴隷の境遇から救済されたときに彼らのために神の恵みと力があらわされたことを彼らは忘れた。死の天使がエジプトの長子を全部殺したときに、イスラエルの子らは生かされたことを彼らは忘れた。彼らが開かれた道を安全に渡ったときに、追跡してきた敵の軍勢が海の水にのまれて滅びたことを、彼らは忘れた。彼らは、目前の不便と試練だけを目にとめてそれを感じた。そして、「神はわれわれのために大いなることをしてくださった。われわれは奴隷であったのに、神はわれわれを大いなる国民にしてくださるのだ」と言わないで、彼らは、途中の困難について語り、このたいくつな放浪はいつ終わるのだろうと思った。 PP 147.3

イスラエルの荒野生活の歴史は、世の終わりの神のイスラエル人の益のために記録された。荒野の放浪者たちがあちらこちらへさまよって、飢え、かわき、疲れた時に、彼らの救済のために神の力がいちじるしくあらわれたことなどの神の行為の記録は、すべて各時代の神の民に対する警告と教えに満ちている。ヘブル人のいろいろな経験は、彼らがカナンの約束 の地へ入るための準備の学校であった。神は、今日の神の民が、古代イスラエル人の経験した試練を、へりくだった心と教えを受ける精神をもってふりかえり、天のカナンにはいる準備に役立てるように望んでおられる。 PP 147.4

イスラエル人の経験をふりかえってみて、彼らの不信とつぶやきに驚き、自分たちであったら、あんなに忘恩的にはならなかっただろうと思う人たちが多い。しかし、彼らの信仰がちょっとした試みによってためされてさえ、彼らは古代イスラエルと同じように信仰も忍耐も発揮しないのである。苦境に陥ると、彼らは神が彼らを清めるために選ばれた道についてつぶやく。現在の必要は満たされているのに、多くの者は将来のことを神に信頼しようとしないで、貧乏になりはしないか、子供たちが苦しみはしないかと絶えず心配する。ある人たちは、いつも悪いことを予想したり、実際に困難なことがあると、それを大げさに考えたりするので、彼らの目は、感謝しなければならない多くの恵みに対して盲目になっている。彼らは、困難に出会うときに、唯一の力の源であられる神に助けを求めようとしないで、不安とつぶやきの心を起こし、かえって神から離れてしまうのである。 PP 148.1

われわれは、このように不信であってよいだろうか。どうして感謝しなかったり、信頼しなかったりしてよいだろうか。イエスはわれわれの友である。全天はわれわれの幸福に関心を持っている。われわれの心配と恐れは神の聖霊を悲しませる。いらだたせ、疲れさせるだけで、試みに耐える助けとならない心配をしてはならない。われわれの幸福が地上の事物にあるかのように、将来の必要に対する備えを人生の主要事として、神への不信をいだいてはならない。神の民が、心配事にうちひしがれることは、みこころではない。しかし主は、われわれの道になんの危険もないとは言われない。神はご自分の民を罪と悪のこの世から連れ出そうとは言われず、われわれに確実な避け所をさし示される。主は、重荷を負って疲れている者に、「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」と招いておられる(マタイ11:28)。自分自身のくびにかけた心配とこの世の苦労というくびきをはずしなさい。そして、「わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう」(同11:29)。心配事をすべて神にまかせて、神のうちに休みと平安をみいだすことができるのである。「神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい」(Ⅰペテロ5:7)。 PP 148.2

「兄弟たちよ。気をつけなさい。あなたがたの中には、あるいは、不信仰な悪い心をいだいて、生ける神から離れ去る者があるかも知れない」と使徒パウロは言っている(ヘブル3:12)。神がわれわれのために行われたすべてのことを考えて、われわれの信仰を、強く、積極的で、持久力のあるものとしなければならない。つぶやき、不平を言うのでなく、われわれの心のことばは、「わがたましいよ、主をほめよ。わがうちなるすべてのものよ、その聖なるみ名をほめよ。わがたましいよ、主をほめよ。そのすべてのめぐみを心にとめよ」でなければならない(詩篇103:1、2)。 PP 148.3

神は、イスラエルの必要を心にとめておられないのではなかった。神は彼らの指導者に、「わたしはあなたがたのために、天からパンを降らせよう」と言われた(出エジプト16:4)。そして、毎日与えられるものを集め、6日目は、安息日を清く守ることができるように2倍の分量を集めるようにとの命令が与えられた。 PP 148.4

モーセは会衆に、彼らの必要が満たされることを保証して、「主は夕暮にはあなたがたに肉を与えて食べさせ、朝にはパンを与えて飽き足らせられるであろう」と言った。彼はさらに、「いったいわれわれは何者なのか。あなたがたのつぶやくのは、われわれにむかってでなく、主にむかってである」とつけ加え、アロンに命じて、「あなたがたは主の前に近づきなさい。主があなたがたのつぶやきを聞かれたからである」と人々に言わせた。アロンが語っているとき、「彼らが荒野の方を望むと、見よ、主の栄光が雲のうちに現れていた」(同16:8、9、10)。彼らが これまでに1度も見たことのない輝きは、神のこ臨在を象徴していた。感覚に訴える啓示を通して、彼らは神についての知識を得るのであった。彼らが神のみ名をおそれ、神のみ声に従うように、人間モーセではなく、至高者であられる神が、彼らの指導者であられることを彼らに教えねばならなかった。 PP 148.5

夕暮れになると、宿営はうずらの大群におおわれ、全会衆に十分ゆきわたった。朝になると、地面に、「薄いうろこのようなものがあり、ちょうど地に結ぶ薄い霜のようであった」「それはコエンドロの実のようで白」かった。人々はそれをマナと呼んだ。モーセは、「これは主があなたがたの食物として賜わるパンである」と言った(同16:14、31、15)。人々はマナを集めたが、全部の人たちに十分供給するだけあった。人々は、「ひきうすでひき、または、うすでつき、かまで煮て、これをもちとした」「その味は蜜を入れたせんべいのようであった」(民数記11:8、出エジプト16:31)。彼らは毎日、1人1オメル集めるように命じられたが、それを朝まで残しておいてはならなかった。なかには翌日までとっておこうとした者があったが、翌朝になると食べられなくなっていた。その日の分は、朝集めなければならなかった。地面に残っていたものは全部、太陽にとけたからである。 PP 149.1

マナを集めるとき、きまった分量よりも多く集める者もあれば、少なく集める者もあった。「オメルでそれを計ってみると、多く集めた者にも余らず、少なく集めた者にも不足しなかった」(出エジプト16:18)。この聖句についての説明と、それからの実際的な教訓について、使徒パウロはコリント人への第2の手紙にこう書いている。「それは、ほかの人々に楽をさせて、あなたがたに苦労をさせようとするのではなく、持ち物を等しくするためである。すなわち、今の場合は、あなたがたの余裕があの人たちの欠乏を補い、後には、彼らの余裕があなたがたの欠乏を補い、こうして等しくなるようにするのである。それは『多く得た者も余ることがなく、少ししか得なかった者も足りないことはなかった』と書いてあるとおりである」(Ⅱコリント8:13~15)。 PP 149.2

6日目には、人々はおのおの2オメル集めた。司たちは急いでやってきて、そのことをモーセに知らせた。するとモーセはこう答えた、「主の語られたのはこうである、『あすは主の聖安息日で休みである。きょう、焼こうとするものを焼き、煮ようとするものを煮なさい。残ったものはみな朝までたくわえて保存しなさい』と」(出エジプト16:23)。彼らはそのとおりにしたが、それは変化していなかった。そこでモーセは言った。「きょう、それを食べなさい。きょうは主の安息日であるから、きょうは野でそれを獲られないであろう。6日の間はそれを集めなければならない。7日目は安息日であるから、その日には無いであろう」(同16:25、26)。 PP 149.3

神はご自分のきよい日を、イスラエルの時代と同じように、いまもなお、きよく守るように要求しておられる。クリスチャンは、みな、ヘブル人に与えられた命令を、主から自分たちに与えられた命令とみなさねばならない。安息日の前の日は、きよい時間のためにすべてのことを準備するための備え日としなければならない。どんなことがあっても、自分自身の用事のために、きよい時間にくいこむようなことがあってはならない。神は、病人や苦しんでいる人の世話をするように命じられた。彼らを安楽にするために必要な働きは、慈善の働きであって、安息日を犯すことにはならない。しかし、不必要な仕事は全部避けねばならない。備え日にすませられる小さなことを、不注意のために安息日のはじまるまで延ばす人が多い。そのようなことがあってはならない。安息日のはじめまでしないでおいた仕事は、安息日が過ぎるまでそのままにしておくべきである。こうすることによって思慮の足りない人々は、そのことをよく記憶していて、今後は注意深く6日の間に自分自身のことをするようになる。 PP 149.4

イスラエル人は、荒野での長い間の滞在中に、毎週三重の奇跡を目に見たが、それは彼らの心に安息日の神聖さを印象づけるためのものであった。すなわち、6日目には2倍の分量のマナがふり、7日目には全然ふらなかった。そして、ほかのときには翌日までとっておいたものは食べられなくなっていたが、安 息日に必要な分は新鮮なまま保存がきいたのであった。 PP 149.5

マナが与えられたときの事情をよく考えてみると、安息日は、律法がシナイで与えられたときに創設されたと多くの人が主張しているが、そうではないという決定的な証拠が見られる。イスラエル人は、シナイに到着する前に、安息日を守らなければならないことを知っていた。安息日には全然降らなかったので、その準備として金曜日ごとに2倍の分量のマナを集めなければならなかったことによって、安息日が清いものであることが絶えず心に印象づけられた。安息、日にマナを集めに出る人々がいると、神は、「あなたがたは、いつまでわたしの戒めと、律法とを守ることを拒むのか」と言われた(同16:28)。 PP 150.1

「イスラエルの人々は人の住む地に着くまで40年の間マナを食べた。すなわち、彼らはカナンの地の境に至るまでマナを食べた」(同16:35)。40年の間、彼らはこの奇跡的な供給によって、神の絶えることのない守護とやさしい愛を毎日自覚させられた。詩篇記者のことばに、神は「天の穀物を彼らに与えられた。人は天使のパンを食べた」と言われている(詩篇78:24、25)。天使のパンとは、天使たちによって彼らに与えられた食物ということである。「天の穀物」によって養われた彼らは、神の約束が与えられているならば、あたかもカナンの肥沃な平野の波打つ穀物畑にかこまれているかのように、欠乏することはないということを毎日教えられた。 PP 150.2

イスラエルを養うために天から降ってきたマナは、世に生命を与えるために、神のみもとからこられたおかたを象徴していた。イエスはこう言われた。「わたしは命のパンである。あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死んでしまった。しかし、天から下ってきたパンを食べる人は、決して死ぬことはない。わたしは天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう。わたしが与えるパンは、世の命のために与えるわたしの肉である」(ヨハネ6:48~51)。来世において神の民に与えられる祝福の約束の中に「勝利を得る者には、隠されているマナを与えよう」と言われている(黙示録2:17)。 PP 150.3

シンの荒野を去ったのちに、イスラエル人はレピデムに宿営した。ここには水がなかったので、彼らは、また神の摂理を疑った。人々は盲目的に、そして僣越にもモーセのところへやってきて、「わたしたちに飲む水をください」と要求した。しかし、モーセは忍耐しつづけた。「あなたがたはなぜわたしと争うのか、なぜ主を試みるのか」と彼は言った。彼らは怒って叫んだ。「あなたはなぜわたしたちをエジプトから導き出して、わたしたちを、子供や家畜と一緒に、かわきによって死なせようとするのですか」(出エジプト17:2、3)。食物が豊富に供給されたときに、彼らは自分たちの不信とつぶやきを思い出して恥ずかしく思い、これからは主に信頼しますと約束した。しかし、彼らはすぐにその約束を忘れ、信仰の最初の試みに失敗した。彼らを導いてきた雲の柱は恐るべき秘密を隠しているように思えた。また、モーセはいったい何者なのだ、いったい彼はなんの目的でわれわれをエジプトから連れ出してきたのだと、彼らはたずねた。疑いと不信が彼らの心を満たした。彼らはモーセが彼らの所有物によって私腹をこやそうとして、彼らを欠乏と苦難にあわせて、自分たちと子供たちを殺そうとたくらんでいるのだと言って、大胆に彼を責めた。怒りと憤りのさわぎの中で、彼らはモーセを石で打とうとした。 PP 150.4

困ったモーセは、主にむかって、「わたしはこの民をどうすればよいのでしょう」と叫んだ。彼は、エジプトで奇跡を行ったつえをとり、イスラエルの長老たちを連れて、民の前に行くように命じられた。主は、モーセにこう言われた。「見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つであろう。あなたは岩を打ちなさい。水がそれから出て、民はそれを飲むことができる」(同17:4、6)。モーセがそのようにすると、水が生きた水の流れとなってわき出て、宿営に豊富に供給することができた。神は、モーセにそのつえをふり上げて、エジプトの災いのように、何か恐ろしい災いを、このようなつぶやきを扇動した人々の上に下 すようにとお命じにならないで、大きな憐れみをもって、このつえを彼らの救いをもたらす道具とされたのであった。 PP 150.5

「神は荒野で岩を裂き、淵から飲むように豊かに彼らに飲ませ、また岩から流れを引いて、川のように水を流れさせられた」(詩篇78:15、16)。モーセは岩を打ったが、モーセのかたわらに立って、いのちの水を流れさせたのは、雲の柱におおわれていた神のみ子であった。モーセと長老たちばかりでなく、離れて立っていた会衆のすべてが主の栄光を見た。しかし、もし雲がとり除かれたら、彼らはその中にとどまっておられるお方の恐るべき輝きで殺されたであろう。 PP 151.1

人々は、のどのかわきのあまり、神を試みて、「主はわたしたちのうちにおられるかどうか」(出エジプト17:7)——「もし神がわたしたちをここにつれてこられたのだったら、なぜパンと同じように水をお与えにならないのか」と言った。このような不信の表明は罪悪であって、モーセは神の刑罰が彼らの上にくだることを恐れた。そこで彼はその場所の名をマッサ(試み)、また、メリバ(小言)と呼んで、彼らの罪の記念とした。 PP 151.2

新たな危険がいまや彼らを脅かした。主は、彼らが神に向かってつぶやいたために、彼らが敵の攻撃にさらされるのをおゆるしになった。その地方に住んでいた野蛮で好戦的な部族アマレク人が、彼らに手むかい、疲れ果ててしんがりになっていた人々を襲った。モーセは、民の大多数に戦いの準備がないことを知っていたので、ヨシュアに、各部族から一団の兵士たちを選抜し、翌朝敵にむかって進撃するように命じた。一方、モーセは、手に神のつえを持って近くの高台に立つことになった。そこで次の日、ヨシュアとその一団は敵を攻撃し、一方モーセとアロンとホルは、戦場を見おろす丘の上に場所を占めた。モーセは、右手に神のつえを持って、両手を天にさし出し、イスラエル軍の成功を祈った。戦闘が進むにつれて、モーセの両手が上のほうへさし上げられている間はイスラエルが勝ったが、彼の手が下がると敵が勝つことがわかった。モーセは疲れたので、アロンとホルが太陽の沈むころまでその手をささえて、敵を敗走させた。 PP 151.3

アロンとホルは、モーセの手をささえて、モーセが、神から人々に語る言葉を受けている間に、人々は彼の困難な働きをささえなければならないことを彼らに示していた。モーセの行為もまた意味深いもので、神が人々の運命をそのみ手ににぎっておられることを示した。すなわち、人々が神に信頼するときに、神は彼らのために戦って敵を征服されるが、人々が神にたよらないで自分自身の力にたよるときに、彼らは、神を知らない人たちよりも弱くなり、敵は彼らを打ち負かすのであった。 PP 151.4

モーセが、手を天に向かってさしのべ、民のためにとりなしているときにヘブル人が勝利したように、神のイスラエルは、信仰によって、偉大なる助け手の力にたよるときに勝利するのである。しかし、神の力は人間の力と結合しなければならない。モーセは、イスラエルが活動しなければ、神は、敵を打ち負かしてくださらないと思った。大指導者モーセが主に訴えている間、ヨシュアとその勇敢な部下たちは、イスラエルと神の敵を撃退するために全力を尽くしていた。 PP 151.5

アマレク人が敗北したあとで、神はモーセに、「これを書物にしるして記念とし、それをヨシュアの耳に入れなさい。わたしは天が下からアマレクの記憶を完全に消し去るであろう」と言われた(同17:14)。大指導者モーセは、死の直前に、人々に厳粛な命令を伝えた。「あなたがエジプトから出てきた時、道でアマレクびとがあなたにしたことを記憶しなければならない。すなわち彼らは道であなたに出会い、あなたがうみ疲れている時、うしろについてきていたすべての弱っている者を攻め撃った。このように彼らは神を恐れなかった。……あなたはアマレクの名を天の下から消し去らなければならない。この事を忘れてはならない」(申命記25:17~19)。この邪悪なアマレク人について、主は、「アマレクの手は主のみ座に敵対する」と宣言された(出エジプト17:16、英語訳)。 PP 151.6

アマレク人は、神のご品性や主権について無知ではなかった。しかし、彼らは、神をかしこみおそれようとしないで、神の力に公然と反抗した。アマレク人は、モーセがエジプト人の前で行った不思議なわざを嘲笑し、周囲の国民の恐怖をあざけった。彼らは、ヘブル人を1人も残さず滅ぼすことを彼らの神々にかけて誓い、イスラエルの神は無力で自分たちに抵抗できないといばった。彼らは、イスラエル人から害を受けたこともなければ、脅かされたこともなかった。彼らの攻撃は全然挑発されたものではなかった。アマレク人がイスラエル人を滅ぼそうとしたのは、イスラエルの神に対する憎しみと反抗を示すためであった。アマレク人は、長年の間横暴な罪人で、彼らの罪悪はその報復が行われることを神に叫び求めていたが、神の憐れみは依然として彼らの悔い改めをうながしていた。しかし、アマレク人の男たちが、疲労して全く防備のないイスラエルの隊列を襲ったとき、彼らは自分たちの国民の運命を決定した。神の守護は、神の子らの最も弱い者たちの上にあった。天の神は、彼らに対するどんな残虐な行為も圧迫も見のがされない。神を愛し、おそれるすべての者たちの上に、神のみ手は盾としてさし出される。人間はそのみ手を撃たないように気をつけるがよい。なぜなら、そのみ手は正義の剣をふるうからである。 PP 152.1

イスラエル人が、そのとき宿営していた場所からあまり遠くないところに、モーセの義父エテロの家があった。エテロはヘブル人の救済について聞いていたので、このとき彼らを訪問して、モーセにその妻とふたりの子供を返してやろうとして出かけて行った。大指導者モーセは彼らの到着を使者たちから知らされると、喜んで出迎え、まず対面のあいさつをすませて、彼らを自分の天幕へ案内した。モーセは、イスラエル人をエジプトから導き出す危険な仕事をする間、自分の家族を送り返していたのであったが、今、彼は、再び家族と会って安心し、喜ぶことができた。彼はエテロに、イスラエルに対する神の不思議な導きについて語った。エテロは喜んで、主を祝福し、モーセや長老たちと共に犠牲を捧げ、神の憐れみを記念して厳粛な祝宴を開いた。 PP 152.2

エテロは、宿営に滞在していたとき、モーセに負わされている重荷が重いことをすぐにさとった。無知で、訓練されていない大群衆の中に、秩序と規律を保つことは実にたいへんな仕事であった。モーセは、人々の指導者また行政官として認められていて、人々の全般的な利害問題と義務のことだけでなく、人々の間に生ずる論争まで彼のところへ持ち込まれていた。モーセはそれを許していた。というのは、そのことによって、彼が、「神の定めと判決を知らせるのです」と言ったように、彼らに教える機会が与えられたからである。しかし、エテロはこれに抗議して言った。「このことはあなたに重過ぎるから、ひとりですることができない」「あなたも……必ず疲れ果てるであろう」(同18:16、18)。そこでエテロは、適当な人々を、1000人の長、100人の長、50人の長、10人の長として任命するように助言した。それらの人々は、「有能な人で、神を恐れ、誠実で不義の利を憎む人」でなければならなかった(同18:21)。これらの人々が小さな事件を全部さばき、一方、最もむずかしい重大事件はやはりモーセのところに持ち込まれることになった。エテロはモーセに、「あなたは民のために神の前にいて、事件を神に述べなさい。あなたは彼らに定めと判決を教え、彼らの歩むべき道と、なすべき事を彼らに知らせなさい」と言った(同18:19、20)。勧告は受け入れられた。それはモーセの眉の重荷を軽くしたばかりでなく、その結果、人々の間にもっと完全な秩序が確立された。 PP 152.3

主は、モーセに大きな栄誉を与え、彼の手によって不思議なわざを行われた。しかしモーセは、自分は人々を教えるために選ばれたのだから、自分自身は人から教えを受ける必要はないとは考えなかった。イスラエルの選ばれた指導者である彼は、ミデアンの敬虔な祭司の助言を喜んで聞き、その計画を賢明な措置として採用した。 PP 152.4

人々は、レピデムから雲の柱の動きに従って、旅を続けた。彼らは、不毛の平原を横切り、けわしい坂を越え、岩に囲まれた狭い道を通って行った。砂漠 を横断していると、しばしば前方に、けわしい山々がが巨大なとりでのように、彼らの道の真向こうにそびえ立ち、これ以上前進することができないように見えた。しかし、近づいてみると、山腹のあちらこちらに通路が開けて、その向こうにまた平原が見えるのであった。こうした奥深いじゃりの山道を通りぬけて、彼らは導かれて行った。それは荘厳で印象的な光景であった。両側に何百フィートもそびえ立つ断崖の間を、家畜を連れたイスラエルの大群が、目のとどくかぎり生きたうしおのように流れて行った。すると、彼らの眼前に、荘厳なシナイ山がその威容を現した。雲の柱がその頂上にとどまったので、人々は、その下の平原に天幕を張った。ここが1年近くの間彼らの居住地になるのであった。夜になると、火の柱が彼らに神の守護を保証し、彼らが眠りについている間に天のパンが静かに宿営の上に降った。 PP 152.5

夜明けが山の暗い尾根を金色に染め、太陽の金色の光線が深い谷間にさし込むと、これらの疲れ果てた旅人たちには、それが神のみ座からのあわれみの光のように見えた。四方の広大な、けわしい山は、その孤独な雄大さの中にあって、永遠の存在と威厳を語っているように思えた。ここで、心は厳粛と畏敬の念に打たれた。人々は「てんびんをもって、もろもろの山をはかり、はかりをもって、もろもろの丘をはか」られたお方の前にあって、自己の無知と弱さを思わせられた(イザヤ40:12)。ここでイスラエル人は、かつて神が人類に示された最もすばらしい啓示を受けるのであった。ここに主はご自分の民を集めて、その聖なる律法をご自身の声で宣言することによって、ご自分の戒めの神聖さを彼らに印象づけられるのであった。彼らは、堕落した奴隷生活を送り、偶像礼拝と長い間接触していたために、その影響を習慣と品性に刻まれていたので、徹底的な大改革が彼らのうちに行われることになった。神は、ご自身を彼らに知らせることによって、彼らをもっと高い道徳的水準に引き上げるために働いておられた。 PP 153.1