キリストの実物教訓
第27章 わたしの隣人とはだれのことですか
本章は、ルカ10:25~37に基づく COL 1335.1
ユダヤ人の間では、「わたしの隣り人とはだれのことですか」という問題は、絶えない議論の種であった。彼らは、異邦人やサマリヤ人についてはなんの疑問も持たなかった。彼らは、異国人であり、敵であった。しかし、自国民と社会の各階級の中で、どこに区別を設けるべきであろうか。祭司や律法学者や長老たちは、いったい、だれを隣人とみなすべきであろうか。彼らは、自分たちを清めるために、あれこれと儀式を行って日を送っていた。そして、無知で軽率な群集に接触すると、自分たちの身が汚れて、それを除くためにはめんどうな儀式をしなければならないと、教えていた。彼らは、「汚れた」人々を隣人と呼ばなければならないのであろうか。 COL 1335.2
キリストは、この質問に対して、よいサマリヤ人のたとえを語って、お答えになった。わたしたちの隣人は、単に自分の教会の一員であるとか、わたしたちと信仰を同じくする者とかいうのではないことをお教えになった。そこには、人種、皮膚の色、または階級の差別がない。わたしたちの隣人とは、わたしたちの助けを要するすべての人を言うのである。わたしたちの隣人は、敵に出会って傷つけられたすべての魂である。わたしたちの隣人は、神の財産であるすべての人である。 COL 1335.3
よいサマリヤ人のたとえは、ある律法学者がキリストに質問したことから、語り出されたものである。キリストが教えておられると、「ある律法学者が現れ、イエスを試みようとして言った、『先生、何をしたら、永遠の生命が受けられましょうか』。」この質問は、パリサイ人たちが、キリストのことばの端をとらえてわなにかけるために、律法学者に言わせたものであったので、彼らは、熱心にイエスの答えに耳を傾けた。ところが、救い主は、議論をしようとはなさらずに、質問した当人に答えをお求めになった。「律法にはなんと書いてあるか。あなたはどう読むか」とお聞きになった。シナイから与えられた律法を、イエスは軽視していると、なおもユダヤ人は、イエスを非難した。ところが、主は、救われるかどうかは、神の律法を守ることにあると言われた。 COL 1335.4
律法学者は、「『心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』また、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』とあります」と言った。キリストはそれに答えて、「あなたの答は正しい。そのとおり行いなさい。そうすれば、いのちが得られる」と言われた。 COL 1335.5
この律法学者は、パリサイ人の立場とその行いに満足していなかった。彼は、聖書の真の意味を悟ろうと願って、研究を続けてきた。彼は、この問題に深い関心を寄せていたので、真剣に「何をすべきでしょうか」と聞いた。彼が律法の要求について答えた時に、彼は、すべての儀式や礼典に関する戒めを省略した。彼は、これらのものを全く無価値なものとして、ただ、すべての律法と預言者とがよって立つところの二大原則をのべたのである。救い主がこの答えを賞賛なさったことは、ラビたちの間におけるキリストの立場を有利に導いた。彼らは、律法の解説者の述べたことを是認なさったイエスを非難することはできなかった。 COL 1335.6
「そのとおりに行いなさい。そうすれば、いのちが得られる」とキリストは言われた。キリストは、常に、律法は、1つのまとまったものとして神がお与えになったものであることを教えられた。つまり、1つの原則がその全体を貫いているから、1つの戒めを守っ て、他を破るということは不可能であることを示された。人間の運命は、律法のすべてに従うことによって決定するのである。 COL 1335.7
キリストは、だれでも、自分の力で律法を守ることができないことを知っておられた。彼は、この律法学者が真理を発見するようになるために、さらに明らかな批判的研究に入るように導こうと望まれた。ただ、キリストの徳と恵みを受けることによってのみ、わたしたちは、律法を守ることができる。罪のためのあがないの供え物を信じることによって、堕落した人間は、全心をもって神を愛し、また自分を愛するように、隣人を愛することができるのである。 COL 1336.1
律法学者は、始めの4条も、後の6条も守っていないことを知った。 COL 1336.2
彼は、キリストの厳粛な言葉を聞いて罪を認めたが、自分の罪を告白する代わりに、それを弁護しようとした。真理を認めようとせずに、むしろ、戒めを実行することがどんなに困難なことであるかを示そうと努めた。こうして、彼は、心の感銘をにぶらせ、人々の目の前で自分を弁護しようとした。彼は、自分で答えることができたほどであるから、彼の質問はしなくてもよいものであったことが、救い主の言葉によってわかる。しかし、彼は、もう1つの質問をして、「わたしの隣り人とはだれのことですか」と言った。 COL 1336.3
再び、キリストは議論に巻き込まれるのを拒まれた。そして、まだ聴衆の記憶に新しい一事件のことを語って、質問にお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗どもが彼を襲い、その着物をはぎ取り、傷を負わせ、半殺しにしたまま、逃げ去った」と、彼は言われた。 COL 1336.4
エルサレムからエリコへ行く旅人は、ユダヤの荒野の一角を通らなければならなかった。道は、岩かどけわしい谷間を下っていて、強盗が出没し、しばしば暴力行為の行われるところであった。旅人が襲われ、貴重品が全部奪われた上、半殺しの目にあって路傍に横たわっていたのは、ここであった。こうして、彼が倒れているところへ、1人の祭司が通りかかった。彼は、旅人が傷つき、血にまみれて横たわっているのを見たが、なんの助けも与えないで行ってしまった。彼は「向こう側を通って行った。」次に、レビ人が現れた。彼は何が起こったのかを知ろうとする好奇心から、立ち止まって、この被害者を見た。彼は、自分がなんとかしなければならないのを自覚したけれども、それは快い義務ではなかった。この道を通らなければよかった。そうすれば、傷ついた人を見ないですんだのにと彼は思った。彼はこれを自分には全く無関係な事件であるとして、「向こう側を通って行った。」 COL 1336.5
ところが、その同じ道をやって来たサマリヤ人は、この苦しんでいる人を見て、他の2人がしようとしなかったことをした。彼は、やさしく親切に傷ついた人に救いの手をのべた。「彼を見て気の毒に思い、近寄ってきて、その傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。翌日、デナリ2つを取り出して宿屋の主人に渡し、『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います』と言った。」祭司とレビ人は2人とも神を敬っていることを公言してはいたが、サマリヤ人こそ真に悔い改めた人であることを示した。このようなことは、祭司やレビ人にとって不快な仕事であったと同様に、サマリヤ人にとっても不快な仕事であった。しかし、サマリヤ人は、彼の精神と働きが神と一致していることを示したのである。 COL 1336.6
キリストは、このたとえの中で、律法の原則を、直接に力強くお教えになった。そして、聴衆がこのような原則を実行していないことを指摘なさった。イエスの言葉は、実に明確であったために、聴衆は、何1つ非難すべきところを見つけることができなかった。この律法学者も何1つ批評するところを見つけることはできなかった。キリストに対する彼の偏見は取りのぞかれた。けれども、彼は、サマリヤ人に対する偏見には打ち勝つことができないで、サマリヤ人と名をあげて答えることはできなかった。キリストが、「この3人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか」とおたずねになった時に、彼は「そ の人に慈悲深い行いをした人です」と答えた。 COL 1336.7
「そこでイエスは言われた、『あなたも行って同じようにしなさい』。」困っている人に、同じような親切を示しなさい。そうすることによって、あなたは、律法を全部守っているという証拠を示すことになるのである。 COL 1337.1
ユダヤ人とサマリヤ人との間の大きな相違は、宗教的信条の相違、すなわち、真の礼拝とは、なんであるかということにあった。パリサイ人は、サマリヤ人のことを少しもよく言わず苦々しいのろいを彼らに浴びせていた。ユダヤ人とサマリヤ人との間の反感は、実に激しく、キリストがサマリヤの女に水を求められた時など、彼女がそれを非常に不思議に思ったほどであった、彼女は「あなたはユダヤ人でありながら、どうしてサマリヤの女のわたしに、飲ませてくれとおっしゃるのですか」と言った。「これは、ユダヤ人はサマリヤ人と交際していなかったからである」と福音書記者は、っけ加えている(ヨハネ4:9)。また、ユダヤ人が、神殿で殺気だってキリストを石で打とうとして立ち上がった時、「あなたはサマリヤ人で、悪霊に取りつかれていると、わたしたちが言うのは、当然ではないか」と言ったのは、彼らの憎悪をあらわすのに最も適した言葉であった(ヨハネ8:48)。しかしながら、祭司やレビ人は、主が彼らにお命じになった仕事を自分たちは怠りながら、憎み軽べつしているサマリヤ人に、同胞の1人を介抱させたのである。 COL 1337.2
このサマリヤ人は、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」という戒めを実行して、彼を非難した人々よりも、彼の方が正しいことを示した。彼は、自分の命を危険にさらしてまで、傷ついた人を、自分の兄弟として介抱した。このサマリヤ人はキリストを代表している。救い主は、人間の愛がとうてい及び得ない愛を表された。彼は、わたしたちが、傷ついて死にひんしていた時に、わたしたちをあわれんでくださった。彼は、天の全軍の愛が一身に注がれていた清い幸福な天に、お留まりにならなかった。彼は、わたしたちの哀れむべき悲惨な姿を見て、それを理解し、人類とご自身とを1つに結びつけられたのである。主は、敵を救うためになくなられたのである。主は、ご自分を殺す者のために祈られた。主は、ご自分の模範を指さしながら、「これらのことを命じるのは、あなたがたが互に愛し合うためである。」「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい」と彼の弟子たちに言われるのである(ヨハネ15:17、13:34)。 COL 1337.3
祭司とレビ人は、神ご自身がお定めになった神殿で、奉仕するために行った帰り道であった。神殿の奉仕に参加することは、大いに名誉ある特権であった。そして祭司やレビ人は、このような名誉が与えられたのであるから、路傍にたおれている未知の傷ついた人に奉仕することは、自分の品位を下げることだと思った。こうして、彼らが同胞を祝福する神の器となるために、神がお与えになった特別の機会を、彼らは見過ごしてしまった。 COL 1337.4
今日、同じ間違いをしている者が多い。そのような人々は、自分たちの義務を、はっきりと2つに分けている。第一は、神の律法に定められた、大事なものである。その次は、彼らが小さいと考えている事であって、ここにおいて、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」という戒めが、無視されている。この方面のことは、彼らの気の向くままに、衝動的に行われている。こうして、品性はゆがめられ、キリスト教は、誤解されているのである。 COL 1337.5
苦しんでいる人々に奉仕することは、威厳を損なうことのように考えている人がいる。魂の宮を荒れるにまかせている人々を、無関心と軽べつの目で見る人が多い。また、別の動機から貧者をかえりみない人がある。彼らは、何かりっぱな企てを進展させようと努力していて、それがキリストのために働いていることのように考えている。彼らは、偉大な働きをしているから、貧しい者や困っている者の必要に気を配ることはできないと考える。彼らは、自分たちが、偉大であると考えていることを押し進めるためには、貧しい人々を圧迫さえするのである。彼らは、こうして貧しい人々を困難な苦しい立場におとしいれ、彼らの権利を奪い、その必要をかえりみない。それでいて、彼らは、キリストの事業を押し進めていると考えてい るのであるから、これをみな当然のことと思うのである。 COL 1337.6
逆境にある兄弟や隣人を助けないで、彼らを苦しむままに放任している者が多い。彼らは、クリスチャンであると言っているから、キリストの代表者とは、このように冷淡で利己主義なのであろうかと、兄弟や隣人に考えさせてしまう。主の僕たちが主と協力しないために、実は彼らを通して流れ出なければならない神の愛が、彼らの同胞から、著しく遮断されている。また人間の心とくちびるから、大いなる賛美と感謝とが神に返るべきであるのに、それも妨げられている。神の清いみ名に帰すべき栄光が神に帰せられずに奪い去られている。キリストが命をすてて救おうとされたその魂、神がみ国にともない、永遠に神とともに住ませようとされた魂が、神から奪われているのである。 COL 1338.1
真理は、わたしたちの実践によって、世界に大きな感化を及ぼさなければならないのに、まだ、ほとんど感化を及ぼしていない。単なる信仰の告白は、世に満ちているが、それらにはなんの価値もない。わたしたちは、キリストの僕であると主張し、神の言葉の中の真理を全部信じると言ってみても、信じることがわたしたちの日常生活の中で行われていないならば、隣人に対してなんの役にも立たない。どんなにりっぱなことを口で言ってみても、わたしたちが、クリスチャンでないならば、自分を救うことも、同胞を救うこともできない。わたしたちの言うすべての言葉よりも、1つの正しい模範が、世界を益するのである。 COL 1338.2
キリストの働きは、利己的な行いによってすることはできない。キリストの働きは、圧迫された者と、貧しい者を救う働きである。キリストの弟子であるという者の心の中には、キリストの憐れみの情がなければならない。すなわち、キリストが命をささげてまで救おうとなさったほど高く評価された人々に対して、深い愛を持たなければならない。これらの魂は、わたしたちが神にささげるどんな供え物よりも、はるかに尊いのである。いかにも重大だと思われることに全能力を傾けて、困った人をおろそかにし、他の人の正当な権利を奪うならば、それは、神のお喜びになる奉仕ではないのである。 COL 1338.3
聖霊の働きによって魂が清められるということは、キリストの性質を人間の中に植えつけることである。福音を信じることは、生活の中にキリストが宿ること——すなわち、生きた活動的な原則が宿ることである。それは、品性によい行いとなってあらわれるキリストの恵みである。福音の原則は、実際の生活のどの方面からも引き離すことはできない。クリスチャンのどんな経験も、どんな働きも、すべてがキリストの生活を表すものでなければならない。 COL 1338.4
愛は信心の基礎である。たとえ、口でなんと言おうと、もし、兄弟に対する無我の愛を持たないならば、神に対する純粋の愛を持っていない。しかし、他人を愛そうと努めることによって、この精神を得ることはできない。必要なのは、心の中にキリストの愛が宿ることである。自己がキリストの中にとけこむ時、愛は自然にわいて出る。他を助け、祝福しようとする気持ちが常に内からわき出て、天からの光が心にあふれ、顔に表される時、クリスチャンの品性が完成の域に達するのである。 COL 1338.5
キリストが住まれる心に愛が欠乏することはない。神がまずわたしたちを愛してくださったために、わたしたちも神を愛するのであるならば、わたしたちは、キリストが命をお捨てになってまで愛されたすべての人々を愛するようになる。神と接触していながら、人間と接触しないということはできない。宇宙の王座にすわっておられるキリストの中には、神性と人性が結合しているのである。キリストに連なる者は、愛という金の鎖によって、同胞と結ばれているのである。こうして、キリストの憐れみと同情とは、わたしたちの生活にもあらわれてくる。わたしたちは、貧しい者や不幸な者が、わたしたちの所へ連れて来られるまで待たなくなるであろう。そして、他人の悲しみに同情することを、求められることも不要になるであろう。わたしたちが、貧しい者や苦しむ者に奉仕することは、キリストが、あまねくめぐって善を行われたのと同様に、自然にできるのである。 COL 1338.6
愛と同情心のある所、他人を祝福し高めようとする心のある所には、神の聖霊の働きがあらわされる。異教主義に閉ざされた所で、聖書にしるされた神の律法も知らず、キリストの名も聞いたことのない人々が、自分たちの命の危険をも顧みないで、神の使者たちを親切に扱い、保護したことがある。彼らの行動は、神の力の働いたことを示している。聖霊が未開地の人々の心にキリストの恵みを植えつけ、彼らの性質や教育とは全く反対の同情心を呼び起こしたのである。「すべての人を照すまことの光があって、世にきた」とあるが、この光が彼の心を照らした(ヨハネ1:9)。もし彼が、この光に従っていくならば、それは、彼の足を神の国まで導くことであろう。 COL 1339.1
神の栄光は、倒れた者を起こし、苦しむ者を慰めることにあらわれる。人の心の中にキリストが宿られる所は、どこであっても、キリストが同じようにあらわされる。キリストの宗教が活動する所は、どこにも祝福があふれ、その働く所にはどこにも輝きがみなぎるのである。 COL 1339.2
神は、国籍、人種、階級の差別をなさらない。神は、全人類の創造者である。すべての人々は、創造によって、1つの家族であり、贖罪によって、1つなのである。キリストは、あらゆるへだての壁をこわし、神殿のどの部屋をも解放するためにこられた。それは、すべての魂が、自由に神に近づくことができるようになるためであった。キリストの愛は、どんな所にでもゆきわたって行くほど、広く深く満ちあふれたものである。それはサタンのまどわしにおちいっていたあわれな魂を、サタンの勢力の下から引き上げて、神のみ座、すなわち約束の虹にかこまれたみ座のそばに、来させるのである。 COL 1339.3
キリストにあっては、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もない。すべての者は、キリストの尊い血によって近い者となったのである(ガラテヤ3:28、エペソ2:13)。 COL 1339.4
いかに宗教的信仰の相違があろうと、人類の苦しみの叫びに耳を傾けて、それに答えなければならない。宗教上の相違が原因となって悪感情が存在する所では、個人的奉仕の行いをすることによって、多くのよい結果が生じる。愛の奉仕は偏見をくだき、魂を神に導くのである。 COL 1339.5
わたしたちは、他の人々の悲しみや困難や苦難をこちらから早く察して、貴賎貧富の別なく、人々と共に喜びも苦しみも味わわなければならない。「ただで受けたのだから、ただで与えるがよい」と、キリストは言われるのである(マタイ10:8)。わたしたちの周りには、試練にあって、同情の言葉と援助の手を要する気の毒な魂がいる。同情と助けの必要なやもめたちもいる。また、キリストが、神から託された者として受けるように、弟手たちにお命じになった孤児たちもいる。このような人々は、とかく見過ごしにされがちである。彼らは、みすぼらしく、粗野で、みたところ少しも好ましくない人々のようであるかもしれないが、彼らも神の所有なのである。彼らも価をもって買われたのであって、神の目の前には、わたしたちと同じように価値のあるものである。彼らは、神の大家族の一員であるから、クリスチャンは管理者として、彼らの責任を負っているのである。「わたしは、彼らの魂をあなたの手に求める」と、神は言われるのである。 COL 1339.6
罪ほどはなはだしく悪いものはないが、罪人をあわれんで助けるのは、わたしたちの務めである。しかし、すべての罪人に同じ方法で接近することはできない。心のかわきをかくしている者が多い。そうした人々には、やさしい言葉や親切な心づかいを示すことによって、大きな助けを与えることができる。また、非常な欠乏の中にありながら、それを知らないでいる者もある。彼らは、自分の魂の恐るべき欠乏を自覚しない。深く罪に沈んで、永遠の世界の実在感を失い、神の像を失い、救うべき魂のあることさえわからない人々が、無数にいるのである。彼らは、神を信じなければ、人をも信用しない。この人々には、己を忘れた親切な行為によってのみ近づくことができる。まず、彼らの肉体的必要を満たさなければならない。彼らに食を与え、体を洗い、人並みの衣服を着せなければならない。彼らが、わたしたちの無我の愛の証拠を見る時に、キリストの愛を信じることがやさしくなるので ある。 COL 1339.7
過ちにおちいり、はじと愚かさを感じている人々が多い。彼らは、自分たちの過失や誤りをながめて、絶望するばかりになる。わたしたちは、このような魂をおろそかにしてはならない。流れに逆らって泳ぐ者は、水流の全勢力と戦わなければならない。沈みゆくペテロに長兄イエスの手がさしのべられたように、このような人に助けの手をさしのべることにしよう。希望に満ちた言葉、確信をうながし、愛を目覚めさせる言葉を語ることにしよう。 COL 1340.1
あなたに兄弟の愛が必要であったように、心の病になやむ兄弟が、あなたを必要としている。彼は自分と同じように弱かったことのある人の経験を必要とし、彼に同情と助けを与え得る人を必要としている。わたしたちが、自分自身の弱さを知っているということは、困りはてている者を助けるのに役立つはずである。苦しんでいる魂を見たならば、わたしたちが神から与えられた慰めを、分け与えないで通り過ぎてはならないのである。 COL 1340.2
人間の思いと心と魂とが、生まれつきのままの性質に勝利するのは、キリストとの交わり、生きた救い主と個人的に接触することによってである。さまよい出た者にむかっては、全能の手が彼をささえていること、またキリストがその無限の人性によって彼をあわれんでおられることを語らなければならない。あわれむことをせず、助けを求める叫びに耳を傾けない律法と権力とを信じるだけでは十分ではない。彼は、温かい手を握り、同情にあふれた心に信頼する必要がある。神が常に彼のそば近くにおられて、憐れみ深い愛をもって、見守っておられることを、彼の心に銘記させなければならない。常に罪を悲しまれる天の父の心、なお差し伸べられている天の父の手、「わたしの保護にたよって、わたしと和らぎをなせ、わたしと和らぎをなせ」という天の父の声などを、彼に考えさせなければならない(イザヤ27:5)。 COL 1340.3
この働きにたずさわる時、わたしたちには、目には見えない友がある。傷ついた旅人の世話をしたサマリヤ人のそばには、天の使いたちがいたのである。神のご用をして同胞に奉仕するすべての者のそばにも、天使が立っている。そして、あなたはキリストご自身の協力を得るのである。キリストは、回復者であられるから、キリストの監督の下に働くならば、大いなる結果を見ることであろう。 COL 1340.4
わたしたちが、この仕事を忠実にするか否かに、他の人々の幸福ばかりでなくて、わたしたち自身の永遠の運命がかかっている。キリストは、すべて向上することを望む者を高めて、ご自分との交わりに入れようとしておられる。これは、キリストが父と1つであられるように、わたしたちをキリストと1つにするためである。わたしたちを利己主義から救い出すために、苦難や災難にあうことをお許しになる。神は、わたしたちのうちに、神の品性の特徴である同情とやさしさと愛をはぐくもうと望んでおられる。この奉仕の仕事を受け入れることによって、わたしたちは、キリストの学校に入り、神の宮廷にふさわしい者とされる。これを拒むならば、キリストの教えを拒むことであって、彼の前から永遠に離れることを選ぶことになるのである。 COL 1340.5
「あなたがもし、わたしの務を守るならば、……ここに立っている者どもの中に行き来することを得させる」——神のみ座をとりまく天使たちの間に、あなたを置くと主は言われるのである(ゼカリヤ3:7)。天に住む者たちが地上で行う働きに協力することによって、わたしたちは、天で彼らと交わる準備をしているのである。「救を受け継ぐべき人々に奉仕するため、つかわされた」(ヘブル1:14)み使いたちは、この地上で、「仕えられるためではなく、仕えるため」に生きた人々を喜んで迎えるのである(マタイ20:28)。わたしたちは、この祝福された交わりの中で、永遠の喜びに満ちあふれて、「わたしの隣り人とはだれのことですか」という質問に含まれた、すべてのことを学ぶことができるであろう。 COL 1340.6