キリストの実物教訓

14/62

第6章 自然界に働く神の力

家庭でも、学校でも、この種まきと種の成長とから、尊い教訓を子供たちに教えることができる。青少年には、自然の中に神の力が働いていることを認めさせなければならない。そうすれば、彼らは、目では見ることができない祝福を、信仰によって受けることができる。神は驚くべきお働きによって、大きな家族の必要を満たしておられることを知り、それとともに、神と協力する方法がわかってくると、もっと神を信じることができるようになり、彼ら自身の日常生活の中に、もっと神の力を自覚するようになる。 COL 1215.4

神は、地球を造られたのと同様に、神の言葉によって、種を創造なさったのである。神は、み言葉によって種に成長する力と、繁茂する力をお与えになった。神は、言われた、「『地は青草と、種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ果樹とを地の上にはえさせよ。』そのようになった。……神は見て、良しとされた」(創世記1:11、12)。今でも、種を成長させているのは、この言葉である。太陽の光をめざして、種からもえ出る緑の葉は、1つ1つ主のみ言葉の奇跡的力を物語っている。「主が仰せられると、そのようになり、命じられると堅く立った。」 COL 1215.5

「わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください」と祈ることを、キリストは弟子たちにお教えになった。そして、野の草花を指さして、「野の草でさえ、神はこのように装って下さるなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか」と保証されたのである(マタイ6:11、30)。キリストは、この祈りに答えるため、また、この保証を果たすために、絶えず働いておられるのである。人間に衣服や食物を与えるために、目に見えない力が、人間のために常に活動を続けている。一見、捨て去られたように思われる種を生きた植物にするために、主は、いろいろな 方法をお用いになる。そして、豊かな収穫をもたらすために必要なものを、適当にお与えになる。詩篇の記者は、美しく次のようにそのことを歌っている。 COL 1215.6

「あなたは地に臨んで、これに水をそそぎ、 COL 1216.1

これを大いに豊かにされる。 COL 1216.2

神の川は水で満ちている。 COL 1216.3

あなたはそのように備えして COL 1216.4

彼らに穀物を与えられる。 COL 1216.5

あなたはその田みぞを豊かにうるおし、 COL 1216.6

そのうねを整え、夕立をもってそれを柔らかにし、 COL 1216.7

そのもえ出るものを祝福し、 COL 1216.8

またその恵みをもって年の冠とされる。 COL 1216.9

あなたの道にはあぶらがしたたる。」 COL 1216.10

(詩篇65:9~11) COL 1216.11

物質の世界は、神の支配のもとにある。自然界は、自然の法則に従っている。万物は、創造主のみこころを語り、また行っている。雲、日光、露、雨、風、嵐などはみな、神の支配のもとにあって、神の命令には絶対に従う。「初めに芽、つぎに穂、つぎに穂の中に豊かな実」と麦が成長していくのは、それが神の法則に従っているからである(マルコ4:28)。穀物の苗は、神の働きに逆らわない。であるから、季節がめぐってくるにつれて成長するのである。それなのに、神のかたちに造られ、理性と言語が与えられた人間だけが、神の賜物に対する感謝もあらわさず、みこころにも従わないということがあってよかろうか。理知をもった人間だけが、世界に災いをおよぼしてよいであろうか。 COL 1216.12

人間の命を支えることに貢献することは、みな神と人間とが力を合わせることによって得られる。種をまく人間の手のわざがなければ、収穫はあり得ない。一方、日光、雨、露、雲などによる神の力が働かないなら、作物は実らない。これは、どんな事業や、どんな研究でも、また、どんな分野でも同様である。さらに、霊的な事柄、品性の形成、クリスチャン活動の各部門においても同じことが言える。そこには、わたしたちのなすべき仕事があるとともに、それに神の力が結びつかなければならない。そうでないと、わたしたちの努力は、全く無に帰してしまうのである。 COL 1216.13

霊的事柄であろうと、物質的事柄であろうと、人間がなにかをなしとげるためには、創造主との協力が必要なことを忘れてはならない。わたしたちは、神の支えによって生きていることを、どうしても自覚しなければならない。わたしたちはあまりにも人間に信頼し、人間の作り出したものに頼りすぎる。神が喜んで与えようとしておられる神の力に、わたしたちはほとんど信頼していない。「わたしたちは神の同労者である」(Ⅰコリント3:9)。人間が分担することは、ごくわずかな部分である。しかし、キリストの神性と結ばれることにより、キリストの力が与えられて、すべてのことをすることができるのである。 COL 1216.14

種が次第に穀物に成長していくことは、子供の教育のよい実物教訓である。「初めに芽、つぎに穂、つぎに穂の中に豊かな実」がみのる。このたとえを語られたイエスが、小さい種をつくり、それに活力を与え、その成長の法則をお定めになった。しかも、たとえが教える真理は、イエスご自身の生活の中に生きた現実となってあらわれていた。彼は、肉体においても、霊性においても、植物が示している成長の法則に従っておられた。そして、世のすべての青年たちも、その通りに従うことを望んでおられる。キリストは、天の主権者であり、栄光の王であられたにもかかわらず、ベツレヘムの赤子となり、しばらくの間、母の腕の中のか弱い幼児となられた。成長しては、従順な子として家業に従事し、大人の知恵ではなく、子供にふさわしい知恵をもって語り、行動された。また、親を敬い、親のいいつけを守ってよく手助けをし、子供の能力に応じたことをなさった。しかし、キリストは、その成長のどの段階においても完全で、罪のない人として、単純な、かざり気のない美徳をもっておられたのである。聖書には、彼の少年時代のことが次のように記録されている。「幼な子は、ますます成長して強くなり、知恵に満ち、そして神の恵みがその上に あった」。イエスの青年時代については、「イエスはますます知恵が加わり、背たけも伸び、そして神と人から愛された」と書いてある(ルカ2:40、52)。 COL 1216.15

ここに、親と教師がどんな働きをすべきかが教えられている。彼らは、青年たちの性質をよく育てて、それぞれの成長の段階で、あたかも、花園の花が自然に開くように、その時期にふさわしい、自然の美を発揮するように導かなければならない。 COL 1217.1

自然のままのかざり気のない子供たちが、一番人を引き付ける。子供たちを特別あつかいにしたり、子供の言った小ざかしい言葉を彼らの面前で、また言ったりするのは、賢明ではない。彼らの容貌や言葉や行動をほめそやして、虚栄心をあおってはならない。また、高価な衣服を着せたり、はでな服装をさせてはならない。こういうことは、子供の心に高慢な気持ちを起こさせ、友だちの心にはしっと心を起こさせる。 COL 1217.2

子供は、子供らしく無邪気に教育すべきである。彼らは、簡単な家事の手伝いや、その年令にふさわしい楽しみや経験で満足するように、訓練しなければならない。子供時代はたとえの芽に相当する。芽には芽独特の美しさがある。無理に彼らを大人びたませたものにすることはない。子供時代のはつらつさと美しさをできるだけ長く保たせたいものである。 COL 1217.3

小さい子供たちでも、その年令に相当した宗教経験をもって、クリスチャンになることができる。神が子供たちに期待しておられるのは、それだけである。彼らに霊的なことを教えなければならない。子供たちが、キリストの品性にならって品性を築くことができるように、親は、あらゆる機会を活用しなければならない。 COL 1217.4

自然界の神の法則によれば、原因があれば、必ず結果が生じるということである。収穫によって、何がまかれたかがわかる。なまけ者は自分のした仕事にせめられる。収穫が、彼のなまけたことの証拠となる。霊的なことでも同じである。その働きの結果をみて、すべての働き人の忠実さがはかられる。どんな仕事をしたか、勤勉であったかなまけたかは、収穫を見ればわかる。永遠の運命も同じようにして、決定されるのである。 COL 1217.5

どの種でも、まいた種の実を刈り取る。人生においても同じである。わたしたちは、すべて、憐れみ、同情、愛などの種をまかなければならない。なぜなら、まいたものの実を刈り取るからである。また、利己主義、利己心、自尊などの性質やわがままな行動には、すべて、それ相当の収穫がある。利己的な生活をして、肉の種をまく者は、その結果として滅びを刈り取るのである。 COL 1217.6

神は、人を滅ぼすようなかたではない。滅びにおちいる者は、自分で自分を滅ぼすのである。良心の警告をかえりみない者は、不信の種をまいて、必ず、その収穫を刈り取るのである。むかし、パロは、神の最初の警告をしりぞけて、強情の種をまいたために、強情の収穫を刈り取った。これは、何も神が彼を無理に信じられない者になさったのではなかった。パロのまいた不信の種がそれ相当の実を結んだのである。こうして、彼の抵抗は続き、ついに、エジプトの国は全く荒れ果て、パロの長子と、エジプト全国民の長子がことごとく冷たいしかばねとなり、パロの全軍が馬と戦車もろともに、海底に沈んでしまうことになったのである。「人は自分のまいたものを、刈り取ることになる」というみ言葉がいかに真実であるかを、パロの生涯は、恐ろしいばかりに示したのである(ガラテヤ6:7)。人々が、このことを自覚しさえすれば、どんなに種をまくことに注意することであろう。 COL 1217.7

まかれた種が収穫をもたらし、それがまたまかれて、収穫はさらに増し加わっていく。わたしたちと他人との関係においても、この法則があてはまる。どの行為、どの言葉も実を結ぶ種である。情け深い心からの親切、服従、自己犠牲などの行為は、他の人々の心の中に再び生え出て、それが彼らによって、また、他の人々の心の中にまかれるのである。同様に、ねたみ、悪意、争いなどは、「苦い根」となって生え、多くの人を汚すのである(ヘブル12:15)。そして、この「多くの人」は、どれだけ多数の人々を毒することであろう。こうして、善と悪の種まきは、現世ならびに永遠 にわたって続くのである。 COL 1217.8

霊的なことであろうが、物質界のことであろうが、物惜しみせずに施すことが、このたとえの中で教えられている。「すべての水のほとりに種を」まく者は、幸福であると主は言われる(イザヤ32:20)。「わたしの考えはこうである。少ししかまかない者は、少ししか刈り取らず、豊かにまく者は、豊かに刈り取ることになる」(Ⅱコリント9:6)。すべての水のほとりにまくことは、神の賜物を絶えず人々に分かつことを意味する。それは、神の働きであろうが、人類の必要であろうが、援助が必要な所に分かち与えることなのである。ところが、与えたからといって、自分が貧しくなることはない。 COL 1218.1

「豊かにまく者は、豊かに刈り取ることになる」からである。種をまく者は、種をまいて増やす。神の賜物を忠実に人々に分かつ者も同様である。彼らは分かつことによって、自分たちの祝福を増し加えるのである。神は、彼らが、人々に与えることができるように、十分なものを約束しておられる。「与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう。人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたのふところに入れてくれるであろう」(ルカ6:38)。 COL 1218.2

種まきと収穫には、これよりもっと多くのことが含まれている。わたしたちが神から与えられた物質的祝福を人々に分け与えると、人々は、わたしたちの心の中に愛と同情があふれているのを見て、神に賛美と感謝の念をいだくのである。こうして、心の畑は、霊的真理の種を受け入れる用意ができる。種をまく者に種をお与えになる神は、種を芽生えさせ、永遠の命に至る実を結ばせてくださるのである。 COL 1218.3

種まきの話によってキリストは、ご自分をわたしたちの贖罪のために犠牲になさることを示された。「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる」と言われた(ヨハネ12:24)。このように、キリストの死は、神の国のために実を結ぶことになる。命は、植物界の法則と同じように、イエスの死の結果として与えられるものである。 COL 1218.4

キリストとともに働く者として、実を結ぶことを願う者は、すべてまず地に落ちて死ななければならない。世界の必要という畑のうねの中に、自分の命をまかなければならない。利己心と自己中心主義を殺さなければならない。しかし、この自己犠牲の法則は自己保存の法則でもある。地に埋もれた種は、実を結び、それがまたまかれる。こうして、収穫は増えていく。農夫は、まくことによって、穀物を保存するのである。そのように、人生においても、与えることは、生きることである。保存される命とは、神と人との奉仕のために、おしげもなくささげられる命である。この世においてキリストのために、その命を犠牲にした者は、それを保って、永遠の命に至るのである。 COL 1218.5

種は、新しい生命にもえ出るために死ぬのである。ここに復活のことが教えられている。神を愛する者は、みな、天のエデンにおいて再び生きるのである。墓の中に横たえられ、朽ちてゆく者について、神は言われるのである。「朽ちるものでまかれ、朽ちないものによみがえり、卑しいものでまかれ、栄光あるものによみがえり、弱いものでまかれ、強いものによみがえる」と(Ⅰコリント15:42、43)。 COL 1218.6

以上は、種をまく者と種という自然の生きたたとえから学ぶ、数多い教えの2、3にすぎない。親や教師がこのことを教える場合、その教訓を実際的なものにしなければならない。子供たちに土を耕させ、種をまかせなさい。そして、子供たちに仕事をさせながら、親や教師たちは、心もまた畑であることを説明することができる。そこにはよい種や悪い種をまくことができ、畑と同じように、真理の種をまくために耕さなければならないことを説明することができる。種をまく時には、キリストの死について教え、芽が出た時には、復活の真理について教えることができる。植物が成長するにつれて、自然と霊の種まきとを比較し ながら教訓を続けて教えることができる。 COL 1218.7

青年にも、同じようにして教えなければならない。彼らに土を耕すことを教えなければならない。どの学校にも耕作の土地があるとよい。こうした土地は、神ご自身の教室であると思わなければならない。また、自然界は、神の子供たちが研究すべき教科書とみなさなければならない。そして、そこから得た知識を心のかてとすることができるのである。 COL 1219.1

土地を耕し、地ならしをすることによって、常によい教訓を学ぶことができる。新しい開拓地に移って行って、すぐに収穫を得ようと期待する人はいない。土地を切り開いて種をまくまでにするには、熱心に励んで忍耐深く努力しなければならない。人の心の中の霊的働きもこれと同じである。土地を耕して恵みを受けようとすれば、心の中に神の言葉をもって出て行かなければならない。そうすれば、心の畑が聖霊のなごやかな感化によってしずめられて、砕かれることであろう。土地のために熱心に努力しなければ収穫は得られない。心の畑も同じである。神の霊の働きによって、清めと訓練を受けてこそ、はじめて神の栄光のために実を結ぶことができるのである。 COL 1219.2

時たま思い出したように耕したくらいでは、土地は地の物を生じるものではない。注意深く、毎日世話をしなければならない。度々、土地を深く耕して、雑草に作物の栄養を奪われないようにしなければならない。まく者も耕す者も、収穫の準備をする。そうすれば、だれ1人畑に出て、不作を嘆く必要はない。 COL 1219.3

このようにして、土地を耕して、自然からの霊的教訓を学ぶ者には、主からの祝福が与えられる。土地を耕す時に、どんな宝がでてくるかは、人にはわからない。経験の豊かな人から得られる教えや、知者から受ける知識を軽んじてはならないのであるが、自分自身で教訓を集めることが必要である。土地を耕すことは、魂の教育となるのである。 COL 1219.4

種を発芽させて、昼も夜もこれを見守り、成長する力をお与えになるのは、わたしたちの創造主、天の王である。神は、今なお、神の子供たちに深い関心を寄せて守っておられるのである。地上の種をまく者が、わたしたちの現世の命を支えるために種をまいている時、天の種をまく者、キリストは、永遠の命に至る実を結ぶ種を魂の中にまかれるのである。 COL 1219.5