キリストの実物教訓
金銭
神は、また人々に財産をおゆだねになる。神は、富を得る力を人々にお与えになる。神は、天からの露と降りそそぐ雨によって地をうるおされる。また太陽を照らして、植物をはえさせ、繁茂させ、実を結ばせておられる。そして、神は、神のものを神に返すように人々にお求めになる。 COL 1324.1
金銭はわたしたちが、自分に栄えを帰するために与えられたものではない。わたしたちは、忠実な管理者として、神に栄光を帰するために、金銭を用いなければならない。自分たちの財産の一部分だけが、神のものであると、思っている人がある。宗教的、慈善的目的のために一部分をささげれば、あとは、自分のもので自由に使用してもよいと、彼らは考える。しかし、これは間違いである。わたしたちの所有するものはみな神のものであって、その用途について、責任を負わなければならない。1銭の金を使うにも、神を第一に愛し、自分のように隣人を愛しているかどうかがあらわれるものである。 COL 1324.2
金銭は、大いなる善をすることができるから、大きな価値がある。それが神の子供たちの手にあれば、貧しい人の食事、かわいた人の水、裸の人の着物となり、圧迫されている人々の防御となり、病人を助ける手段にもなる。金銭は、困っている人々を助け、他を祝福し、キリストの働きを前進させるために用いてこそ、価値があるのであって、もしそうでないならば、金銭は砂と同様でなんの価値もないのである。 COL 1324.3
死蔵された富は、価値がないばかりでなくて、のろいである。それは、天の宝から人の心を遠ざけてしまうこの世のわなである。神の大いなる日に、用いられなかったタラントや無視された機会は、その所有者を責めることであろう。聖書には、次のようにしるされている。「富んでいる人たちよ。よく聞きなさい。あなたがたは、自分の身に降りかかろうとしているわざわいを思って、泣き叫ぶがよい。あなたがたの富は巧ち果て、着物はむしばまれ、金銭はさびている。そして、そのさびの毒は、あなたがたの罪を責め、あなたがたの肉を火のように食いつくすであろう。あなたがたは、終りの時にいるのに、なお宝をたくわえている。見よ、あなたがたが労働者たちに畑の刈入れをさせながら、支払わずにいる賃銀が、叫んでいる。そして、刈入れをした人たちの叫び声が、すでに万軍の主の耳に達している」(ヤコブ5:1~4)。 COL 1324.4
しかし、キリストは、金銭を浪費し、不注意に用いることがよいとは言っておられない。「少しでもむだにならないように、パンくずのあまりを集めなさい」という主の節約に関する教訓は、すべての弟子に対して与えられたものである(ヨハネ6:12)。金銭が神から与えられたタラントであることを認める者は、だれでも、それを節約して用い、他に与えるために、蓄えておくことを義務と感じることであろう。 COL 1324.5
外見や放縦な生活のために、金銭を浪費すればするほど、飢えた者に食べさせ、裸の者に着せる分が少なくなる。不必要なことに金銭を費やす度に、善を行う尊い機会が失われていく。それは、そのゆだねられたタラントを活用して、神に帰すべきほまれと栄光とを、神から奪い去ることである。 COL 1324.6