患難から栄光へ

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第四章   聖なる霊下る

本章は使徒行伝二章一節-三九節に基づく AAJ 29.1

弟子たちがオリブ山からエルサレムにもどってきたとき、人々は彼らが悲しみ、取り乱し、挫折感に打ちのめされて帰ってくるだろうと思いながら彼らを迎えた。しかし人々はそこによろこびと勝利を見た。弟子たちは希望が失望に終わったことをなげいてはいなかった。彼らはよみがえられた救い主を見てきたのである。そして別れのとき主が約束されたことばが、彼らの耳の中に絶えず響きわたっていた。 AAJ 29.2

弟子たちはキリストのご命令に従って、エルサレムで天父のお約束の聖霊の降下を待った。彼らは何もせずぼんやりと待っていたのではない。記録によると、「絶えず宮にいて、神をほめたたえていた」としるされている(ルカ二四ノ五三)。彼らはまた、イエスの名によってみ父に願いを申し出ようと集まっていた。天には彼らの代表者であられるおかた、神のみ座でとりなしをされるおかたがおられるのだということを知っていた。彼らは厳粛な畏敬の念に打たれ、「あなたがたが父に求めるものはなんで も、わたしの名によって下さるであろう。今までは、あなたがたはわたしの名によって求めたことはなかった。求めなさい、そうすれば、与えられるであろう。そして、あなたがたの喜びが満ちあふれるであろう」という確証をくり返しながら、こうべをたれて祈った(ヨハネ一六ノ二三、二四)。「キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである」という、ゆるぎない論証をもち、彼らは信仰の手をますます高く差しのべた(ローマ八ノ三四)。 AAJ 29.3

弟子たちは約束が成就されるのを待っていたあいだ、謙遜な心でほんとうに悔い改め、また自分たちの不信心を告白した。彼らは、キリストがなくなられる前にお語りになったことばを思い出しながら、それらの意味を一層深く理解した。既に記憶から消えてしまっていた真理が再び心によみがえってきて、彼らはこれを互いにくり返し合った。そして、救い主について誤解していたことを思い、自責の念にかられた。主のすばらしいご生涯の場面が行列のように一つ一つ彼らの前を通り過ぎた。主の純粋できよらかなご生涯を瞑想めいそうしながら、もし、キリストの美しいご品性をあかしする生活をすることができさえすれば、どんな仕事でもむずかしすぎることはなく、どんな犠牲でも大きすぎることはないと思った。もし、過去の三年間をもう一度やりなおすことができるとすれば、弟子たちはどんなにか違った行動をとることだろう。もし、主に再び会うことができさえすれば、どんなにか熱心に、自分たちが主を深く愛していたかを示そうと懸命に努めることであろう。また、不信の言葉や行動で主を嘆かせたことに、 どんなにか真心からのおわびを申しあげることであろう。しかし、彼らは、自分たちはゆるされていると考えたとき慰められた。そして、主に対する信仰をできるかぎり勇敢に世の人々の前で告白し、自分たちの不信心の償いをしようと決心した。 AAJ 30.1

弟子たちは人々と接するのにふさわしくなるように、また、日常の交わりの中で罪人をキリストに導くような言葉を語るのにふさわしくなるように、とりわけ熱心に祈った。意見の不一致や優位を望む心をすべて捨て、クリスチャンの交わりの中で互いに親密になった。彼らは神に近づくにしたがい、ますます、キリストとの密接な交わりを許されたことに、すばらしい特権があるということを悟った。理解力がにぶいために、主が彼らに教えようとされた教訓を悟ることができずに、主を何度も悲しませたことを思い出して、彼らの心も悲しみでいっぱいになった。 AAJ 31.1

こうした準備の日々は、深く心をさぐる日々であった。弟子たちは霊的な不足を感じ、救霊の働きをするのにふさわしい者となることができるように、聖油が注がれることを祈り求めた。彼らは自分たちのために祝福を求めたのではない。彼らは魂の救いという重荷を負っていた。弟子たちは、福音が世に宣べ伝えられなければならないことを悟って、キリストが約束された力を求めたのである。 AAJ 31.2

父祖の時代には聖霊の感化はしばしば著しく現されたが、決して満ちあふれるほどではなかった。今、救い主のみ言葉に従って、弟子たちはこの賜物を懇願し、天においてはキリストがそのとりなしをしておられた。主はその民にみたまを注ぐことができるように、みたまの賜物をお求めになったのである。 AAJ 31.3

「五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった」。 AAJ 32.1

み霊は、祈りながら待っていた弟子たちに臨み、ひとりびとりの心を十分に満たされた。無限なる神が、力をもって教会にご自身を現されたのである。この力の現れはもう何年ものあいだ、差しとどめられていたかのようであったが、今こそ、天は、みたまの恵みの富を教会に注ぐことができることをよろこんだ。そして、み霊の感化のもとに、悔い改めや告白のことばが、罪をゆるされたさんびの歌と交替した。感謝の声があがり、預言のことばがきこえた。全天は崇敬の思いでこの比類のない、無限の愛に輝く知恵を見守り、あがめた。使徒たちはわれを忘れて「ここに愛がある」と叫んだ。彼らは与えられた賜物をしっかりと握りしめた。それから何が起こったであろうか。み霊の剣は、新たに力でとぎすまされ、天来の電光に輝いて、不信仰な者へと突き進み、一日に幾千もの人々が改心した。 AAJ 32.2

「わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのだ。わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はこないであろう。もし行けば、それをあなたがたにつかわそう」とキリストは弟子たちに言っておられた。「真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう」(ヨハネ一六ノ七、一三)。 AAJ 32.3

キリストの昇天は、主に従う者たちが約束の祝福を受けることのしるしであった。彼らは、仕事にと AAJ 32.4

りかかる前にこれを待たなければならなかった。キリストは天の門の中に入って行かれて、天使たちのさんびのうちに王座につかれた。この儀式が終わるとすぐ、聖霊は豊かな流れとなって弟子たちの上にくだり、キリストは永遠の昔から父と共に持っておられた栄光をお受けになった。ぺンテコステの聖霊降下は、あがない主の就任式が完了したことを知らせる天からの通報であった。主は、その約束に従って、ご自分が祭司、また王として、天と地のすべての権威を引き継ぎ、神の民の上に立つ油そそがれた者となられたしるしとして、弟子たちに天から聖霊を送られたのであった。 AAJ 34.1

「また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。」聖霊は炎の舌の形をとって、集まっていた人々の上にくだった。これは、そのとき弟子たちにさずけられた賜物の象徴であった。そして彼らは、それまで知らなかった他国の言葉で流暢りゅうちょうに話すことができた。その炎は、使徒たちが働くときの燃えるような熱意と、その働きに伴う力を現した。 AAJ 34.2

「エルサレムには、天下のあらゆる国々から、信仰深いユダヤ人たちがきて住んでいた。」ユダヤ人たちは離散された期間に、人が住むほとんどすべての場所へ散らされ、異境の生活の中でさまざまの違った国語を話すことを学んでいた。この時、これらのユダヤ人の多くがエルサレムに来て、その時行われていた宗教の祭りに出ていた。そこにはあらゆる国語を話す人々が集まっていた。このように言葉がいろいろ異なっていたことは、福音宣伝のためには非常な妨げとなったはずであった。そこで神は、不 思議な方法で弟子たちの不足を補われたのである。聖霊は彼らが一生かかってもなし遂げられないことを彼らのためになさった。弟子たちは今、自分たちの働きかけている人々の言語を正確に話して、福音の真理を広く宣伝することができた。この奇跡的な賜物は、彼らの任務が天の認印を押されたものであることを世に示す確かな証拠であった。この時から弟子たちの言葉は、母国語で語ろうと、外国語で語ろうと、純粋で単純で正確であった。 AAJ 34.3

「この物音に大ぜいの人が集まってきて、彼らの生れ故郷の国語で、使徒たちが話しているのを、だれもかれも聞いてあっけに取られた。そして驚き怪しんで言った、『見よ、いま話しているこの人たちは、皆ガラリヤ人ではないか。それだのに、わたしたちがそれぞれ、生れ故郷の国語を彼らから聞かされるとは、いったい、どうしたことか』。」 AAJ 35.1

祭司や役人たちはこの驚くべき現象にひどく立腹したが、人々の暴力に自分たちの身をさらすことになるのではないかと恐れて自分たちの敵意をぐっとこらえていた。彼らはあのナザレ人を殺したが、今ここに、彼のしもべであるガラリヤの無学な人々が、当時語られていたあらゆる国語で、その人の生涯とその働きのことを話しているではないか。祭司たちは弟子たちの奇跡的な力を常識的に説明しようと決めて、これは祭りのために用意されていた新酒を飲み過ぎて酔ったためだとふれ込んだ。中でもとりわけ無知な者たちはこの主張を真に受けたが、知的な者たちはそうではないことを知っていた。そしてそのような違った国語を知っていた人々は、弟子たちの使っている言葉が正確であることを証言した。 祭司たちの非難に答えて、ペテロは、このような事が起こったのは、ヨエルの預言がまさしく成就したのであると言った。このような力はある特別の仕事に適合させるために人々に臨むものだとヨエルが預言したのだと説明した。「ユダヤの人たち、ならびにエルサレムに住むすべてのかたがた、どうか、この事を知っていただきたい。わたしの言うことに耳を傾けていただきたい。今は朝の九時であるから、この人たちは、あなたがたが思っているように、酒に酔っているのではない。そうではなく、これは預言者ヨエルが預言していたことに外ならないのである。すなわち、『神がこう仰せになる。終りの時には、わたしの霊をすべての人に注ごう。そして、あなたがたのむすこ娘は預言をし、若者たちは幻を見、老人たちは夢を見るであろう。その時には、わたしの男女の僕たちにもわたしの霊を注ごう。そして彼らも預言をするであろう』」と、ペテロは言った。 AAJ 35.2

ペテロは、明瞭に力強くキリストの死とよみがえりをあかしした。「イスラエルの人たちよ、今わたしの語ることを聞きなさい。あなたがたがよく知っているとおり、ナザレ人イエスは、神が彼をとおして、あなたがたの中で行われた数々の力あるわざと奇跡としるしとにより、神からつかわされた者であることを、あなたがたに示されたかたであった。・・・・あなたがたは彼を不法の人々の手で十字架につけて殺した。神はこのイエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせたのである。イエスが死に支配されているはずはなかったからである。」 AAJ 36.1

ペテロは自分の立場を立証するのに、キリストの教えを引用しなかった。それは聴衆の偏見が非常に 大きいので、それについて語っても効果がないことを知っていたからである。むしろ彼はダビデのことを語った。ダビデは彼らの国の族長のひとりであると、ユダヤ人からみなされていたからである。「ダビデはイエスについてこう言っている、『わたしは常に目の前に主を見た。主は、わたしが動かされないため、わたしの右にいて下さるからである。それゆえ、わたしの心は楽しみ、わたしの舌はよろこび歌った。わたしの肉体もまた、望みに生きるであろう。あなたは、わたしの魂を黄泉に捨ておくことをせず、あなたの聖者が朽ち果てるのを、お許しにならないであろう・・・・。』」 AAJ 36.2

「兄弟たちよ、族長ダビデについては、わたしはあなたがたにむかって大胆に言うことができる。彼は死んで葬られ、現にその墓が今日に至るまで、わたしたちの間に残っている。」「キリストの復活を・・・・『彼は黄泉に捨ておかれることがなく、またその肉体が朽ち果てることもない』と語ったのである。このイエスを、神はよみがえらせた。そして、わたしたちは皆その証人なのである。」 AAJ 37.1

この光景はまことに興味深い。見よ、人々は弟子たちが、イエスにある真理をそのままあかしするのを聞こうと、四方から集まってくる。彼らは会堂いっぱいに押しかけてくる。祭司や役人たちもまだ、敵意のある暗い顔をしかめてそこにいるが、彼らの心はなおもキリストに対する憎しみに満ち、その手は、この世のあがない主を十字架につけた時の、殺害行為からきよめられていなかった。彼らは使徒たちが強力な迫害や虐殺の手を恐れて、おびえているだろうと思っていた。ところが、彼らは、使徒たちがすべての恐れを乗り越えて、み霊に満たされ、力強くナザレのイエスの神性を宣べ伝えているさまを 見るのである。彼らは使徒たちが、ごく最近、屈辱を受け、嘲笑ちょうしょうされ、残酷な手で打たれ、十字架につけられたかたが、いのちの君であって、今や神の右にまで高められていることを、勇敢に宣べ伝えているのを聞く。 AAJ 37.2

使徒たちに耳を傾けていた人々の中には、キリストを罪と死に陥れることに一役買った者もいた。彼らの声は、主を十字架につけよと叫ぶ群衆の声に混じっていた。イエスとバラバが法廷で彼らの前に立ち、ビラトが「おまえたちは、だれをゆるしてほしいのか」とたずねたとき、「その人ではなく、バラバを」と彼らは叫んでいた(マタイ二七ノ一七、ヨハネ一八ノ四〇)。ピラトがキリストを彼らの前に連れてきて、「あなたがたが、この人を引き取って十字架につけるがよい。わたしは、彼にはなんの罪も見いだせない。」「この人の血について、わたしには責任がない」と言うと、「その血の責任は、われわれとわれわれの子孫の上にかかってもよい」と彼らは叫んだのであった(ヨハネ一九ノ六、マタイ二七ノ二四、二五)。 AAJ 38.1

いま、彼らは、十字架につけられたのは神のみ子であったという弟子たちの言葉を聞いている。祭司や役人たちは震えおののいた。人々は罪の自覚と苦悩におそわれた。「人々はこれを聞いて、強く心を刺され、ペテロやほかの使徒たちに、『兄弟たちよ、わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか』と言った。」弟子たちの言葉を聞いていた人々の中に信心深いユダヤ人もいた。彼らは真心から信じていた。語る者の言葉に力が伴い、イエスこそ本当にメシヤであるということを彼らは得心した。 AAJ 38.2

「すると、ペテロが答えた、『悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう。この約束は、われらの主なる神の召しにあずかるすべての者、すなわち、あなたがたと、あなたがたの子らと、遠くの者一同とに、与えられているものである』」。 AAJ 39.1

ペテロはその罪意識に苦しんでいる人々に、彼らは祭司や役人たちにだまされてキリストを拒んだのである。だから、もし彼らがなおもこれらの人々の勧告をあてにして、祭司や役人たちがキリストを認めないうちは、自分たちも認めようとしないということであれば、彼らは決してキリストを受け入れるようにはならないであろうと熱心に訴えた。これらの有力者たちは、聖職についていても、世的な富や栄誉にあこがれていた。彼らは進んでキリストのところに来て、光を受けようとしなかった。 AAJ 39.2

この天の光に照らされて、キリストが弟子たちに説明しておられた聖書は、完全な真理として彼らの前に燦然さんぜんと輝いた。ベールが取り除かれて、既に廃止されたことが一つ残らず弟子たちの前に明らかになった。弟子たちはキリストの使命の目的と神の王国の性質を全く明快に理解した。彼らは救い主の力をもって語ることができた。そして、彼らが聞く者たちに救いの計画を説くと、多くの人々が罪を悟り、納得した。祭司たちに教え込まれていた伝統や迷信は、人々の心から取り除かれて、救い主の教えが受け入れられた。 AAJ 39.3

「そこで、彼の勧めの言葉を受けいれた者たちは、バプテスマを受けたが、その日、仲間に加わった ものが三千人ほどあった。」 AAJ 39.4

ユダヤの指導者たちは、キリストのみわざはキリストの死とともに終わるのだと思っていた。ところが、それどころか、彼らはペンテコステ(五旬節)の日のすばらしい光景を目撃したのである。彼らは、弟子たちがこれまで知らなかった権威と力をさずけられ、また、語る言葉もさまざまのしるしや不思議によって強められて、キリストについて説くのを聞いた。ユダヤ教の根拠地エルサレムでは、幾千もの人々が公然と、ナザレのイエスをメシヤとして信じる信仰をあかしした。 AAJ 40.1

弟子たちは魂の大きな収穫に驚き、おどりあがってよろこんだ。彼らはこのすばらしい収穫を、自分たちの努力の賜物とは考えなかった。彼らは、自分たちは他の人々の働きに参加しつつあるのだと悟った。アダムの堕落以来、キリストは、選ばれたしもべたちにみことばの種をゆだね、人々の心にそれを植えつけさせられた。この地上での生涯をかけて、キリストは真理の種をまき、ご自身の血でそれを潤された。ペンテコステ(五旬節)の日に起こった人々の改心は、この種まきの結果であり、キリストの教えの力を現すキリストの働きの収穫であった。 AAJ 40.2

使徒たちの論証がたとえ、明瞭で信服させるものであったとしても、それだけでは、あれほどはっきりと反抗していた偏見を取り除くことはできなかったであろう。聖霊は聖なる力で、人々の心にその論証をはっきり悟らせた。使徒たちの言葉は、全能者のとぎすまされた矢のように、栄光の主を拒み、十字架につけるほどの恐ろしい罪を犯した人々の罪を悟らせた。 AAJ 40.3

キリストの訓練のもとに、弟子たちは聖霊を必要と感じるように導かれていた。聖霊の教えにより、彼らは最終的な資格を受けて、彼らの生涯をかけた仕事に出て行った。もはや彼らは無学ではなく、無教養でもなかった。もはや彼らはてんでんばらばらな一団ではなく、また、不調和で矛盾した分子の寄り集まりでもなかった。もはや彼らの望みは、世的な成功を目指すものではなかった。彼らは「心を一つにし思いを一つにして」いた(使徒行伝二ノ四六、四ノ三二)。キリストが彼らの思想となり、キリストの国の前進が彼らの目標であった。彼らは心も品性も主に似たものとなっていた。そして人々は「彼らがイエスと共にいた者であることを認め」た(使徒行伝四ノ一三)。 AAJ 41.1

ペンテコステは彼らに天の啓示をさずけた。キリストと共にいたときには理解できなかった真理が、いま明らかにされた。彼らはこれまで知らなかった信仰と確信を与えられて、聖なるみことばについての教えを受け入れた。キリストが神のみ子であるということは、もはや彼らにとって信仰の問題ではなかった。主が、たとえ人間性を身につけておられても、本当に、メシヤであられることを彼らは知っていた。そして、神が彼らと共におられるのだという確信をもって、世に自分たちの経験を堂々と語った。 AAJ 41.2

弟子たちはイエスのみ名を、確信をもって語ることができた。それは、イエスが彼らの友であり、兄であられたからではなかっただろうか。キリストとの親しい交わりに導かれて、彼らは主と共に天に備えられた場所に座った。キリストをあかしするとき、弟子たちの思想を包んだのは、すさまじく燃えることばであった。弟子たちの心には豊かな深い愛、どこまでも広い慈愛が積みすぎるほど積みこまれて いたため、キリストのみ力をあかししに、地の果てまでも行かずにはおられなかった。弟子たちは、キリストが始められたみ働きを進展させたいという、切なる願いでいっぱいであった。彼らはまた、神の恩義の大きさと、彼らの仕事の責任の大きさを悟った。聖霊の賜物に力づけられて、彼らは、十字架の勝利を更にひろげたいという熱意に燃えて出て行った。聖霊は彼らを活気づけ、彼らを通して語った。キリストの平和が彼らの顔から輝き出た。彼らの生涯を奉仕のために主にささげていたので、その顔には神にゆだねきった表情があらわれていた。 AAJ 41.3