患難から栄光へ

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第三〇章   競走に勝ち抜くために

本章は、コリント人への第一の手紙に基づく AAJ 333.1

パウロは、コリントの信者たちの心に、堅固な自制心と厳格な節制、そしてキリストに仕えるゆるがぬ熱意の大切さを、はっきり刻みつけたいと願って、彼らにあてた手紙の中で、クリスチャンの戦いと、コリントの近くで、定期的に開催された有名な競走とを、印象的に比較した。競走は、ギリシア人とローマ人が始めたあらゆる競技のうちで、最も古く、最も重んじられたものであった。王侯、貴族、政治家たちが列席してそれを見守った。富と地位を持った青年たちが競走に参加し、賞を得るために必要などんな努力や訓練をもいとわなかった。 AAJ 333.2

競走は、厳しい規則に従って行われ、それに対して不服の申し立てはできなかった。賞をめざして競走に参加したいと望む者は、まず、厳格な準備訓練を受けねばならなかった。食欲にふけること、あるいはそのほか、精神的肉体的活力を低下させるような楽しみは、すべて堅く禁じられた。強さと速さを 競うこうした試合に勝利しようと望む者は、その筋肉が強く、柔軟で、神経は十分な抑制の下になければならなかった。すべての行動が確実で、その一歩一歩は、迅速で確かなものでなければならなかった。肉体の能力は、最高の標準に到達しなければならなかった。 AAJ 333.3

競走の選手たちが、待ちかまえた観衆の前に、姿を現わすと、彼らの名が発表され、競走の規則が明示された。それから彼らは、いっせいにスタートした。観衆がじっと見つめていると思うと、彼らは勝利への意欲をかきたてられた。審判たちは、ゴール附近に席を占めて、競走の最初から最後までを見守り、真の勝利者に賞を与えようとした。もしだれかが、不正な手段によって一着になっても、賞は与えられなかった。 AAJ 334.1

こうした競走には、大きな危険が伴っていた。肉体的な恐るべき負担から、二度と回復しない者もあった。走っている途中で、口や鼻から血を出して倒れることもまれではなく、時には、選手が、賞をつかもうとした時に倒れて死んでしまうこともあった。しかし、一生残る障害や死の可能性も、勝利者に与えられる栄誉と比較するならば、大きすぎる危険とは考えられなかったのである。 AAJ 334.2

勝利者がゴールにはいると、大観衆の拍手がわき起こって周囲の丘や山に鳴りひびいた。全観衆の注目する中で、審判は彼に、勝利の象徴である月桂樹の冠と、右手に持つしゅろの枝を手渡した。彼は国中でほめそやされた。彼の両親には栄誉が与えられ、彼の住んでいた町でさえ、このように偉大な選手を生み出したことを称賛された。 AAJ 334.3

パウロは、こうした競走を、クリスチャンの戦いの比として引用し、選手が競走に勝利するために必要な準備——準備訓練、節食、そして節制の必要——を強調した。「しかし、すべて競技をする者は、何ごとにも節制をする」と彼は断言した。競走する者は、体力を弱める傾向のあるあらゆる楽しみを捨て去り、厳格な不断の訓練によって、筋肉の強さと耐久力をきたえ、いよいよ競技の日が来たならば、できる限りの力をふりしぼるのである。ましてクリスチャンの場合は、自分たちの永遠の利益がかかっているのだから、食欲と情欲を理性と神のみこころに従わせることが、どんなにか重要なことであろう。決して彼は、娯楽やぜいたくや安逸に心を奪われてはならない。彼のすべての習慣と情欲は、最も厳格な訓練の下におかれなければならない。神の言葉の教えに照らされ、聖霊の導きを受けた理性が、支配権を握らなければならない。 AAJ 335.1

クリスチャンは、このようにした後で、勝利を得るために全力をつくさなければならない。コリントの競技において、競走者たちは、その最後の数歩のところで、速度を落とさないように、死に物狂いの努力をしたのである。そのように、クリスチャンも、ゴールに近づくにつれて、競走の最初よりも、さらに大きな熱意と決心をもって前進するのである。 AAJ 335.2

パウロは、競走の勝者が受ける朽ちる花の冠と、クリスチャンの競走に勝利を得る者に与えられる永遠の栄光の冠とを比較している。「彼らは朽ちる冠を得るためにそうするが、わたしたちは朽ちない冠を得るためにそうするのである」と彼は言う。ギリシアの競走者たちは、朽ちる賞を得るために、どん な苦しみも訓練もいとわなかった。われわれは、永遠の命の冠という無限に価値のある賞を得ようと努力しているのである。それだから、われわれは、もっと注意深く努力し、もっとよろこんで犠牲と克己に励むべきではないだろうか。 AAJ 335.3

ヘブル人への手紙の中に、永遠の命を得ようとしているクリスチャンの競走の特徴は、一意専心その目的に向かって進むことだと指摘されている。「こういうわけで、わたしたちは、このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか。信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか」(ヘブル一二ノ一、二)。ねたみ、悪意、邪推、悪口、貪欲などは、クリスチャンが永遠の命をめざす競走に勝利するために、捨て去らなければならない重荷である。われわれを罪におとしいれ、キリストのみ栄えを汚すような習慣や行為は、みな、どんな犠牲を払ってでも捨て去らなければならない。天の祝福は、正義の永遠の原則を犯している人に与えられることはない。一つの罪でも心に抱いているならば、品性を堕落させ、他の人々を誤った道におとしいれるのに十分なのである。 AAJ 336.1

「もし、あなたの片手が罪を犯させるなら、それを切り捨てなさい。両手がそろったままで地獄の消えない火の中に落ち込むよりは、かたわになって命に入る方がよい。・・・・もし、あなたの片足が罪を犯させるなら、それを切り捨てなさい。両足がそろったままで地獄に投げ入れられるよりは、片足で命に 入る方がよい」と救い主は言われた(マルコ九ノ四三、四五)。もし、体を死から救うために、足や手を切り捨て、目を抜き出さなければならないとしたら、クリスチャンは、魂を死に至らせる、罪を捨て去るために、どれほど熱心にならなければならないことだろう。 AAJ 336.2

古代の競技の選手たちは、克己と厳しい訓練に服したからといって、必ず勝利を得るのではなかった。「あなたがたは知らないのか。競技場で走る者は、みな走りはするが、賞を得る者はひとりだけである」とパウロは言った。競走者たちが、どんなに熱心に真剣に努力しても、賞は、ただひとりにしか与えられなかった。待望の栄冠を手にするのは、ただひとりだけであった。賞を得ようとして全力をつくし、まさにそれを手にしようとした瞬間に、他の者が彼らの前に現れて、熱望する宝物をさらってしまうこともあった。 AAJ 337.1

ところが、クリスチャンの戦いは、そのようなものではない。条件に従った者は、競走の終わりにおいて、だれひとりとして失望におちいることはない。真剣に耐え忍ぶ者は、ひとりとして失敗することはない。それは、いちばん速い者のための競走ではなく、いちばん強い者のための競争でもない。最も強い聖徒とともに最も弱い聖徒も、永遠の栄光の冠を受けるのである。すべて、神の恵みの力によって、自分たちの生活をキリストのみこころに一致させる者は、勝利するのである。神の言葉のうちに述べられている原則を、日常の生活において実行するということが、しばしば、重要でなく、注目に値しないささいな事と思われている。しかし、その結果の重要性を考えるとき、それを助けたり、妨害したりす るものは、何一つささいなこととは言えない。すべての行動は、人生の勝利か、または、敗北を決定する重みを持っている。そして勝利者に与えられる報賞は、彼らが努力する気力と真剣さに比例している。 AAJ 337.2

使徒パウロは、自分を、賞を得ようとして全力をつくす走者にたとえている。「そこで、わたしは目標のはっきりしないような走り方をせず、空を打つような拳闘はしない。すなわち、自分のからだを打ちたたいて服従させるのである。そうしないと、ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分は失格者になるかも知れない」と彼は言っている。パウロは、クリスチャンの競走において、目標のはっきりしないような、いいかげんな走りかたをしないために、厳しい訓練に自らを従わせた。「自分のからだを打ちたたいて」という言葉は、定義的には、厳しい訓練によって、欲望、衝動、情欲などを抑制するという意味である。 AAJ 338.1

パウロは、ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分は失格者になりはしないかと恐れた。彼は、自分が信じ宣べ伝えた原則を、自分の生活に実行しなければ、他の人々のための彼の働きは、彼には何の役にも立たないことを知っていた。彼はその行状と影響力、自己の欲望の満足を拒否することなどによって、自分の宗教が、単に口先だけのものでなくて、神との日毎の生きた関係であることを示さなければならなかった。彼は、自分の前に一つの目標を持ち、それに到達するように努力した。それは、「信仰に基く神からの義」であった(ピリピ三ノ九)。 AAJ 338.2

パウロは、命のある限り、悪との戦いは終わらないことを知っていた。彼は、霊的熱心が世俗の欲望 に負けることのないよう、常に自分をしっかりと守っておく必要を感じた。彼は全力をつくして、生来の傾向と戦い続けた。彼は、自分の到達すべき理想を常に目の前に置いた。そして、神の律法によろこんで従うことによってこの理想に到達しようとした。彼の言葉、彼の行為、彼の情熱は、みな、神の霊の支配下にあった。 AAJ 338.3

パウロが、コリントの信者たちの生活に現れるのを見たいと熱望したのは、永遠の生命を勝ち取ろうとするこうした心からの決意であった。彼は、彼らが、キリストが彼らのために持っておられる理想に到達するためには、避けることのできない一生涯にわたる苦闘が、彼らの前にあることを知っていた。パウロは、彼らに、原則に従って努力し、日毎に、敬けんと道徳的卓越を追求するように勧めた。すべての重荷を捨てて、キリストにある完全という目標に向かって前進するよう、彼らに訴えた。 AAJ 339.1

パウロは、コリントの人々に、古代のイスラエルの経験を指し示し、彼らが服従によって受けた祝福と、罪を犯したためにこうむった刑罰とを示した。彼は、ヘブル人が、昼は雲の柱、夜は火の柱に守られて、奇跡的にエジプトを脱出したことを彼らに思い起こさせた。こうしてヘブル人は、安全に紅海を渡ったが、同じようにして渡ろうとしたエジプト人は、みなおぼれ死んでしまった。このような行為によって、神は、イスラエルをご自分の教会としてお認めになったのである。彼らは、「みな同じ霊の食物を食べ、みな同じ霊の飲み物を飲んだ。すなわち、彼らについてきた霊の岩から飲んだのであるが、この岩はキリストにほかならない」。ヘブル人の旅路の全期間にわたる指導者は、キリストであった。 打たれた岩は、キリストを代表していた。キリストは、すべての人に救いの水が流れていくよう、人間の罪のために傷つけられるのであった。 AAJ 339.2

神がヘブル人に恵みをほどこされたにもかかわらず、彼らは、エジプトに残してきたぜいたくな生活にあこがれ、その罪と反逆のゆえに、神の刑罰をこうむったのである。パウロは、コリントの信者たちに、イスラエルの経験の中に含まれている教訓に留意するよう命じている。「これらの出来事は、わたしたちに対する警告であって、彼らが悪をむさぼったように、わたしたちも悪をむさぼることのないためなのである」と彼は言った。彼は、安楽と快楽を愛する心が、どのようにして、神の著しい報復を招いた罪への道を開いていったかを示した。イスラエルの民が、律法をさずけられたときに感じた神への恐れを捨て去ったのは、彼らが坐して飲み食いをし、また立って踊り戯れたときであった。そして、彼らは、神の象徴として金の子牛を造り、それを礼拝した。多くのヘブル人たちが、不品行のゆえに倒れたのは、ペオルのバアル礼拝に伴う放縦な宴会に連なったあとであった。神の怒りが引き起こされた。神の命令の下に、疫病のために倒された者が、「一日に二万三千人もあった」。 AAJ 340.1

使徒パウロは、コリント人に命じて、「だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい」と言った。もし彼らがおごり高ぶって、自分をたのみ、目をさまして祈ることを怠るならば、重大な罪におちいり、神の怒りを自分たちの身に招くのであった。しかしパウロは、彼らが失望したり落胆したりすることを望まなかった。彼は、彼らに確証を与えて言った。「神は真実である。あなたが たを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである」。 AAJ 340.2

パウロは兄弟たちに、彼らの言行の影響についての反省を促し、たとえ、どんなにその事自体は誤っていないように思われても、偶像礼拝を是認したり、あるいは、信仰の弱い者の良心を傷つけたりするようなことは、何一つしないようにと勧告した。「だから、飲むにも食べるにも、また何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきである。ユダヤ人にもギリシヤ人にも神の教会にも、つまずきになってはいけない」。 AAJ 341.1

コリント教会への使徒パウロの警告の言葉は、各時代にあてはまるが、特にわれわれの時代に適合している。彼が、偶像礼拝と言ったのは、ただ偶像を拝むことだけでなくて、自己の利益を追求し、安楽を愛し、食欲と情欲をほしいままにすることをも意味していた。単に、キリストに対する信仰を表明し、真理の知識を誇るだけで、人はクリスチャンとなるのではない。目や耳や嗜好を満足させることのみを求め、放縦を是認する宗教は、キリストの宗教ではない。 AAJ 341.2

パウロは、教会を人間の体と比較することによって、キリストの教会のすべてのメンバーの間における密接で調和した関係を、適切に説明した。彼は、次のように書いた。「わたしたちは皆、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によって、一つのからだとなるようにバプテスマを受け、そして皆一つの御霊を飲んだからである。実際、からだは一つの肢体だけではなく、多くのものからで きている。もし足が、わたしは手ではないから、からだに属していないと言っても、それで、からだに属さないわけではない。また、もし耳が、わたしは目ではないから、からだに属していないと言っても、それで、からだに属さないわけではない。もしからだ全体が目だとすれば、どこで聞くのか。もし、からだ全体が耳だとすれば、どこでかぐのか。そこで神は御旨のままに、肢体をそれぞれ、からだに備えられたのである。もし、すべてのものが一つの肢体なら、どこにからだがあるのか。ところが実際、肢体は多くあるが、からだは一つなのである。目は手にむかって、『おまえはいらない』とは言えず、また頭は足にむかって、『おまえはいらない』とも言えない。・・・・神は劣っている部分をいっそう見よくして、からだに調和をお与えになったのである。それは、からだの中に分裂がなく、それぞれの肢体が互にいたわり合うためなのである。もし一つの肢体が悩めば、ほかの肢体もみな共に悩み、一つの肢体が尊ばれると、ほかの肢体もみな共に喜ぶ。あなたがたはキリストのからだであり、ひとりびとりはその肢体である」。 AAJ 341.3

次に、パウロは、キリストのすべての弟子たちが持つべき愛の重要性について語ったが、この言葉は、その時代から現代に至るまで、あらゆる人々にとって霊感と励ましの源泉となった。「たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。たといま た、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である」。 AAJ 342.1

口先で、どんなに立派なことを言っても、もし心の中に、神と同胞に対する愛が満ちていなければ、キリストの真の弟子ではない。大いなる信仰を持ち、奇跡を行うほどの力があっても、もし愛がなければ、その信仰は価値がない。また、大いなる施しが行われるかもしれない。しかし、それが真の愛以外の動機によって行われたとするならば、自分の全財産を人に施しても、その行為によって神の恵みにあずかることはできない。また、熱心さのあまり、殉教の死をとげることさえするかもしれない。しかし、もしそれが愛の動機によるものでなければ、神は彼を、惑わされた熱狂家、あるいは野心的偽善者とみなされることであろう。 AAJ 343.1

「愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない」。最も純粋なよろこびは、最も深い謙遜から生じる。最も強く、最も高潔な品性は、忍耐と愛と、神のみこころに対する服従という基礎の上に築かれるのである。 AAJ 343.2

愛は、「不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない」。キリストのような愛は、他人の行為と動機を最も好意的に解釈する。それは、不必要に彼らの欠点を暴露したりしない。それは、好ましくない噂に聞き耳を立てたりせず、むしろ、他の人々の良い特質を思い起こさせようと努めるのである。 AAJ 343.3

愛は、「不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える」。この愛は、「いつまでも絶えることがない」。これは、決してその価値を失うことがない。それは、天の特性である。その所有者は、尊い宝としてそれを持って、神の都の門の中にはいることができるのである。 AAJ 344.1

「このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である」。 AAJ 344.2

コリントの信者たちの道徳的標準の低下に伴って、ある人々は、信仰の基本的な特徴のいくつかを放棄してしまった。ある人々は、復活の教理さえ否定するに至った。パウロは、キリストの復活が、疑う余地のない証拠に基づいていることを明白に証言して、この異端に対処した。彼は、次のように言明した。キリストは、死後、「聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえった・・・・ケパに現れ、次に、十二人に現れた・・・・そののち、五百人以上の兄弟たちに、同時に現れた。その中にはすでに眠った者たちもいるが、大多数はいまなお生存している。そののち、ヤコブに現れ、次に、すべての使徒たちに現れ、そして最後に、いわば、月足らずに生れたようなわたしにも、現れたのである」。 AAJ 344.3

使徒パウロは、人を説得せずにはおかぬ力をもって、復活の偉大な真理を説いた。「もし死人の復活がないならば、キリストもよみがえらなかったであろう。もしキリストがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい。すると、わたしたちは神にそむく偽 証人にさえなるわけだ。なぜなら、万一死人がよみがえらないとしたら、わたしたちは神が実際よみがえらせなかったはずのキリストを、よみがえらせたと言って、神に反するあかしを立てたことになるからである。もし死人がよみがえらないなら、キリストもよみがえらなかったであろう。もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、いまなお罪の中にいることになろう。そうだとすると、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのである。もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる。しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである」。 AAJ 344.4

使徒パウロは、コリントの兄弟たちの心を、復活の朝の勝利へと向かわせた。その時、すべての眠っていた聖徒はよみがえらされて、永遠に主と共に住むのである。パウロは、次のように言った。「ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである。この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを着るとき、聖書に書いてある言葉が成就するのである。『死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか』。 ・・・・しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである」。 AAJ 345.1

忠実な者を待ち受けている勝利は、実に輝かしいものである。パウロは、コリントの信者たちの可能性を認め、利己心と情欲から彼らを引き上げて、永遠の生命の希望に満ちた輝かしい生活へと彼らを導こうと努めた。彼は、彼らに、キリストにあって受けた高い召しに対して忠実であるようにと、熱心に勧めた。「だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである」、と彼は勧告した。 AAJ 346.1

こうして、パウロは、最も明確で印象的なやりかたで、コリント教会に広まっていた誤った危険な考えと習慣を正そうと努めた。彼は、率直に語ったけれども、彼らの魂に対する愛をもって語ったのである。彼の警告とけん責の中には、彼らの生活を汚していた隠れた罪を示す、神のみ座からの光が輝いていた。彼らは、それをどのように受けいれるだろうか。 AAJ 346.2

パウロは、手紙を送り出したあとで、自分の書いたことが、自分が助けたいと望んでいるその人々に、深い傷を負わせ過ぎたのではないかと恐れた。彼は、人々が彼から更に離反することを非常に憂慮し、言ったことを取り消したいとさえ思った。パウロと同様、愛する教会や伝道機関に対する責任を感じている人々が、彼の精神的苦悩と自責の念を最もよく理解することができる。この時代に対する神の働き の重荷を負う神のしもべたちは、大いなる使徒が負わなければならなかったのと同様の労苦、葛藤かっとう、心労の経験の幾分かを知っている。パウロは、教会の分裂の重荷をかかえ、また、自分が同情と支持を求めた人々の忘恩と裏切りに心を痛め、罪をはらむ教会の危機に気づいて、率直、厳重な罪の譴責けんせきをしなければならなかったが、同時に、自分は事を処するのに、厳し過ぎはしなかっただろうかという危惧きぐの念が、心にのしかかった。彼は、自分の手紙が、どのように受け入れられたかということについての知らせを、心配しながら待ちわびていた。 AAJ 346.3