患難から栄光へ
第一一章 へだての壁を越えて
本章は使徒行伝八章に基づく AAJ 107.1
ステパノの死後、エルサレムにいる信者たちに対して残忍な迫害が起こり、「使徒以外の者はことごとく、ユダヤとサマリヤとの地方に散らされて行った。」サウロは「家々に押し入って、男や女を引きずり出し、次々に獄に渡して、教会を荒し回った。」のちに彼は、この無慈悲な行為に熱狂的であったことを、「わたし自身も、以前には、ナザレ人イエスの名に逆らって反対の行動をすべきだと、思っていました。そしてわたしは、それをエルサレムで敢行し、・・・・多くの聖徒たちを獄に閉じ込め、・・・・それから、いたるところの会堂で、しばしば彼らを罰して、無理やりに神をけがす言葉を言わせようとし、彼らに対してひどく荒れ狂い、ついに外国の町々にまで、迫害の手をのばすに至りました」と語った。死の苦しみを受けた者がステパノだけでなかったことは、「彼らが殺される時には、それに賛成の意を表しました」という、サウロ自身の言葉からわかる(使徒行伝二六ノ九-一一)。 AAJ 107.2
この危機のときに、ニコデモは恐れず進み出て、十字架にかけられた救い主に対する信仰を明らかにした。ニコデモはサンヒドリンの議員であったが、他の人々と共にイエスの教えに感動していた。キリストのすばらしいみわざを目撃したとき彼は、このかたこそ神からつかわされたかたであるという確信を固めていたのである。彼は誇りのために、このガリラヤの大教師に共鳴していることを公に認めることができず、ひそかに主に会いに行っていた。この会見のとき、イエスはニコデモに救いの計画や、この世に対するご自身の使命を打ち明けられた。しかし、ニコデモはなおも躊躇ちゅうちょしていた。彼は真理を心にかくしていて、三年間は成果を見ることがなかった。しかしニコデモは、公に認めていなかったあいだも、サンヒドリンの協議会において、主を殺そうとしている祭司たちの陰謀には繰り返し反対していた。ついにキリストが十字架上にあげられたとき、ニコデモは、夜オリブ山に主をたずねたときに主が「ちょうどモーセが荒野でへびを上げたように、人の子もまた上げられなければならない」と彼に語られたみことばを思い出して、イエスの中にこの世のあがない主を見たのである(ヨハネ三ノ一四)。 AAJ 108.1
ニコデモは、アリマタヤのヨセフと共に、イエスの埋葬の費用を分担した。弟子たちは自分たちがキリストの弟子であると公に示すことを恐れていたが、ニコデモとヨセフは勇敢に援助の手を差しのべた。これらの金持ちで尊敬されている人々の助けは、その暗黒の時にはことさら必要であった。彼らはなくなられた主のために、貧しい弟子たちができなかったことをすることができた。彼らの富と感化力が、祭司や役人たちの敵意から大いに彼らを守ったのである。 AAJ 108.2
いまやユダヤ人たちが生まれたばかりの教会を破壊しようとしていたとぎ、ニコデモはそれを防ぐために進み出た。もはや警戒も疑問もなく、ニコデモは弟子たちの信仰を励まし、エルサレムの教会を支え、福音事業を進めるために、自分の富を用いた。以前に彼を尊敬していた人々は、いまは彼を嘲弄し、迫害した。そして彼はこの世の富には貧しくなったが、信仰を守ることにはひるまなかった。 AAJ 109.1
エルサレムの教会をおそった迫害は、福音の働きに強い刺激を与える結果になった。エルサレムでのみことばの宣教は成功していたので、弟子たちには、全世界に出て行けとの救い主のご命令をなおざりにして、いつまでもそこにとどまる危険があった。悪に抵抗する力は、活動的な奉仕によって最も多く得られるということを忘れて、彼らは敵の攻撃からエルサレムの教会をかばうほど重要な仕事はないと思いはじめていた。彼らは新しく改心した人たちに福音を宣べさせる教育をするどころか、既になし遂げられた事に、みんなで満足しているだけで終わってしまうような危険に陥っていた。神はご自分の代表者たちを広く散らして、その行く先々で他人のために働くことができるように、彼らの上に迫害の手がのびるままにしておかれた。信者たちはエルサレムを追われて、「御言を宣べ伝えながら、めぐり歩いた。」 AAJ 109.2
救い主が「それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民・・・・に教えよ」と、任命された人々の中には、主を愛することを学んでいた人々や、主の無我の奉仕の模範に従う決心をしていた人々など、より謙遜な生活をしている者が大ぜいいた(マタイ二八ノ一九)。これらの謙遜な人々には、救い主がこ の世で公生涯を過ごされたころ共にいた弟子たちと同様に、尊い責任が与えられていた。彼らはキリストによる救いのよろこばしいおとずれを、世に宣べ伝えなければならなかった。 AAJ 109.3
彼らは迫害のために散らされた時、宣教の熱意に燃えて出て行った。彼らは自分たちに負わされた使命の責任を感じた。また、飢えている世の人々に与えるいのちのパンをもっていることを自覚していたので、キリストの愛に迫られて、このパンを求めているすべての者に分け与えた。主は彼らを通して働かれた。彼らが行く先々で、病人はいやされ、貧しい者に福音が宣べ伝えられた。 AAJ 110.1
七人の執事のひとりピリポも、エルサレムから追われた者の中にはいっていた。ピリポは「サマリヤの町に下って行き、人々にキリストを宣べはじめた。群衆はピリポの話を聞き、その行っていたしるしを見て、こぞって彼の語ることに耳を傾けた。汚れた霊につかれた多くの人々からは、その霊が・・・・出て行くし、また、多くの中風をわずらっている者や、足のきかない者がいやされたからである。それで、この町では人々が、大変なよろこびかたであった。」 AAJ 110.2
ヤコブの井戸のほとりで、キリストがサマリヤの女にお語りになった使命はすでに実を結んでいた。女は主のみことばを聞くと、町の人々のところへ行って「わたしのしたことを何もかも、言いあてた人がいます。さあ、見にきてごらんなさい。もしかしたら、この人がキリストかも知れません」と言った。人々は彼女について行き、イエスのみことばを聞いて、主を信じた。彼らはもっと聞きたいと願い、主に滞在していただきたいと願った。主は彼らと共に二日間過ごされて、「なお多くの人々が、イエスの 言葉を聞いて信じた」(ヨハネ四ノ二九、四一)。 AAJ 110.3
エルサレムから追われた弟子たちの中には、サマリヤに安全な避難所を見いだした者もいた。これらの福音の使者たちをサマリヤ人はよろこんで迎え、ユダヤの改宗者たちは、かつては大敵であった人々の中から尊い収穫を集めた。 AAJ 112.1
サマリヤにおけるピリポの働きは非常な成功をおさめ、これに励まされた彼はエルサレムに援助を求めた。使徒たちは「エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」と言われたキリストのみことばの意味が、いまこそ十分にわかるようになった(使徒行伝一ノ八)。 AAJ 112.2
ピリポがまだサマリヤにいた時、「南方に行き、エルサレムからガザへ下る道に出なさい」と天の使いに命じられた。「そこで、彼は立って出かけた。」彼は神のみ旨に応じる教訓を学んでいたから、その召しを疑ったり、従うのを躊躇ちゅうちょしたりしなかった。 AAJ 112.3
「すると、ちょうど、エチオピヤ人の女王カンダケの高官で、女王の財宝全部を管理していた宦官であるエチオピヤ人が、礼拝のためエルサレムに上り、その帰途についていたところであった。彼は自分の馬車に乗って、預言者イザヤの書を読んでいた。」このエチオピヤ人は名声の高い、有力な人であった。神は、彼が改心したら、自分の受けた光を人に分かち、福音のために大きな感化を及ぼすことをごぞんじであった。神の天使たちが、光を求めるこの求道者に付き添っていたので、彼は救い主へ引きよ せられていった。聖霊の働きにより、神はこのエチオピヤ人を、光へ導くことのできる人と接するよう導かれた。 AAJ 112.4
ピリポはエチオピヤ人のところに行って、彼が読んでいる預言を説明してやるように命じられた。「進み寄って、あの馬車に並んで行きなさい」とみ霊たまが言った。ピリポは宦官に近づいて「『あなたは、読んでいることが、おわかりですか』と尋ねた。彼は『だれかが、手びきをしてくれなければ、どうしてわかりましょう』と答えた。そして、馬車に乗って一緒にすわるようにと、ピリポにすすめた。」彼が読んでいた聖書の箇所は、キリストに関するイザヤの預言であった。「彼は、ほふり場に引かれて行く羊のように、また、黙々として、毛を刈る者の前に立つ小羊のように、口を開かない。彼は、いやしめられて、そのさばきも行われなかった。だれが、彼の子孫のことを語ることができようか、彼の命が地上から取り去られているからには。」 AAJ 113.1
「お尋ねしますが、ここで預言者はだれのことを言っているのですか。自分のことですか、それとも、だれかほかの人のことですか」と宦官が尋ねた。そこでピリポは救いの偉大なる真理を彼に示し、同じ聖句から説き起こして、「イエスのことを宣べ伝えた」。 AAJ 113.2
聖書の説明が進むにつれて、宦官の心にますます興味がわいてきて、ピリポが話し終わったときには、宦官は与えられた真理を受けいれる気持ちになっていた。彼は自分の社会的な高い地位を理由に、福音を拒むようなことはしなかった。「道を進んで行くうちに、水のある所にきたので、宦官が言った、 「ここに水があります。わたしがバプテスマを受けるのに、なんのさしつかえがありますか』。これに対して、ピリポは、『あなたがまごころから信じるなら、受けてさしつかえはありません』と言った。すると、彼は『わたしは、イエス・キリストを神の子と信じます』と答えた。そこで車をとめさせ、ピリポと宦官と、ふたりとも、水の中に降りて行き、ピリポが宦官にバプテスマを授けた。 AAJ 113.3
ふたりが水から上がると、主の霊がピリポをさらって行ったので、宦官はもう彼を見ることができなかった。宦官はよろこびながら旅をつづけた。その後、ピリポはアゾトに姿をあらわして、町々をめぐり歩き、いたるところで福音を宣べ伝えて、ついにカイザリヤに着いた。」 AAJ 114.1
このエチオピヤ人は、ピリポのような伝道者たち、すなわち神のみ声を聞いて、神からつかわされるところに行く人たちから、教えを受ける必要のある部類の人々を代表している。聖書を読んでも、その真の意味がわからないでいる者が多い。世界中の男女は何かを求めて天を仰いでいる。光と恵みと聖霊を求める魂から、祈りと涙とねぎごとが天にのぼっていく。多くのものは、み国の人口に立って、刈り集められるのを待つばかりになっているのである。 AAJ 114.2
光を求め、福音を受け入れる準備のできた人のところに、ひとりの天使がピリポを導いた。今日も天使たちは、聖霊に舌をきよめていただき、心を純化し高めていただく働き人の歩みを導くのである。ピリポに送られた天使は、自分自身でエチオピヤ人に働きかけることもできたが、それは神の働かれる方法ではない。神は人が同胞のために働くように計画しておられる。 AAJ 114.3
最初の弟子たちに与えられた責務は、どの時代の信徒にも分担されてきた。福音を受けた者はみな、世に伝える尊い真理をさずけられた。神の忠実な民は常に、彼らの財源を神のみ名をあがめるために用い、彼らの才能を神への奉仕に賢く用いた積極的な伝道者であった。 AAJ 115.1
過去におけるクリスチャンの無我の働きは、われわれにとって実物教訓となり、励ましとならなければならない。神の教会の会員はよきわざに熱心で、世俗的な野心を離れ、善をなして巡られたキリストのみ足跡を歩まなければならない。また、同情とあわれみに満ちた心をもって、助けの必要な人々のために働き、罪びとに救い主の愛を教えなければならない。そうした働きには骨の折れる努力がいるが、その報いは大きい。まじめな決心をしてこのわざに携わる者は、救い主に魂が導かれるのを見ることができる。神の任命を実践するときに伴う感化力は、人を信服させずにはおかないからである。 AAJ 115.2
出て行ってこの任命を果たす責任は、按手礼あんしゅれいを受けた牧師にだけ負わされているのではない。キリストを受け入れた者はみな、同胞を救う仕事に召されているのである。「御霊も花嫁も共に言った、『きたりませ』。また、聞く者も『きたりませ』と言いなさい」(黙示黙二二ノ一七)。この招待をせよとの命令は、すべての教会に出されたものである。この招待を聞く者はみな「きたりませ」と言って、この招きを丘から谷へこだまさせなければならない。 AAJ 115.3
救霊の働きが牧師にのみかかっていると考えるのは、重大な誤りである。ぶどう園の主から魂への重荷をゆだねられ、へりくだって献身した信徒には、いっそう大きな責任を神からさずかっている人々か らの、励ましがなければならない。神の教会における指導者として立つ人々は、救い主の任命が、み名を信じるすべての者に与えられていることを知らなければならない。神はまだ按手により牧師職に聖別されていない多くの人々を、ぶどう園に送りこまれるであろう。 AAJ 115.4
すでに救いのおとずれを聞いた幾百、いや、幾千もの人々は、活動的な奉仕に携わることができるはずなのに今もなお、市場で何もせずぶらぶらしている。そのような人々にキリストは「なぜ、何もしないで、一日中ここに立っていたのか」と言われ、更に「あなたがたも、ぶどう園に行きなさい」と言っておられる(マタイ二〇ノ六、七)。この招きになぜもっと多くの人々が応じないのか。彼らは聖職に立たないのだから、義務を免じられているとでも思っているのだろうか。幾千もの献身した信徒たちのしなければならない大きな仕事が、聖職以外にあることを彼らは知らなければならない。 AAJ 116.1
奉仕の精神が教会全体にゆきわたって、教会員が残らず各々の才能に応じて主のために働くのを、神は長いあいだ待っておられる。福音事業の任命を完成するために、神の教会の会員が、光の必要な自国や外国の伝道地で、それぞれ定められた働きをするならば、まもなく全世界に警告がゆきわたり、主イエスは力と大いなる栄光をもってこの世にもどってこられるのである。「この御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである」(マタイ二四ノ一四)。 AAJ 116.2