キリストの実物教訓
第1章 イエスのたとえばなし
キリストのたとえの中には、キリストご自身がこの世界に対して持っておられた使命と、同じ原則を見ることができる。キリストは、わたしたちの性質をとって、わたしたちの間にお住みになった。それは、キリストが持っておられた神の性質と命とを、人間が知ることができるためであった。神性が、人性の中に啓示されたのである。目に見えない栄光が、人間の姿の中にあらわされた。人間は、未知のものを、すでに知っているものによって学ぶのである。天のものが、地上のものによって啓示された。神が、人間のかたちの中にあらわされた。キリストの教えにおいてもそのとおりであった。未知のことが、既知のことによって説明された。人々が一番よく知っている地上のことによって、神の真理が明らかにされた。 COL 1193.1
聖書にこう書いてある。「イエスはこれらのことをすべて、譬(たとえ)で群衆に語られた。……これは預言者によって言われたことが、成就するためである。『わたしは口を開いて譬を語り、世の初めから隠されていることを語り出そう』」(マタイ13:34、35)。自然のものが、霊的なものの媒介となった。自然界のものや、聴衆の人生経験が、み言葉の真理に結びつけられた。このように、キリストのたとえは、自然界から霊的な世界へと導き、人を神と1つにし、地を天と結合させる真理の鎖の環である。 COL 1193.2
キリストが自然のことを教えられた時、それは、ご自身の手が造って、ご自身が与えられた能力や機能について語っておられたのである。すべての造られたものは、初めの完全な状態にあった時、神の思想を表現していた。エデンの家庭にいたアダムとエバにとって、自然界は、神の知識に満ち、神の教訓にあふれたものであった。知恵は、彼らの目から入って、心に蓄えられた。彼らは、神の創造されたものによって、神と交わった。ところが、この清い夫婦が、至高者の律法をおかすや否や、神のみ顔の輝きが自然界の表面から去ってしまった。地球は、罪に損なわれてしまった。しかし、その破壊された状態にあっても、なお、美しいものが多く残っている。神の実物教訓は消し去られてはいない。正しく理解しさえすれば、自然は、その創造者について語るのである。 COL 1193.3
キリストのおられたころには、こうした教訓が見失われていた。人々は、神のみわざである自然を見ても、神を認めることはほとんどできなくなっていた。人類の罪深さは、美しい世界の表面に黒衣をかぶせた。そして自然は、神をあらわすのでなくて、かえって、神をかくす障害物となってしまった。人々は、「創造者の代りに被造物を拝」んだ。こうして、異邦人の「思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからである」(ローマ1:25、21)。同様に、イスラエルの国でも、神の教えの代わりに、人間の教えが人々に強いられた。自然の中のものだけではなく、神を啓示するために与えられた犠牲制度と聖書自身までが、非常にゆがめられて、神を隠す手段とまでなっていた。 COL 1193.4
キリストは、このようにして真理をおおい隠していたものを取り除こうとされた。キリストが来られたのは、罪が自然の上に投げかけた幕を開いて、万物が造られた時に反映することになっていた、霊的栄光をあらわすためであった。彼の言葉は、聖書の教えと同様に自然の教えをも、全く新しい姿のものとし、新しい啓示としたのである。 COL 1193.5
イエスは、美しい野の花をつんでは、子供や青年にお与えになった。彼らが、天父のみ顔の光をうけて、若々しく輝くイエスの顔をながめていると、イエスは次のように教訓をお与えになった。「野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。〔自然のままの単純な美しさで〕働きもせず、紡ぎもしない。しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の1つほどにも着飾ってはいなかった」。イエスは、さらに続けて、「きょうは生えて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ」と言われて、尊い確証と教訓をお与えになった。 COL 1193.6
山上の説教のこのような言葉は、子供と青年だけでなく、他の者に向かっても語られた。それは、さまざまな心配と苦労にみち、失望と悲しみに沈んだ人々のいる群衆に向かって語られた。 COL 1194.1
「だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである」とイエスは言われた。そして、彼は、まわりの群衆にむかって、両手をひろげて、「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう」とおおせになった(マタイ6:28~33)。 COL 1194.2
こうしてキリストは、ご自分が野の花や草に託された使命を解き明かされた。彼は、わたしたちが、どの草花にも、そうしたメッセージを読むことを望んでおられる。キリストの言葉は、確信に満ちていて、神に対する信頼を強めずにはおかない。 COL 1194.3
キリストの真理に関する観念は、実に広く、その教えも各方面にわたったものであったので、自然界のあらゆる方面のものが、真理の例として用いられた。毎日、人々の目に触れる光景が、霊的真理に結びつけられたために、自然は、主のたとえによって装いを新たにした。 COL 1194.4
キリストは伝道を開始されたころ、真理を平易にお語りになった。それは、すべての聴衆が真理を理解して、救いにいたる知恵を得るためであった。しかし、真理は、多くの人の心の中に根をおろすにはいたらず、すぐに、取り去られた。「だから、彼らには譬で語るのである。それは彼らが、見ても見ず、聞いても聞かずまた悟らないからである。……この民の心は鈍くなり、その耳は聞えにくく、その目は閉じている」とイエスは言われた(マタイ13:13~15)。 COL 1194.5
イエスは、人々が心の中に質問を起こすことを望まれた。彼は不注意な者の目をさまし、真理を示して、彼らの心に強い感銘を与えようとなさった。たとえを用いて教えることは、一般に行われていたことで、たとえによって語ることはユダヤ人ばかりでなくて、他国の人々の尊敬と注目をも引いた。キリストにとって、これ以上の効果的な方法は他になかった。もし聴衆が神に関することを知ろうと思えば、イエスの言葉を理解することができたはずであった。イエスは、真面目な質問をしてくる人には、いつも喜んで説明をなさったからである。 COL 1194.6
また、キリストが語ろうとされる真理に対して、人々の側では受けいれる準備もなければ、理解することさえできないことがあった。キリストがたとえを用いてお教えになったもう1つの理由は、これであった。また、その教えを人生の実際のできごとや経験や自然界と結びつけて、人々の注意を引き、深い感銘をお与えになった。キリストの教えの例としてあげられたものを、人々があとで見た時に、彼らは、天からの教師イエスの言葉を思い出した。こうして聖霊の働きに対して開かれている心には、救い主の教えの意味がますます明らかに示された。神秘的なことも明瞭になり、前には把握できなかったことも明白になった。 COL 1194.7
イエスは、すべての人の心に通じる道をおさがしになった。彼は、さまざまな例話をお用いになることによって、真理の種々な面のことを説明するばかりでなく、異なった聴衆に訴えられたのである。人々の日常生活の中から引かれた比喩に、人々は興味を持った。救い主の言葉に聞き入っていた人の中には、1人として、自分はかえりみられていないとか、忘れ去られているとか感じる者はなかった。どんなに卑しく、罪深い人であっても、同情と親切なひびきをもって語りかける主のみ声を、彼の教えの中に聞いたのである。 COL 1194.8
それから、イエスがたとえによってお教えになった理由が、ほかにもあった。彼の周りに集まった群衆の中には、祭司、ラビ、律法学者、長老、ヘロデ党の者、会堂の司、俗人、頑固者、または、野心家などがいて、なんとかして、イエスを訴える言いがかりを見つけようとしていた。彼らの手下どもは、毎日、イエスにつきまとって、民心を全く捕らえてしまったかと思われる主を罪に定めて、永久に沈黙させてしまう材料を手に入れようとしていた。救い主は、この人々の性 格をよく心得ておられて、彼らがサンヒドリンの議会に、イエスを告訴できるようなことは、何1つ言わないようにして、真理を説かれた。彼は、高い地位の人々の偽善と悪行をたとえによって責め、鋭く人の心を刺す真理を比喩的な言葉によって表現された。もしもイエスが直接人々に非難の言葉を言われたとするならば、彼らは耳を傾けるどころか、ただちに、イエスの伝道の働きを阻止したことであろう。 COL 1194.9
こうしてイエスは、スパイには、なんの手がかりも与えないでおきながら、真理を明らかにして、誤りをはっきり示されたので、真面目な人はイエスの教えによって啓発されるところが多かった。神の知恵と無限の恩恵とが、神の創造されたものによって明らかにされた。「神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである」(ローマ1:20)。 COL 1195.1
救い主のたとえ話には、真の「高等教育」がなんであるかが示されている。キリストは、科学のどんな深い真理でも、人に説明することがおできになった。人類が、幾世紀もの努力と研究を重ねて、到達できるような神秘の扉を、開くこともおできになった。また、世界の終わりにいたるまでの思想のかてとなり、発明の刺激となる科学的提言をすることも、主には可能であった。しかし、彼はそうはされなかった。人々の好奇心を満たし、または世俗的な偉大さへの希望をいだかせて、野心を満足させるようなことは、何も言われなかった。キリストは、何をお教えになっても、人間の心を、無限の神の心に接触させるようになさった。神と、神のみ言葉、または、神の働きに関して、人間が述べた理論を学ぶようには、少しも指導なさらなかった。彼は、神の創造の働きと神のみ言葉と、そして、神の摂理の中に示されている神をながめるよりにとお教えになった。 COL 1195.2
キリストは、抽象的理論はお扱いにならないで、品性の向上に必要なもの、神を知る能力を高め、善を行う力を増すものを扱われた。彼は、日常生活の行状とか、永遠に関する真理について語られたのである。 COL 1195.3
むかし、イスラエルの民の教育を指導したのは、キリストであった。神の戒めと定めとについて、主は、こう言われた。「努めてこれをあなたの子らに教え、あなたが家に座している時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、これについて語らなければならない。またあなたはこれをあなたの手にっけてしるしとし、あなたの目の間に置いて覚えとし、またあなたの家の入口の柱と、あなたの門とに書きしるさなければならない」(申命記6:7~9)。イエスは、この戒めをどうして守ることができるか、すなわち、神の国のおきてと原則の美しさと尊さを、どうすればあらわすことができるかを、その教えの中で示された。 COL 1195.4
主がイスラエルの民族をご自分の特別な代表者とするために訓練なさった時、住居として彼らにお与えになったのは、山地や谷間であった。彼らの家庭生活と宗教的行事とは、常に彼らを自然と神のみ言葉とに接触させた。そのように、キリストも弟子たちを湖畔や山腹、または原野や森林に導かれたので、弟子たちはお教えの中で引用される自然の事物を目の前に見ることができた。彼らは、こうしてキリストから学んだ知識を実際に活用して、主と協力して働いた。 COL 1195.5
わたしたちも、同様に、自然を通じて創造主を知らなければならない。自然という書物は、一大教科書であるから、神の品性について人に教えたり、いなくなった羊を神のおりに連れもどしたりするために、聖書とともに用いなければならないものである。神のみわざを研究すると、聖霊が人の心に確信を与える。この確信は、理論的推論から得られるものではない。しかし、神を知ることができないほどに心が暗くなり、神を見ることができないほどに目がくらみ、み声を聞くことができないほどに耳がにぶくなっていないかぎり、人は、その深い意味を理解し、み言葉の崇高な霊的真理に強い感銘を受けるのである。 COL 1195.6
このような自然からの直接の教訓を、何にもまして価値あるものとするのは、その単純さと純粋さである。自然からの教訓は、すべてのものに必要である。もともと、自然の美は、罪とそして、世の誘惑から人の心 を引き離して、純潔と平和と神へと向けさせるものである。とかく、学生の心は、いわゆる科学や哲学と名づけられている人間の学説や推論にとらわれる。学生は、親しく自然に接する必要がある。そして、自然の神も、キリスト教の神も、1つであることを学ばなければならない。自然界と霊界は一致していることを彼らに教えなければならない。彼らの目が見、手が触れるすべてのものを、品性建設の教訓としなければならない。こうして、彼らの知力は強められ、品性は啓発され、生活が全面的に高尚にされるのである。 COL 1195.7
キリストが、たとえ話を語られた目的は、安息日の目的と全く同じものであった。神のみ手のわざを見て、人間が神を認めるようになるために、神は、ご自分の創造の力を記念するものを、人間にお与えになった。 COL 1196.1
安息日は、自然の中に、創造主の栄光を見ることを、わたしたちにうながしている。そして、イエスが自然界の美とご自分の尊い教訓とを結合されたのも、そのことを願われたからである。わたしたちは、清い休みの日には、他のどんな日にもまさって、神が自然の中に書かれた使命を学ばなければならない。わたしたちも、救い主がたとえ話をお語りになった野原や森林、あるいは戸外の草花の中などで、たとえを研究しなければならない。自然のふところに近づけば近づくほど、キリストは、ご自分の臨在を明らかにわたしたちに示して、平和と愛の言葉をお語りになるのである。 COL 1196.2
キリストは、単に安息日ばかりでなく、普通の労働の日にも、教訓を結びつけられた。彼は、畑を耕し、種をまく人に、知恵をお与えになる。畑にあぜを作って種をまき、耕しては収穫を刈りとるということから、キリストの恵みがどのように人の心の中で働くかを学ぶように、主はお教えになる。こうして、どんな職業に従事し、どんな社会にいようとも、そこで神の真理を学ぶようにイエスは望まれる。そうする時、日常の雑事に心を奪われて、神を忘れることはない。 COL 1196.3
自然は常に、わたしたちの創造主であり、あがない主であるイエスを思い起こさせる。神の思いは、黄金の糸のように、わたしたちのすべての家庭の仕事や職業の中に一貫して見られるようになる。そして、わたしたちは、神のみ顔の栄光が、再び自然界の上に輝くのを見る。わたしたちは、天の真理を学び続けて、主の純潔なお姿へと成長し続けることであろう。こうして、わたしたちは、「主に教をうけ」る者となり、召されたそれぞれの場所で、「神のみまえにいる」ことであろう(イザヤ54:13、Ⅰコリント7:24)。 COL 1196.4