患難から栄光へ

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第二二章テサロニケでの働き

本章は使徒行伝一七章一節-一〇節に基づく AAJ 237.1

ピリピを去ってのち、パウロとシラスはテサロニケへと向かった。ここで彼らは、ユダヤの会堂で大ぜいの会衆に語りかける特権にあずかった。彼らの容貌は見るからに、最近受けたひどい仕打ちを物語るものであったので、事の顛末てんまつを説明しなければならなかった。これにあたって彼らは、自分たちを高めるのではなく、彼らを救い出して下さった神をさんびした。 AAJ 237.2

パウロはテサロニケの人々に説くにあたって、メシヤに関する旧約聖書の預言に訴えた。キリストはその公生涯において、弟子たちの心をこれらの預言に向かって開き、「モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた」(ルカ二四ノ二七)。ペテロはキリストを説くにあたり、自分のあかしの言葉を旧約聖書から引き出した。ステパノも同じ方法をとった。そしてパウロもその伝道において、キリストの誕生、苦難、死、復活、昇天を預言 した聖句に訴えた。彼はモーセと預言者たちの霊感のあかしによって、ナザレのイエスがメシヤであることを明白に立証し、アダムの時代から父祖たちや預言者たちを通して語ってこられたのは、キリストのみ声であったことを教えた。 AAJ 237.3

約束のかたが現れることについて、わかりやすく明確に預言が与えられていた。アダムにはあがない主の来臨について確証が与えられた。「わたしは恨みをおく、おまえと女とのあいだに、おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕くであろう」とサタンに言われた宣告は、われわれの最初の両親にとって、キリストを通してなされるあがないの、約束であった(創世記三ノ一五)。 AAJ 238.1

アブラハムには、彼の家系から世の救い主が生まれるという約束が与えられた。「地のもろもろの国民はあなたの子孫によって祝福を得るであろう」(創世記二二ノ一八)。「それは、多数をさして『子孫たちとに』と言わずに、ひとりをさして『あなたの子孫とに』と言っている。これは、キリストのことである」(ガラテヤ三ノ一六)。 AAJ 238.2

モーセは、イスラエルの指導者また教師としての働きを終えようとしていたとき、メシヤの来臨を明らかに預言した。「あなたの神、主はあなたのうちから、あなたの同胞のうちから、わたしのようなひとりの預言者をあなたのために起されるであろう。あなたがたは彼に聞き従わなければならない」とモーセは、集まったイスラエルの人々に言った。また彼は、「わたしは彼らの同胞のうちから、おまえの ようなひとりの預言者を彼らのために起して、わたしの言葉をその口に授けよう。彼はわたしが命じることを、ことごとく彼らに告げるであろう」ということをイスラエルびとに保証した(申命記一八ノ一五、一八)。 AAJ 238.3

メシヤは王の家系から生まれるはずであった。ヤコブによって語られた預言の中で、「つえはユダを離れず、立法者のつえはその足の間を離れることなく、シロの来る時までに及ぶであろう。もろもろの民は彼に従う」と主が言われたからである(創世記四九ノ一〇)。 AAJ 239.1

イザヤの預言はこうであった。「エッサイの株から一つの芽が出、その根から一つの若枝が生えて実を結」ぶ。「耳を傾け、わたしにきて聞け。そうすれば、あなたがたは生きることができる。わたしは、あなたがたと、とこしえの契約を立てて、ダビデに約束した変らない確かな恵みを与える。見よ、わたしは彼を立てて、もろもろの民への証人とし、また、もろもろの民の君とし、命令する者とした。見よ、あなたは知らない国民を招く、あなたを知らない国民はあなたのもとに走ってくる。これはあなたの神、主、イスラエルの聖者のゆえであり、主があなたに光栄を与えられたからである」(イザヤ書一一ノ一、五五ノ三-五)。 AAJ 239.2

エレミヤもまた、ダビデの家の王子としてあがない主が来られることをあかしした。「主は仰せられる、見よ、わたしがダビデのために一つの正しい枝を起す日がくる。彼は王となって世を治め、栄えて、公平と正義を世に行う。その日ユダは救を得、イスラエルは安らかにおる。その名は『主はわれわれの 正義』ととなえられる。」そして更に「主はこう仰せられる、イスラエルの家の位に座する人がダビデの子孫のうちに欠けることはない。またわたしの前に燔祭をささげ、素祭を焼き、つねに犠牲をささげる人が、レビびとである祭司のうちに絶えることはない」(エレミヤ書二三ノ五、六、三三ノ一七、一八)。 AAJ 239.3

メシヤの出生地さえも預言された。「ベツレヘムエフラタよ、あなたはユダの氏族のうちで小さい者だが、イスラエルを治める者があなたのうちからわたしのために出る。その出るのは昔から、いにしえの日からである」(ミカ書五ノ二)。 AAJ 240.1

救い主がこの地上でなさるはずのお働きは、十分にそのあらましが説明されていた。「その上に主の霊がとどまる。これは知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。彼は主を恐れることを楽しみと」する。この油を注がれたかたは「貧しい者に福音を宣べ伝え....心のいためる者をいやし、捕われ人に放免を告げ、縛られている者に解放を告げ、主の恵みの年とわれわれの神の報復の日とを告げさせ、また、すべての悲しむ者を慰め、シオンの中の悲しむ者に喜びを与え、灰にかえて冠を与え、悲しみにかえて喜びの油を与え、憂いの心にかえて、さんびの衣を与えさせるためである。こうして、彼らは義のかしの木ととなえられ、主がその栄光をあらわすために植えられた者ととなえられる」(イザヤ書一一ノ二、三、六一ノ一-三)。 AAJ 240.2

「わたしの支持するわがしもべ、わたしの喜ぶわが選び人を見よ。わたしはわが霊を彼に与えた。彼はもろもろの国びとに道をしめす。彼は叫ぶことなく、声をあげることなく、その声をちまたに聞えさ せず、また傷ついた葦を折ることなく、ほのぐらい灯心を消すことなく、真実をもって道をしめす。彼は衰えず、落胆せず、ついに道を地に確立する。海沿いの国々はその教を待ち望む」(イザヤ書四二ノ一-四)。 AAJ 240.3

パウロは、「キリストは必ず苦難を受け、そして死人の中からよみがえるべきこと」を、旧約聖書から力強く論じた。ミカは、敵が「つえをもってイスラエルのつかさのほおを撃つ」と預言しなかっただろうか(ミカ書五ノ一)。また、約束されたかたは、イザヤを通して、ご自身のことを「わたしを打つ者に、わたしの背をまかせ、わたしのひげを抜く者に、わたしのほおをまかせ、恥とつばきとを避けるために、顔をかくさなかった」と預言されなかっただろうか(イザヤ書五〇ノ六)。詩篇記者を通してキリストは、人々から受けるあしらいを預言しておられた。「わたしは・・・・人にそしられ、民に侮られる。すべてわたしを見る者は、わたしをあざ笑い、くちびるを突き出し、かしらを振り動かして言う、『彼は主に身をゆだねた、主に彼を助けさせよ。主は彼を喜ばれるゆえ、主に彼を救わせよ』と。」「わたしは自分の骨をことごとく数えることができる。彼らは目をとめて、わたしを見る。彼らは互にわたしの衣服を分け、わたしの着物をくじ引にする。」「わたしはわが兄弟には、知らぬ者となり、わが母の子らには、のけ者となりました。あなたの家を思う熱心がわたしを食いつくし、あなたをそしる者のそしりがわたしに及んだからです。」「そしりがわたしの心を砕いたので、わたしは望みを失いました。わたしは同情する者を求めたけれども、ひとりもなく、慰める者を求めたけれども、ひとりも見ませんで した」(詩篇二二ノ六-八、一七、一八、六九ノ八、九、二〇)。 AAJ 241.1

キリストの苦しみとその死についてのイザヤの預言は、なんと明白で、まぎれもないものであったろうか。「だれがわれわれの聞いたことを信じ得たか」と預言者は問いかける。「主の腕は、だれにあらわれたか。彼は主の前に若木のように、かわいた土から出る根のように育った。彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。 AAJ 242.1

まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。 AAJ 242.2

われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった。彼は暴虐なさばきによって取り去られた。その代の人のうち、だれが思ったであろうか、彼はわが民のとがのために打たれて、生けるものの地から断たれたのだと」(イザヤ書五三ノ一-八)。 AAJ 242.3

キリストの死のありさまさえもほのめかされていた。荒野でへびが上げられたように、やがて来られるあがない主も上げられなければならない。「それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ三ノ一六)。 AAJ 243.1

「もし、人が彼に『あなたの背中の傷は何か』と尋ねるならば、『これはわたしの友だちの家で受けた傷だ』と、彼は言うであろう」(ゼカリヤ書一三ノ六)。 AAJ 243.2

「彼は暴虐を行わず、その口には偽りがなかったけれども、その墓は悪しき者と共に設けられ、その塚は悪をなす者と共にあった。しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、主は彼を悩まされた」(イザヤ書五三ノ九、一〇)。 AAJ 243.3

しかし、悪人の手で死の苦しみに会われるかたは、罪と死の勝利者としてよみがえられるはずであった。全能なる神の霊感をうけて、イスラエルの麗しい詩人ダビデは、よみがえりの朝のよろこびについてあかししていた。「このゆえに、わたしの心は楽しみ、わたしの魂は喜ぶ。わたしの身もまた安らかである。あなたはわたしを陰府よみに捨ておかれず、あなたの聖者に墓を見させられないからである」と、ダビデはよろこびを宣べ伝えた(詩篇一六ノ九、一〇)。 AAJ 243.4

パウロは、神が犠牲の儀式と「ほふり場にひかれて行く小羊」となるかたに関する預言とを、いかに密接につなげておられたかを説明した。メシヤはそのご生涯を、「とがの供え物」としてささげられるはずであった。何世紀も貫いて、救い主のあがないが行われるときの光景を見つめ、預言者イザヤは、 神の小羊が「死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者と共に数えられ・・・・しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした」ことをあかししていた(イザヤ書五三ノ七、一〇、一二)。 AAJ 243.5

預言された救い主は、ユダヤ民族を地上における抑圧者から救い出すための、一時的な王としてではなく、人々の中のひとりとして、貧しく謙遜な生活を送り、ついにはいやしめられ、拒まれ、殺されるために来られるはずであった。旧約聖書に預言されている救い主は、堕落した人類のために犠牲としてご自身をささげられ、それによって、破られた律法のすべての要求を果たされるはずであった。彼によって、犠牲制度のさまざまの予型はその本体に一致した。十字架におけるキリストの死は、ユダヤの制度全体に重要な意味を与えるものであった。 AAJ 244.1

パウロは、以前に自分が礼典律に熱心であったこと、それからダマスコの門のところで受けたすばらしい経験について、テサロニケのユダヤ人たちに話した。改心する以前に彼は、先祖伝来の信心に信頼し、誤った望みをもっていた。彼の信仰はキリストにつながっていなかった。その代わりに形式と儀式を信じていたのである。律法に対する彼の熱意は、キリストへの信仰と切り離されていたもので、全く無益であった。律法のわざを行うことにおいては、自分は非難されるところがないと誇っていたあいだ、彼は、律法を価値あるものとされたかたを拒んでいたのである。 AAJ 244.2

しかしパウロが改心したとき、すべてのものが変わった。彼が聖徒たちの名を借りて迫害していたナ ザレのイエスが、約束のメシヤとしてパウロの前に姿を現されたのである。この迫害者は、神のみ子としてのイエスを見た。このイエスは、さまざまの預言を成就するためにこの地上に来られ、しかも、その生涯において、聖書が明細に述べていることに全くかなっておられた。 AAJ 244.3

パウロが聖なる勇気をもって、テサロニケにある会堂で福音を宣べ伝えていたとき、幕屋の奉仕に関する慣例や儀式のほんとうの意味が豊かに照らし出された。彼は、地上でのキリストのみわざと、天の聖所におけるお働きをこえて、キリストが仲保者の仕事を完成されて、この地上に再び力と大いなる栄光をもって来られ、王国を建設されるというその時に、聞く人々の心を向けさせた。パウロはキリストの再臨を信じる者であった。この事に関して、パウロが真理を明瞭に力強く語ったので、聞いた人たちの多くはその心に、消え去ることのない印象を受けた。 AAJ 246.1

パウロはつづけて三回にわたる安息日に、テサロニケの人びとに「ほふられた小羊」であられるキリストの生涯、死、復活、天における働き、そして未来の栄光に関して、聖書から説いた(黙示録一三ノ八)。彼はキリストをあがめた。キリストのみわざについての正しい理解は、旧約聖書の意味を明らかにする鍵であり、その豊かな宝への接近をゆるすものである。 AAJ 246.2

福音の真理がテサロニケでこのように力強く宣べ伝えられて、大会衆の注意を引いた。「ある人たちは納得がいって、パウロとシラスにしたがった。その中には、信心深いギリシヤ人が多数あり、貴婦人たちも少なくなかった。」 AAJ 246.3

以前に行った場所では、使徒たちは断固とした反対に会った。「ユダヤ人たちは・・・・ねたんで」いた。そのころこれらのユダヤ人たちは、ローマの権力の好意を得ていなかった。少し前に彼らがローマで暴動を起こしていたからである。彼らは疑いの目で見られていて、自由がある程度制限されていたのである。いまこそ彼らは、自分たちの立場を立て直して彼らの好意を得るのに有利な時であり、また同時に、使徒やキリスト教に改宗した人々を非難するよい機会だと思った。 AAJ 247.1

彼らはまず手始めに、「町をぶらついているならず者らを集めて暴動を起し、町を騒がせ」ることに成功した。そして、使徒たちを捜し出そうと「ヤソンの家を襲」ったが、彼らはパウロもシラスも見つけることができなかった。しかし「ふたりが見つからないので」暴徒は失望に狂い、「ヤソンと兄弟たち数人を、市の当局者のところに引きずって行き、叫んで言った、『天下をかき回してきたこの人たちが、ここにもはいり込んでいます。その人たちをヤソンが自分の家に迎え入れました。この連中は、みなカイザルの詔勅にそむいて行動し、イエスという別の王がいるなどと言っています』」。 AAJ 247.2

パウロとシラスが見つからなかったので、市の当局者は告訴された信者たちに平和を保つ契約を結ばせた。更に暴動の起こることを恐れて、「兄弟たちはただちに、パウロとシラスとを、夜の間にベレヤへ送り出した」。 AAJ 247.3

今日、人々に一般受けしない真理を教える者たちは、時々、パウロやその弟子たちが、働きかけた人人から受け入れられなかったように、クリスチャンだと主張する人々からさえ快く受け入れられないこ とがあっても失望するにはあたらない。十字架の使命者たちは、たえず目を覚まして祈りで身を固め、常にイエスのみ名によって働き、信仰と勇気をもって前進しなければならない。彼らはキリストを、天の聖所における人類の仲保者として、旧約聖書のすべての犠牲制度の中心である救い主として、あがめなければならない。そのかたのあがないの犠牲を通してこそ、神の律法を犯した罪人が平和とゆるしを見いだすことができるのである。 AAJ 247.4