キリストの実物教訓

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第22章 言葉よりは行動

本章は、マタイ21:23~32に基づく COL 1290.4

「『あなたがたはどう思うか。ある人にふたりの子があったが、兄のところに行って言った、「子よ、きょう、ぶどう園へ行って働いてくれ」。すると彼は「おとうさん、参ります」と答えたが、行かなかった。また弟のところにきて同じように言った。彼は「いやです」と答えたが、あとから心を変えて、出かけた。このふたりのうち、どちらが父の望みどおりにしたのか』。彼らは言った、『あとの者です』。」 COL 1290.5

山上の説教の中で、キリストは、「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである」と言われた(マタイ7:21)。誠実を示すものは、言葉ではなく、行為である。キリストは、あなたがたは、なんのすぐれたことを言うだろうかとは言われず、「なんのすぐれた事をしているだろうか」と言われるのである(マタイ5:47)。「もしこれらのことがわかっていて、それを行うなら、あなたがたはさいわいである」というキリストのみ言葉は意味深い(ヨハネ13:17)。言葉には、それにふさわしい行為が伴わなければ価値がない。これが2人の息子のたとえによって教えられている教訓である。 COL 1290.6

このたとえは、キリストがその死に先だって、最後にエルサレムを訪問された時に語られた。彼は、神殿で売り買いする者たちを追い出された。彼のみ声は、神の力をもって彼らの心に語りかけた。人々は驚き恐れて、言いわけも抵抗もせずに彼の命令に従った。 COL 1290.7

恐怖がおさまった時、祭司や長老たちは、神殿にもどって来て、キリストが病人や死にかけている人々を いやしておられるのを見た。彼らは、喜びの声と賛美の歌を聞いた。神殿の中では、いやされて健康になった子供たちが、しゅろの枝をうち振り、ダビデの子にホサナと歌っていた。幼児は、回らない舌で、力強いいやし主を賛美していた。それなのに、こうしたすべての事柄も、祭司や長老たちの偏見やしっとを打ち破るには十分でなかったのである。 COL 1290.8

次の日、キリストが宮で教えておられると、祭司長たちや民の長老たちがイエスのもとに来て言った、「何の権威によって、これらの事をするのですか。だれが、そうする権威を授けたのですか。」 COL 1291.1

祭司や長老たちは、キリストの権能について確かな証拠を見ていた。彼が宮を清められた時、天の権威がそのみ顔からひらめくのを彼らは目撃した。彼らは、そのみ言葉によって立つ権威に抵抗することができなかった。再びその驚くべきいやしの行為によって、キリストは、彼らの疑問にお答えになった。彼は、その権威について、議論の余地のない証拠をお与えになったのであった。しかし、彼らの欲したのは証拠ではなかった。祭司や長老たちは、イエスにメシヤであることを宣言させておいて、そのみ言葉を悪く解釈して人々を扇動して、彼に立ち向かわせようとしていた。彼らは、キリストの影響力を失わせ、彼を殺そうと望んでいた。 COL 1291.2

イエスは、もし彼らがご自分のうちに神を認めることができず、そのみわざのうちにイエスの神性の証拠を見ることができなければ、自分はキリストであるとイエスがご自身について証しをしても、彼らが信じないことを知っておられた。その答えにおいて、イエスは、彼らが引き起こそうとしていた問題を避けて、非難を彼ら自身に向けられた。 COL 1291.3

「わたしも1つだけ尋ねよう。あなたがたがそれに答えてくれたなら、わたしも、何の権威によってこれらの事をするのか、あなたがたに言おう。ヨハネのバプテスマはどこからきたのであったか。天からであったか、人からであったか」と彼は言われた。 COL 1291.4

祭司やつかさたちは当惑した。「彼らは互に論じて言った、『もし天からだと言えば、では、なぜ彼を信じなかったのか、とイエスは言うだろう。しかし、もし人からだと言えば、群衆が恐ろしい。人々がみなヨハネを預言者と思っているのだから』。そこで彼らは、『わたしたちにはわかりません』と答えた。するとイエスが言われた、『わたしも何の権威によってこれらの事をするのか、あなたがたに言うまい。』」 COL 1291.5

「わたしたちにはわかりません。」この答えは偽りであった。祭司たちは、自分たちのおかれた立場を知っていたが、言い逃れをするために偽ったのである。バプテスマのヨハネはすでに現れて、彼らが今、権威の有無を論じているイエスについて証しを立てたのであった。彼はイエスをさし示して、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と言った(ヨハネ1:29)。彼はイエスにバプテスマをほどこした。バプテスマをお受けになったのち、キリストが祈っておられると、天が開けて、神のみ霊がはとのように彼の上に下り、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」と言う、天からの声が聞こえた(マタイ3:17)。 COL 1291.6

祭司やつかさたちは、ヨハネがどれほど、メシヤに関する預言をくり返して語ったかを知り、イエスのバプテスマの時の光景を知りながらも、ヨハネのバプテスマが天からのものであったと言おうとはしなかった。もし彼らが、心で信じている通りに、ヨハネは預言者であると告白するならば、どうして彼らは、ナザレのイエスは神の子であるというヨハネの証しを否定することができたであろうか。また彼らは、ヨハネのバプテスマは人からであったと言うこともできなかった。人々がヨハネは預言者であると信じていたからである。そこで彼らは、「わたしたちにはわかりません」と言ったのである。 COL 1291.7

ついで、キリストは、父親と2人の息子のたとえを語られた。父は兄の所に行って言った、「きょう、ぶどう園へ行って働いてくれ。」彼は、「おとうさん、参ります」と答えたが、行かなかった。また弟のところにきて同じように言った。彼は「いやです」と言下に答えた。彼は従うことを拒み、悪い道に走って悪友の仲間に入ってしまった。しかし、後に悔いて、父の命令に従った。 COL 1291.8

このたとえの中で、父は神をあらわし、ぶどう園は教会をあらわしている。2人の息子は、2種類の人々をあらわしている。命令に従うことを拒み、「いやです」と言った息子は、公然と罪のうちに生活し、信心を口にすることもなく、神の律法の課する制限と服従のくびきに従うことを拒否する人々をあらわしている。しかし、これらの人々の多くは、後に悔い改めて、神のご要求に従ったのであった。「悔い改めよ、天国は近づいた」というバプテスマのヨハネのメッセージによって福音が伝えられた時、彼らは悔い改めて、罪を告白した(マタイ3:2)。 COL 1292.1

「おとうさん、参ります」と言って、行かなかった息子は、パリサイ人の性格をよくあらわしている。この息子のように、ユダヤの指導者たちは、悔い改めがなんであるかを知らず、強いうぬぼれを持っていた。ユダヤ民族の宗教生活は、うわべだけのものとなっていた。シナイ山で神の声がおきてを宣言した時、すべての民は従うことを誓ったのであった。彼らは、「参ります」と言ったが、行かなかった。キリストがおいでになって彼らの前に律法の原則を示されても、彼らはキリストを拒否した。キリストは、当時のユダヤの指導者たちに、ご自分の権威と神としてのみ力について、十分な証拠をお与えになったのである。彼らは、それを明らかに認めながらも、その証拠を受け入れようとはしなかった。キリストは、彼らが服従の精神を持っていないために、いつまでも信じようとしないのであると言われた。「あなたがたは自分たちの言伝えによって、神の言を無にしている。……人間のいましめを教として教え、無意味にわたしを拝んでいる」とキリストは以前に彼らにおおせになられたことがあった(マタイ15:6、9)。 COL 1292.2

キリストの前にいた人々の中には、学者やパリサイ人、祭司やっかさたちがいたが、2人の息子のたとえをお語りになった後で、キリストは聴衆に、「このふたりのうち、どちらが父の望みどおりにしたのか」と質問された。われを忘れて、パリサイ人たちは、「あとの者です」と答えた。彼らは、それが自分たちを非難していることとは気づかずに、こう言ったのであった。その時キリストのみ口から、非難の言葉が発せられた。「よく聞きなさい。取税人や遊女は、あなたがたより先に神の国にはいる。というのは、ヨハネがあなたがたのところにきて、義の道を説いたのに、あなたがたは彼を信じなかった。ところが、取税人や遊女は彼を信じた。あなたがたはそれを見たのに、あとになっても、心をいれ変えて彼を信じようとしなかった。」 COL 1292.3

バプテスマのヨハネは、来て真理を宣べ伝えた。罪人はその説教によって、罪を悟り、悔い改めた。これらの人々は、自己を義として、厳粛な警告を拒否する者たちよりも先に、天国に人るであろう。取税人や遊女は無知であった。それに反して、知識のあるこれらの人々は真理の道を知っていた。それにもかかわらず、彼らは、神のパラダイスへの道を歩もうとはしなかった。彼らにとって命から命へいたる香りであるはずの真理は、死から死へいたる香りとなった。自己を嫌悪した公然たる罪人たちは、ヨハネの手によってバプテスマを受けた。しかし、これらの教師たちは偽善者であった。彼らのかたくなな心は、真理を受け入れる妨げとなった。彼らは、罪を悟らせる神の御霊の力に抵抗した。彼らは神の戒めに従わなかった。 COL 1292.4

キリストは彼らに、あなたがたは天国に入ることはできないとは言われなかった。キリストは、彼らが天国に入るのを妨げているものは、彼ら自身か作り出したものであることをお示しになった。これらユダヤの指導者たちに対して、戸はなお開かれていた。招きはまだ発せられていた。キリストは、彼らが罪を悟り、改心するのを見たいと望んでおられた。 COL 1292.5

イスラエルの祭司や長老たちは、宗教的儀式を行って日々を過ごした。彼らはこうした宗教的儀式を神聖なものと考えるあまり、俗事とは全く別のものにしていた。従って彼らの生活は、全く宗教的なものと思われていた。しかし彼らは、世の人に信心深く敬虔な者と思われたいと願い、人々に見てもらいたいために儀式を行った。服従すると口では言いながら、彼らは神に服従していなかった。彼らは、自分たち が教えていると公言している真理を、行う者ではなかった。 COL 1292.6

キリストは、バプテスマのヨハネを預言者たちのうちで最も偉大なものであると言明され、その聴衆に、ヨハネが神からつかわされた使者であるという証拠が、彼らに十分与えられていることをお示しになった。荒野の説教者の言葉には力があった。彼らはメッセージを断固として伝え、祭司やつかさたちの罪を責め、彼らに天国のわざを行うように命じた。また、命じられたわざを行わず、神の権威を無視することがいかに罪深いものかを、ヨハネは彼らに小した。彼は罪と妥協しなかった。そして、多くの者か不義を離れたのである。 COL 1293.1

ユダヤの指導者たちの口にするところが真実のものであったならは、彼らはヨハネの証しを受け入れ、イエスをメシヤと信じたことであろう。しかし、彼らは、悔い改めと義の実を示さなかった。彼らが軽べつした者たちが、彼らより先に天国へと進んでいた。 COL 1293.2

たとえの中で、「参ります」と言った息子は、忠実で従順なように見せかけたが、やがて、彼の言葉が真実でないことがわかった。彼は、父に対して真の愛を持っていなかった。そのように、パリサイ人も自己の清さを誇っていたが、試みられると、欠けていることが明らかにされた。彼らは自分たちの利益となると考えられる時には、律法の要求を苛酷なものとしたが、彼ら自身に服従が求められると、巧妙な詭弁を弄(ろう)して、神の戒めの力を弱めたのである。彼らについて、キリストは、「彼らのすることには、ならうな。彼らは言うだけで、実行しないから」と言われた(マタイ23:3)。彼らは、神に対しても、人に対しても、本当の愛を持っていなかった。神は、世を祝福するために、彼らが神の協力者となるように、彼らを召されたのであった。しかし、彼らは、口ではその召しを受け入れながら、行為においては、服従を拒んでいた。彼らは自己に信頼し、自己の善良さを誇ったか、神の戒めを無視した。彼らは、神が彼らにお命じになったわざを行おうとしなかった。主は彼らの罪のゆえに、この不従順な民を絶縁しようとしておられた。 COL 1293.3

自分自身を義とすることは真の義ではない。それにすがりつく者は、恐ろしい欺瞞におちいることになるだろう。今日、多くの者が、神の戒めに従っていると言いながら、その心の中には、他の人々に対して流れ出る神の愛を持っていない。キリストは、主ご自身と一体となって、世を救うみわざにたずさわるように彼らをお召しになる。しかし、彼らは、「おとうさん、参ります」と言うことだけで満足している。彼らは行かないのである。彼らは、神の働きをしている者と協力しない。彼らはなまけ者である。不忠実な息子のように、彼らは神に偽って約束をする。教会の厳粛な契約をすることによって、彼らは、神のみ言葉を受け入れ、それに従うこと、神のこ用に自己をささげることを誓った。しかし、彼らは、これを行わないのである。口では、神の子であると称するが、生活と品性においては、その関係を否定するのである。彼は意志を神に服従させていない。彼らの生活は偽りである。 COL 1293.4

彼らは、それが犠牲を必要としない場合には、服従の約束を守るように見える。しかし、克己や犠牲が要求されたり、十字架がかかげられるのを見ると、彼らはしりごみするのである。そして、義務についての確信は薄らぎ、神の戒めを知りつつ犯すことが習慣となる。耳は神のみ言葉を聞くことであろう。しかし、霊的知覚力はもはやない。心はかたくなになり、良心はまひしている。 COL 1293.5

キリストに対してはっきりした敵意をあらわしていないからといって、キリストに仕えていると思い違えてはならない。わたしたちは、このように考えて自分の心を欺くのである。時であれ、財産であれ、そのほかどんな神のおゆだねになった賜物であれ、神が神のご用に用いるようにわたしたちにお与えになった物を、自分のために用いることは神に敵することになるのである。 COL 1293.6

サタンは、自己の勢力を強め、魂を自分の側にかち取るために、クリスチャンと称する者の、ものうくねむたげで怠惰なところを用いるのである。自分はキリストのために実際の働きはしていないが、キリストの側にあると考えている多くの人は、敵に有利な立場を与 えているのである。主のための勤勉な働き人とならないことによって、あるいは義務を果たさず、み言葉を語らずにいることによって、彼らは、キリストのためにかち得られたはずの魂を、サタンが支配するままにさせているのである。 COL 1293.7

わたしたちは、怠慢や無為であって救われることはできない、真に改心した人が、無力な役に立たない生活を送ることはないのである。慢然と天国に流れつくというようなことは、あり得ない。なまけ者はそこに入ることはできない。もしわたしたちが、天国に入ろうと努力しないならば、またもしわたしたちが、天国の律法を構成しているものを熱心に学ぼうとしないならば、それにあずかるにふさわしくないのである。地上において神と協力しようとしない者は、天国においても神と協力しないであろう。彼らを天国に連れて行くことは安全ではないであろう。 COL 1294.1

神の言葉を知りながら、それに従おうとしない者よりも、取税人や罪人の方に望みがある。自分が罪人であることを知り、その罪をおおわず、神のみ前に、身も心も汚れていることに気づく者は、永遠に天国から切り離されるのではないかとおそれをいだくのである。その人は、病人である自分の状態を認め、「わたしに来る者を決して拒みはしない」と言われた偉大な医者のいやしを求める(ヨハネ6:37)。このような人々を主は、そのぶどう園の働き人としてお用いになることができる。 COL 1294.2

初め、父の命令に従わなかった息子を、キリストは非難もなさらなかったし、また賞賛もなさらなかった。この第一の息子のように服従しない人々は、そういう態度を取ったからといって、それは名誉なことではない。彼らの率直さは徳と見なされるべきではない。ただその率直さが、真理と神聖によって清められるならば、人々をキリストのための大胆な証し人とするであろう。しかし、罪人が、それを生来の状態のままで用いるならば、それは、侮べつ的であり、反抗的であり、ほとんど冒瀆と言ってよいものである。人が偽善者でないということは、その人の罪を軽くするものではない。聖霊が心に訴える時、即刻これに応じることが、わたしたちにとって一番安全である。「きょう、ぶどう園へ行って働いてくれ」という召しが来るとき、その招きを拒んではならない。「きょう、み声を聞いたなら、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」(ヘブル4:7)。服従を延ばすことは安全てはない。あなたは2度と招きを聞かないかも知れない。 COL 1294.3

また、一時罪を心にいだいても、あとで、容易にそれを捨てることができるなどとだれも考えてはならない。そうはいかないのである。心にいだくすべての罪は、性格を弱め、習慣を強める。肉体的、知的、道徳的随落がその結果となってあらわれる。人は犯した悪を悔い、正しい道を歩もうとすることであろうが、ひとたび、悪となれ親しんだことは、善と悪との識別を困難にする。形造られた悪習慣によって、サタンは幾度も幾度も攻撃してくるのである。 COL 1294.4

「きょう、ぶどう園へ行って働いてくれ」という命令によって、すべての人の誠実さが試みられる。言葉だけでなく行為が伴うであろうか。召された者は、その持つすべての知識を用い、忠実に、私心なく、ぶどう園の所有者のために働いているであろうか。 COL 1294.5

使徒ペテロは、わたしたちがどのように働くべきかについて、教えている。彼はこう言っていろ。「神とわたしたちの主イエスとを知ることによって、恵みと平安とが、あなたがたに豊かに加わるように。いのちと信心とにかかわるすべてのことは、主イエスの神聖な力によって、わたしたちに与えられている。それは、ご自身の栄光と徳とによって、わたしたちを召されたかたを知る知識によるのである。また、それらのものによって、尊く、大いなる約束がわたしたちに与えられている。それは、あなたがたが、世にある欲のために滅びることを免れ、神の性質にあずかる者となるためである。それだから、あなたがたは、力の限りをつくして、あなたがたの信仰に徳を加え、徳に知識を、知識に節制を、節制に忍耐を、忍耐に信心を、信心に兄弟愛を、兄弟愛に愛を加えなさい」(Ⅱペテロ1:2~7)。 COL 1294.6

もしあなたが、あなたの魂というぶどう園を忠実に耕すならば、神はあなたを、ご自身と共に働く者としておられるのである。あなたは、自分のためだけでな く、他の人々のためにも、なすべき働きがあるであろう。教会をぶどう園にたとえることによって、キリストは、わたしたちの同情と働きの対象を、教会内部の者にのみ限るようにお教えになったわけではない。主のぶどう園は広げなければならない。働きの場は全世界に広げられることを主は望んでおられる。わたしたちが神の教えと恵みを受ける時、尊い作物をいかに育てるべきかについての知識を、他の人々に分け与えなければならない。そうすることによって、わたしたちは主のぶどう園を拡張することができるのである。神は、わたしたちの信仰、愛、忍耐の証拠を見たいと待っておられる。神は、わたしたちが地上の神のぶどう園で有能な働き人となるために、あらゆる霊的便宜を活用しているかどうかを見ておられる。それは、アダムとエバが罪のために追放された神のパラダイス、エデンの住居にわたしたちが入れるようになるためである。 COL 1294.7

神は、神の民に対して父としての関係に立っておられる。そして、わたしたちに、父としての神に忠実に奉仕することを要求しておられる。ここでキリストの生涯を考えてみよう。キリストは、人類の頭として立つとともに、父なる神に奉仕なさった。こうして、すべての人の子らのとるべき道を示す模範となられた。神は、キリストのような服従を今日の人々に求めておられる。キリストは父なる神に、愛と喜びと自由をもってお仕えになった。「わが神よ、わたしはみこころを行うことを喜びます。あなたのおきてはわたしの心のうちにあります」と宣言された(詩篇40:8)、キリストは、なすべき働きを完成するためには、どんな犠牲も大き過ぎるとは考えず、どんな苦労もつら過ぎるとはお思いにならなかった。12才の時、彼は「わたしが自分の父の業をつとめている(詳訳聖書)ことを、ご存じなかったのですか」と自われた(ルカ2:49)。彼はすでに召しを聞き、働きに着手しておられたのであった。「わたしの食物というのは、わたしをつかわされたかたのみこころを行い、そのみわざをなし遂げることである」と、彼は言われた(ヨハネ4:34)。 COL 1295.1

このように、わたしたちも神に仕えるべきである。最高の標準に基づいて服従する者こそ仕えていると言えるのである。神の息子、娘となろうと思う者は、神、キリスト、天使たちと共に働く者であることを示さなければならない。これは、すべての人にとってのテストである。彼に忠実に仕える者について、主は、「彼らはわたしが手を下して事を行う日に、わたしの者となり、わたしの宝となる。また人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ」と言っておられる(マラキ3:17)。 COL 1295.2

み摂理のうちに神がお働きになるのは、人々を試式みて、人々に品性を発達させる機会を与えることである。それによって神は、彼らが神の命令に従うかどうかを試されるのである。善行によって神の愛を買い取ることはできないが、それはわたしたちが愛を持っていることをあらわすのである。もしわたしたちが、神に意志をささげるならば、わたしたちは、神の愛を得ようとして働くようなことはしないであろう。神の愛を、価なくして与えられる賜物として心に受け入れるならば、神に対する愛の心から、喜んで神の戒めに従うようになる。 COL 1295.3

今日、世界にはただ2種類の人々しかいない。さばきの時にもただ2種類の人々が認められるだけである。つまり、神の律法を犯す人々とそれに従う人々とである。キリストは、わたしたちが忠実であるか不忠実であるかをためす試金石を与えておられる。彼は言われた。「もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしのいましめを守るべきである。……わたしのいましめを心にいだいてこれを守る者は、わたしを愛する者である。わたしを愛する者は、わたしの父に愛されるであろう。わたしもその人を愛し、その人にわたし自身をあらわすであろう。……わたしを愛さない者はわたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉は、わたしの言葉ではなく、わたしをつかわされた父の言葉である。」「もしわたしのいましめを守るならば、あなたがたはわたしの愛のうちにおるのである。それはわたしがわたしの父のいましめを守ったので、その愛のうちにおるのと同じである」(ヨハネ14:15、21、24、15:10)。 COL 1295.4