患難から栄光へ

10/39

第一章   人類救済への神の計画

教会は人類救済のために神がお定めになった機関である。教会は奉仕するために組織された。その使命は世界に福音を伝えることである。教会を通して神の満ちあふれる豊かさを世界に反映させることが、神のはじめからのご計画であった。暗やみから驚くべき光に招き入れられた教会員たちは、神の栄光をあらわさなければならない。教会はキリストの恵みに富んだ宝庫であり、教会を通して神の愛がついには「天上にあるもろもろの支配や権威」に対してさえも十分明らかに示されるのである(エペソ三ノ一〇)。 AAJ 1.1

教会に関して多くのすばらしい約束が聖書に記されている。「わが家はすべての民の祈の家ととなえられるからである」(イザヤ書五六ノ七)。「わたしは彼らおよびわが山の周囲の所々を祝福し、季節にしたがって雨を降らす。これは祝福の雨となる。」「わたしは彼らのために、良い栽培所を与える。彼ら は重ねて、国のききんに滅びることなく、重ねて諸国民のはずかしめを受けることはない。彼らはその2神、主なるわたしが彼らと共におり、彼らイスラエルの家が、わが民であることを悟ると、主なる神は言われる。あなたがたはわが羊、わが牧場の羊である。わたしはあなたがたの神であると、主なる神は言われる」(エゼキエル書三四ノ二六、二九-三一)。 AAJ 1.2

「主は言われる、『あなたがたはわが証人、わたしが選んだわがしもべである。それゆえ、あなたがたは知って、わたしを信じ、わたしが主であることを悟ることができる。わたしより前に造られた神はなく、わたしより後にもない。ただわたしのみ主である。わたしのほかに救う者はいない。わたしはさきに告げ、かつ救い、かつ聞かせた。あなたがたのうちには、ほかの神はなかった。あなたがたはわが証人である』」。「主なるわたしは正義をもってあなたを召した。わたしはあなたの手をとり、あなたを守った。わたしはあなたを民の契約とし、もろもろの国びとの光として与え、盲人の目を開き、囚人を地下の獄屋から出し、暗きに座する者を獄屋から出させる」(イザヤ書四三ノ一〇-一二、四二ノ六、七)。 AAJ 2.1

「わたしは恵みの時に、あなたに答え、救の日にあなたを助けた。わたしはあなたを守り、あなたを与えて民の契約とし、国を興し、荒れすたれた地を嗣業として継がせる。わたしは捕えられた人に『出よ』と言い、暗きにおる者に「あらわれよ」と言う。彼らは道すがら食べることができ、すべての裸の山にも牧草を得る。彼らは飢えることがなく、かわくこともない。また熱い風も、太陽も彼らを撃つことはない。彼らをあわれむ者が彼らを導き、泉のほとりに彼らを導かれるからだ。わたしは、わがもろ もろの山を道とし、わが大路を高くする」。 AAJ 2.2

「天よ、歌え、地よ、喜べ。もろもろの山よ、声を放って歌え。主はその民を慰め、その苦しむ者をあわれまれるからだ。しかしシオンは言った、『主はわたしを捨て、主はわたしを忘れられた』と。『女がその乳のみ子を忘れて、その腹の子を、あわれまないようなことがあろうか。たとい彼らが忘れるようなことがあっても、わたしは、あなたを忘れることはない。見よ、わたしは、たなごころにあなたを彫り刻んだ。あなたの石がきは常にわが前にある』」(イザヤ書四九ノ八-一一、一三-一六)。 AAJ 3.1

教会は神が反逆した世に持っておられる神のとりでであり、神ののがれの町である。教会への裏切り行為は、ひとり子の血によって人類をあがなってくださった神に対する反逆である。世のはじめから忠実な人々がこの地上に教会を構成してきた。いつの時代にも主は見張りびとをお持ちになっていた。彼らは、彼らが生きた世代に忠実なあかしを立ててきたのである。これらの見張りびとたちは警告の使命を伝えた。そして、彼らが自分のよろいをぬぐように命じられたとき、他の人々がその仕事を受け継いだ。神はこうしたあかしびとを神との契約関係に置かれて、地上の教会を天の教会と結ばれたのである。神はご自分の教会に仕えさせるために、天使たちをおつかわしになった。そして、黄泉よみの力は神の民に打ち勝つことができなかった。 AAJ 3.2

幾世紀にもわたる迫害、闘争、暗黒の中にあって、神は教会を支えてこられた。神は教会に落ちかかってくるどんな暗雲に対しても備えをし、みわざを妨害するために起こるどんな反対勢力も予見された。 すべての事は神の予告通りに起こった。神は教会を見捨てておかれず、起こるべきことを預言のことばで明らかにされた。そして預言者がみたまに感じて預言した事は、成就した。神のすべての目的は達成される。神の律法はみ座につながっていて、どんな悪の力も、それを滅ぼすことはできない。真理は神の霊感を受け、神に守られている。それはすべての反対に勝利する。 AAJ 3.3

霊的暗黒の時代に神の教会は、山の上にある町のようなものであった。各時代にわたり、各世代を通じて天の高潔な教えは教会の中で明らかになってきた。教会はどんなに弱く欠陥だらけのように見えても、神が特別な意味で最高の関心を払われる対象である。教会は神の恵みの舞台であり、そこで神は人人の心を変える力をあらわすことを、およろこびになるのである。 AAJ 4.1

「神の国を何に比べようか。また、どんなたとえで言いあらわそうか」とキリストは言われた(マルコ四ノ三〇)。キリストはこの世の国を用いて神の国をあらわすことはできなかった。神の国に匹敵するものを、社会の中に見つけることはできなかった。地上の王国は、優勢な権力によって治めるが、キリストの国では、武器や抑圧の道具がことごとく消し去られている。神の国は人間を高め、高貴にする。神の教会はさまざまの賜物に満ち、聖霊を受けてきよい生涯を送るものの宮廷である。教会員たちは、自分たちが助け祝福するものの幸福の中に、自分たちの幸福を見つけるのである。 AAJ 4.2

神のみ名があがめられるようにと、教会を通して完成するように主が計画された、おどろくべきみわざがある。このみわざは、エゼキエルが見たいやしの川の幻の中に描かれている。「この水は東の境に 流れて行き、アラバに落ち下り、その水が、よどんだ海にはいると、それは清くなる。おおよそこの川の流れる所では、もろもろの動く生き物が皆生き、・・・・川のかたわら、その岸のこなたかなたに、食物となる各種の木が育つ。その葉は枯れず、その実は絶えず、月ごとに新しい実がなる。これはその水が聖所から流れ出るからである。その実は食用に供せられ、その葉は薬となる」(エゼキエル書四七ノ八-一二)。 AAJ 4.3

世の初めから神はこの世界に祝福を与えるために、神の民を通して働いてこられた。古代エジプトの国に対して、神はヨセフをいのちの泉となさった。ヨセフの誠実さが、エジプトのすべての民の命を守った。神はダニエルを通してバビロンのすべての知者の命を救われた。これらの救いは、実物教訓としてある。それは、ヨセフやダニエルが礼拝していた神とのつながりを通して、世に与えられる霊的祝福を例証するものである。キリストを心にやどしている者、キリストの愛をこの世に示す者はみな、人類の祝福のために神と共に働く者である。他の人々に分け与えるために救い主から恵みを受けるとき、霊的いのちのうしおが彼の全身からあふれ出るのである。 AAJ 5.1

神はご自身の品性を人々に現すために、イスラエルの民をお選びになった。神はその民がこの世の救いの井戸となるようにお望みになった。彼らには天来のことば、神のみこころの啓示がゆだねられた。イスラエルの初期の時代に、この世の国々は堕落した習慣によって、神についての知識を失った。彼らは、以前に神を知っていた。しかし、「神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしく なり、その無知な心は暗くなった」のである(ローマ一ノ二一)。それでも神は、あわれみから彼らの存在を抹殺されなかった。神は選ばれた人々を通して彼らが再び神を知るようになる機会を与えようとなさった。犠牲の儀式に関するさまざまの教えによって、キリストはすべての国家の前にあがめられなければならなかった。そして、キリストをあがめる人々はみな生きるはずであった。キリストはユダヤの諸制度の基礎であった。型や象徴の全体系は、福音がぎっしりと詰まった預言であり、救済のさまざまな約束を包含して人々に示していた。 AAJ 5.2

しかし、イスラエルの人々は神の代表者としての尊い特権を見失っていた。彼らは神を忘れ、聖なる使命を果たさなかった。彼らが受けた祝福は世の祝福とならなかった。彼らは、自分たちが持つすべての有利な状態を、自己を高めるために用いた。彼らは誘惑を免れるために、世から自分たちをしめ出した。偶像崇拝者との交わりの中で異教徒の習慣に従わないための予防手段として神がお定めになった制限を、彼らは自分たちと他のすべての国々とを隔てる壁を築くために用いた。彼らは神が彼らに要求された奉仕をささげようとせず、人々を信仰に導くことも、聖なる模範を示すこともしなかった。 AAJ 6.1

祭司や役人たちは、儀式尊重主義の型にはまっていった。彼らは律法的宗教に満足していて、他の人人に天の生きた真理を与えることができなくなっていた。彼らは自分の義を十分満足のいくものだと思い、自分たちの宗教に新しい要素がはいることを願わなかった。人間に対する神の好意を、彼らは自分たちに関係づけて受けとり、彼らの善行を理由にして神の好意と、自分たちの功績を結びつけた。愛に よって働き、魂をきよめる信仰は、儀式と人間の命令から成り立つパリサイ人の宗教と、一致する場所を見いだすことはできなかった。 AAJ 6.2

神はイスラエルについてこう言われた、「わたしはあなたを、まったく良い種のすぐれたぶどうの木として植えたのに、どうしてあなたは変って、悪い野ぶどうの木となったのか」(エレミヤ書二ノ二一)。「イスラエルは実を結ぶ茂ったぶどうの木である」(ホセア書一〇ノ一)。「それで、エルサレムに住む者とユダの人々よ、どうか、わたしとぶどう畑との間をさばけ。わたしが、ぶどう畑になした事のほかに、何かなすべきことがあるか。わたしは良いぶどうの結ぶのを待ち望んだのに、どうして野ぶどうを結んだのか。 AAJ 7.1

それで、わたしが、ぶどう畑になそうとすることを、あなたがたに告げる。わたしはそのまがきを取り去って、食い荒されるにまかせ、そのかきをとりこわして、踏み荒されるにまかせる。わたしはこれを荒して、刈り込むことも、耕すこともせず、おどろと、いばらとを生えさせ、また雲に命じて、その上に雨を降らさない。万軍の主のぶどう畑はイスラエルの家であり、主が喜んでそこに植えられた物は、ユダの人々である。主はこれに公平を望まれたのに、見よ、流血。正義を望まれたのに、見よ、叫び」(イザヤ書五ノ三-七)。「あなたがたは弱った者を強くせず、病んでいる者をいやさず、傷ついた者をつつまず、迷い出た者を引き返らせず、うせた者を尋ねず、彼らを手荒く、きびしく治めている」(エゼキエル書三四ノ四)。 AAJ 7.2

ユダヤの指導者たちは、教えを必要としないほど賢く、救いを必要としないほど正しく、キリストから来る名誉を必要としないほど高くあがめられていると思っていた。救い主は、彼らが誤用していた特権と、彼らが軽視していた仕事を他の人々にゆだねるために、彼らに背を向けられた。神の栄光が現わされ、神のみことばは確立されなければならない。キリストの国はこの世界に建設されなければならない。神の救いは、荒野にある町々に知らされなければならない。こうして弟子たちは、ユダヤの指導者がなしとげることのできなかった仕事をなしとげるために召されたのである。 AAJ 8.1