各時代の希望

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各時代の希望

第1章 「神われらと共にいます」a

「その名はインマヌエルと呼ばれるであろう。神われらと共にいますという意味である」(マタイ1:23)。「神の栄光を知る知識」は「イエス・キリストの顔」にみられる(Ⅱコリント4:6)。永遠の昔から、主イエス・キリストは天父と一つであられた。キリストは、「神のみかたち」、神の偉大さと尊厳のみかたち、「神の栄光のかがやき」であられた。キリストがこの世にこられたのは、この栄光をあらわすためであった。神の愛の光をあらわすために、すなわち「われらと共にいます」神となるために、キリストは、罪のために暗くなったこの地上においでになった。だから、「その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」とイエスについて預言された。 DA 675.1

イエスは、われわれのうちに住むためにおいでになることによって、人類にも天使にも神を示されるのであった。イエスは神のみことば——きこえるようにされた神の思想であった。キリストは、弟子たちのための祈りの中に、「わたしは彼らにみ名を知らせました。……それは、あなたがわたしを愛して下さったその愛が彼らのうちにあり、またわたしも彼らのうちにおるためであります」と言っておられる(ヨハネ17:26)。そのみ名は、「あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみとまこと」を意味している(出エジプト34:6)。だがこの啓示は、この地上に生まれた子らにだけ与えられたのではなかった。われわれの小さな世界は、宇宙の教科書である。神のすばらしい恵みの目的、すなわちあがないの愛の奥義は、「御使いたちも、うかがい見たいと願っている」テーマであって、それは永遠にわたって彼らの研究となるであろう(Ⅰペテロ1:12)。あがなわれた者も、堕落しなかった者も、キリストの十字架に彼らの科学と彼らの歌を見いだすであろう。イエスのみ顔にかがやいている栄光は自己犠牲の愛の栄光であることがわかるであろう。 DA 675.2

カルバリーの光に照らしてみて、おのれを捨てる愛の法則が天と地の生命の法則であること、「自分の利益を求め」ない愛はそのみなもとが神の心にあること、柔和で心のへりくだったお方のうちに、だれも近づくことのできない光のうちに住んでおられる神のご品性があらわれていることなどがわかるであろう(Ⅰコリント13:5)。 DA 675.3

この世の初めに、神はすべての創造のみわざのうちにご自分をあらわされた。天をのべ、地の基をおかれたのはキリストであった。もろもろの世界を空間にかけ、野の花をよそおわれたのはキリストのみ手であった。神は「そのみ力によって、もろもろの山を堅く立たせられる」「海は主のもの、主はこれを作られた」(詩篇65:6、95:5)。地を美しさでみたし、空中を歌でみたされたのはキリストであった。地と空中と空のすべてのものの上に、キリストは天父の愛のことばをお書きになった。 DA 675.4

いまは罪のために神の完全なみわざが傷つけられているが、それでも神の筆跡は残っている。いまでもすべての被造物は、神の完全さについて栄光を告げている。人間の利己心よりほかには、自分だけのために生きているものは何もない。空中を飛ぶ鳥も、地上を動きまわる動物も、すべて何かほかの生命のために奉仕している。どんな森の木の葉もどんな小さな草の葉も、それぞれ奉仕している。どの木もどの植木もどの葉も、人間や動物が生存するのになくてはならない生命の要素を出している。そしてこんどは人間と動物が、木や植木や葉の生命に奉仕するのである。花はかおりを放ち、その美しさをあらわして世の人々の祝福となる。太陽は光を放ってもろもろの世界をよろこぼせる。海はすべての泉のみなもとであるとともにまたすべての土地の水の流れを受け入れるが、それは与えるために受けるのである。海面から立ちのぼる霧は、地から芽が出るように、土地をうるおすために雨となってくだる。 DA 675.5

栄光の天使たちは、与えること——堕落してきよくない魂に愛としんぼうつよい見守りを与えることによろこびを感ずる。天使たちは人々の心に愛をささや く。彼らはこの暗い世に天の宮廷から光を持って来る。 DA 675.6

やさしく忍耐強い奉仕によって、彼らは失われた魂を、彼ら自身が知ることができるよりももっと密接なキリストとの交わりに入らせるために、人の心に働きかける。 DA 676.1

しかしこのような比較的小さな描写は別として、われわれは、イエスのうちに神を見るのである。イエスを見るとき、われわれは、与えることがわれらの神の栄光であることがわかる。「わたしは自分からは何もせず」、「生ける父がわたしをつかわされ、また、わたしが父によって生きている」。「わたしは自分の栄光を求めてはいない」。「自分をつかわされた方の栄光を求める」とキリストは言われた(ヨハネ8:28、6:57、8:50、7:18)。これらのことばの中に、宇宙の生命の法則である大原則が示されている。すべてのものをキリストは神からお受けになったが、彼は与えるためにお受けになったのである。天の宮廷ですべての被造物のために奉仕しておられる時もそうである。愛するみ子を通して、天父の生命はすべてのものに向かって流れ出る。み子を通して、それは賛美と喜びの奉仕のうちに、愛の潮流となって、すべてのものの根源である神へもどって行く。このようにキリストを通して愛の循環が完成され、それは偉大な賦与者であられる神のご品性——生命の法則を象徴している。 DA 676.2

この法則が実に天において破られたのである。罪は利己心から起った。蔽(おお)うことをなす天使ルシファーが天の第1位を望んだ。彼は天使たちを支配し、彼らを創造主からひき離して、自分に忠誠を誓わせようと試みた。そこで彼は神について悪宣伝し、神にはいばりたいという野心があるのだと言った。彼は自分自身の邪悪な特徴を愛の神におしつけようとした。こうして彼は、天使たちをあざむいた。こうして彼は人類をだました。サタンは彼らに神のみことばを疑わせ、神の恵みを信じさせないようにした。神は正義と恐るべき威光の神であられるので、サタンは、神がゆるすことのないきびしい神であると彼らに考えさせた。こうして彼は人々をひっぱって神への反逆に加わらせ、わざわいの夜がこの世にやってきた。 DA 676.3

神を曲解したために、この地上は暗くなった。暗黒の影を照し、世の人々を神に呼びもどすためには、サタンの欺瞞(ぎまん)的な力をうち破らねばならなかった。このことは、暴力によってなすことはできないのであった。暴力の行使は神の統治の原則に反する。神は愛の奉仕だけを望まれる。愛を命令することはできない。暴力や権威によって愛を手に入れることはできない。愛は愛によってのみ目覚めさせられる。神を知れば神を愛するようになる。神のご品性がサタンの品性と対照的に示されねばならない。この働きは全宇宙でただ1人のお方だけができた。神の愛の高さと深さとを知っておられるお方だけが、その愛を知らせることがおできになった。世の暗い夜に、義の太陽キリストが「翼には、いやす力をそなえて」昇られねばならない(マラキ4:2)。 DA 676.4

われわれをあがなう計画は、あとで考え出されたもの、すなわちアダムの堕落後に定められた計画ではなかった。それは、「長き世々にわたって、かくされていた奥義」のあらわれであった(ローマ16:25)。それは永遠の昔から神の統治の根本となってきた原則のあらわれであった。初めから、神とキリストは、サタンの背信と、この反逆者の欺瞞的な力によって人類が堕落することとを知っておられた。神は罪が存在するように定められたのではなく、その存在を予見し、その恐るべき危機に応ずる備えをされたのであった。世に対する神の愛はまことに大きかったので、神は、「み子を信じるものがひとりも滅びないで、氷遠の命を得る」ために、そのひとり子を与えることを約束された(ヨハネ3:16)。 DA 676.5

ルシファーは、「わたしは天にのぼり、わたしの王座を高く神の星の上におき……いと高き者のようになろう」と言った(イザヤ14:13、14)。しかし「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえっておのれをむなしうして、しもべのかたちをとり、人間の姿になられた」 (ピリピ2:6、7)。 DA 676.6

これは自発的な犠牲であった。イエスは天父のそばにとどまることもおできになった。イエスは天の栄光を保ち、天使からあがめられていることもおできになった。だがイエスは、暗黒のうちにある者に光を与え、滅びる者にいのちを与えるために、王権を天父のみ手にかえし、宇宙の王座からおりることを望まれた。 DA 677.1

およそ2000年前に、「見よ、わたしはまいりました」という神秘的な意味のことばが、天で神のみ座から出るのがきかれた。「あなたは、いけにえやささげ物を望まれないで、わたしのために、からだを備えてくださった。……『神よ、わたしにつき、巻物の書物に書いてあるとおり、見よ、み旨を行うためにまいりました』」(ヘブル10:5~7)。このことばのうちに、永遠の昔からかくされていたみこころの成就が告げられている。キリストは人の肉体をとってこの地上においでになろうとしていた。彼は、「わたしのために、からだを備えてくださった」と言われる(ヘブル10:5)。もしキリストが世のある前から天父とともに持っておられた栄光のままおいでになったら、われわれはその臨在の光に耐えることができなかった。われわれがその栄光を見て滅びることがないように、キリストの栄光のあらわれはおおわれた。キリストの神性は人性によっておおわれ、目に見えない栄光が目に見える人間の姿によっておおわれた。 DA 677.2

この大いなるみこころは型と象徴とをとおして予表されていた。キリストがご自分をモーセにあらわされた時の燃えるしばは神をあらわした。神をあらわすためにえらばれた象徴は、見たところ何の美しさもないつまらないやぶだった。ここに無限の神が宿られた。憐れみに富まれる神は、モーセが見ても生きられるように、その栄光をごくつまらない象徴の中におおいかくされた。そのように神は、昼は雲の柱、夜は火の柱の中にあって、イスラエル人と語り、彼らにご自分のみこころを明らかにし、恵みをお与えになった。有限な人間の弱い目で見ることができるように、神の栄光がやわらげられ、その威光がおおわれた。このように、キリストは「わたしたちのいやしいからだ」、「人間の姿に」なってこの世においでになるのであった(ピリピ3:21、2:7)。キリストは、世の人の目からみれば、慕うべき美しさをもっておられなかった。しかしキリストは、人の肉体をとられた神、天と地の光であった。キリストが、悲嘆にくれ、誘惑されている人間に近づくことができるように、その栄光はおおわれ、その偉大さと威光はかくされた。 DA 677.3

神は、イスラエル人について、「彼らにわたしのために聖所を造らせなさい。わたしが彼らのうちに住むためである」とモーセに命じられた(出エジプト25:8)。そして神は聖所の中に、すなわちご自分の民のまん中にお住みになった。イスラエル人が疲れはてて荒野をさまよい歩いていた間じゅう、神の臨在の象徴は彼らとともにあった。そのように、キリストはわれわれ人間の陣営のまん中にご自分の幕屋をお建てになった。キリストはわれわれのうちに住み、ご自分のきよい品性と生活とをわれわれにあらわすために、人間の天幕のそばにご自分の天幕を張られた。「ことばは肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた」(ヨハネ1:14)。 DA 677.4

イエスがわれわれとともに住むためにおいでになったので、われわれは、神がわれわれの試練をよく知り、われわれの悲しみに同情してくださるということがわかる。アダムのむすこ娘はみな創造主が罪人の友であることをさとることができる。なぜなら、救い主の地上生活にあらわされた恵みの教理の一つ一つに、喜びの約束の一つ一つに、愛の行為の一つ一つに、きよい美しさの一つ一つに、われわれは神がわれらとともにいますことをみとめるからである。 DA 677.5

サタンは神の愛の律法を利己主義の律法であると言う。彼はわれわれがその戒めに従うことは不可能だと宣言する。人類の始祖アダムとエバが堕落してあらゆるわざわいが生じたことを、彼は創造主の責任にし、人々に神が罪と苦難と死の張本人であるかのように考えさせる。イエスはこの欺瞞をばくろされるのであった。イエスはわれわれ人間の1人として 服従の模範を示されるのであった。このためにイエスはみずから人間の性質をとり、われわれと同じ経験をされた。「イエスは……あらゆる点において兄弟たちと同じようにならねばならなかった」(ヘブル2:17)。もしわれわれが、イエスの耐えられなかったことを耐えねばならないとしたら、サタンは、この点で、神の力はわれわれにとって十分ではないと言うだろう。そこでイエスは、「すべてのことについて、わたしたちと同じように試練に会われたのである」(ヘブル4:15)。 DA 677.6

イエスはわれわれの会うあらゆる試みに耐えられた。しかも彼はわれわれに自由に与えられていない力をご自分のためにお用いにならなかった。人間としてイエスは試みに会い、神から与えられた力で勝利された。「わが神よ、わたしはみこころを行うことを喜びます。あなたのおきてはわたしの心のうちにあります」と、主は言われる(詩篇40:8)。イエスが、よい働きをし、サタンに苦しめられているすべての者をいやしながらお歩きになったとき、彼は神の律法の性格と神への奉仕の本質とを人々に明らかにされた。イエスの一生は、われわれもまた神の律法に従うことができることを証明している。 DA 678.1

キリストはご自分の人性によって人類に接し、ご自分の神性によって神のみ座をとらえておられた。人の子としてイエスは服従の模範をわれわれに示された。神のみ子としてイエスは服従する力をわれわれに与えてくださる。ホレブ山のやぶの中から「わたしは、有って有る者。……イスラエルの人々にこう言いなさい、『「わたしは有る」というかたが、わたしをあなたがたのところへつかわされました。』」とモーセに語られたのはキリストであった(出エジプト3:14)。これはイスラエルの救済についての保証であった。だからキリストは、「しもべのかたち」をとっておいでになったとき、ご自分を「わたしは有るという者」として宣言された。ベツレヘムの子、柔和で心のへりくだった救い主は、「肉において現れ」た神であった。(Ⅰテモテ3:16)。イエスはまたわれわれにこう言われる、「わたしはよい羊飼いである」「わたしは生きたパンである」「わたしは道であり真理であり、命である」「わたしは天においても地においてもいっさいの権威を授けられた」(ヨハネ10:11、6:51、14:6、マタイ28:18)。わたしはすべての約束の保証である。わたしは実在する、恐れることはない。「神われらと共にいます」ということばは、われわれが罪から救われることについての保証であり、われわれが天の律法に従う力についての保証である。 DA 678.2

身をひくくして人性をとることによって、キリストはサタンの品性と反対の品性をあらわされた。しかし主は屈辱の道をもっと低いところへくだられた。「おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に当るまで従順であられた」(ピリピ2:8)。大祭司が豪華な祭司服をぬいで、一般の祭司と同じ白い麻の衣を着て式をとり行うように、キリストはしもべのかたちをとり、みずから祭司となり、またみずからいけにえとなって、いけにえをささげられた。「彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずからこらしめをうけて、われわれに平安を与え」られた(イザヤ53:5)。 DA 678.3

当然キリストが受けられるべきとり扱いをわれわれが受けられるように、キリストはわれわれが当然受けるべきとり扱いを受けられた。われわれのものではなかったキリストの義によってわれわれが義とさねるように、キリストはご自分のものではなかったわれわれの罪の宣告を受けられた。キリストのものであるいのちをわれわれが受けられるように、キリストはわれわれのものである死を受けられた。「その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ」(イザヤ53:5)。 DA 678.4

キリストは、ご自分の生涯と死によって、罪のために生じた破滅から回復するよりももっと大きなことをなしとげられた。神と人とを永遠にひき離すことがサタンの目的であった。しかしキリストのうちにあるときに、われわれは堕落しなかった場合よりももっと密接に神につながるようになるのである。救い主は、われわれの性質をおとりになることによって、決してたちきれることのないきずなでご自分を人類にむすびつけら れた。永遠にわたって、キリストはわれわれとつながっておられる。「神はそのひとり子を賜わったほどにこの世を愛してくださった」(ヨハネ3:16)。われわれの罪を負い、われわれのいけにえとして死ぬために、神はみ子をお与えになっただけではない。神はみ子を堕落した人類にお与えになったのである。神は不変の平和のはからいを保証するために、ご自分のひとり子を与えて人類家族の1人とならせ、永遠に人間の性質をみ子のうちに保たせられた。 DA 678.5

これこそ神がご自分のみことばを成就される保証である。「ひとりのみどり子がわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり」(イザヤ9:6)。神はみ子自身のうちに人間の性質をとり入れ、これを一番高い天にまで持ちつづけさせられた。神とともに宇宙のみ座を占めておられるのは「人の子」である。その名を「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられるのは「人の子」である(イザヤ9:6)。「有って有る者」は神と人類の間にあって、両方に手を置いておられる仲保者である。「聖にして、悪もけがれもなく、罪人とは区別され」るお方は、われわれを「兄弟と呼ぶことを恥じ」たまわない(ヘブル7:26、2:11)。キリストのうちに、天の家族と地の家族が一つに結ばれている。栄光をお受けになったキリストは、われわれの兄弟である。天は人間のうちに宿り、人間は限りない愛の神の胸にいだかれている。 DA 679.1

神はご自分の民について、「彼らは冠の玉のように、その地に輝く。そのさいわい、そのうるわしさはいかばかりであろう」と言われる(ゼカリヤ9:16、17)。あがなわれた者が高められることは、神のいつくしみについて永遠のあかしとなる。神は、「キリスト・イエスにあってわたしたちに賜わった慈愛による神の恵みの絶大な富を、きたるべき世々に示」される。「天上にあるもろもろの支配や権威が、教会を通して、神の多種多様な知恵を知るに至るためであって、わたしたちの主キリスト・イエスにあって実現された神の永遠の目的にそうものである」(エペソ2:7、3:10、11)。 DA 679.2

キリストのあがないの働きによって神の統治の正しいことが証明される。全能者は愛の神として知らされる。サタンの非難は反ばくされ、その性格がばくろされる。反逆はふたたび起ることができない。罪は2度とこの宇宙にはいることができない。永遠にわたって、だれも背信の心配がない。愛の自己犠牲によって、天と地の住民は決してきれることのないきずなで創造主に結びつけられる。 DA 679.3

あがないの働きは完成される。罪の充満していたところに神の恵みがもっと充満する。サタンが自分の働き場所として主張していたこの地上そのものも、ただあがなわれるばかりでなく、また高められるのである。罪ののろいのために神の輝かしい創造における一つの汚点となっていたわれわれのこの小さな世界が、神の宇宙のどんな他世界にもまさってあがめられる。神のみ子が人のかたちをとり、栄光の王が生活し、苦難を受け、死なれたこの地上——ここに神が万物を新たにされる時、「神の幕屋が人とともにあり、神が人とともに住み、人は神の民となり、神みずから人とともにいま」すのである(黙示録2:3)。そして永遠にわたって、あがなわれた者は、神の光の中を歩むとき、言いあらわしようのない神の賜物であられるインマヌエル——神われらと共にいます——について神を賛美するのである。 DA 679.4